第23章
この世の終わりが目前に迫っている。男が目指すオリュンポス山の山頂には一体何が隠されているのか?
濃密に垂れ込める霧の中を、オリュンポス山の頂目指して登ってくる人影を見たのは、もう数十年――いや。百数十年振りのことになるだろうか。
はじめの内こそ、全能の君がこの老いぼれめに交代要員でも差し向けたのかとも思ったのだが、その顔ぶれを見るにつけ、どうやらそういうわけでもないらしいと合点がいった。
目深にフードを被った長身の男はその背中に痩せ細った少年を担いでいたし、そのかたわらに付き従っているのは、まだ年端もいかない少女だけ。
「道にでも迷いなさったのかね」
サハの言葉にはしかし、誰もこたえる者はなかった。
「ここはオリュンポス山で間違いないかね」
「あんた方、そんなことも知らねえでここまできたのかね」
サハは歯のない口を開けて少し笑った。
「間違ってはおらんよ。まさしくここがオリュンポスの頂だ」
男と娘は顔を見合わせて二言三言言葉をかわした。
「あんたら、ジャキスの札所を通らなかったのかい」
「飛行船が不時着したんだ」
「そりゃあいけないな。どの辺りに墜ちなすったんだい」
男はここから二日ほど下った辺りだとこたえた。
「それにしたって、ずいぶん思い切ったことをしたものだ。山を下りるどころか登ってくるだなんて」
男は、はじめからオリュンポスの頂を目指すつもりだったのだと言い、懐から袋を取り出してサハに渡した。
「これは心付けだ。これで足りるかね」
袋の中身は金貨だった。
「足りないなんて言わないさ。いや。こんなにも頂けるだなんてね……」
「我々がここにきたことは――」
「無粋なことは言わない約束でさあね」
助かるよ、と言うと、男は顔を隠していたフードを脱いだ。なかなかの男前じゃないか、と言うと、男は目を細めて笑った。
「本当のことを言うとね――」
サハは遠くを見ながら言った。
「金貨なんぞを貰っても、使うあてなんかこれっぽっちもないんだがね」
「もうどれくらいここに?」
サハは虚ろな目をして数えていたが、
「二百年は下らんね……」
「そんなにも長いあいだここにいて、飽きないかね」
サハは歯のない口を開けて笑った。
「どこにいたって同じさあね。それよりここにいると、たまに面白いものを見ることができたりするものなんだ」
「それはどういう?」
「ここには、強い意志を持った旅人がやってくる。それは全能の君だったり、あんた方のような親子だったりもするんだがね」
「わたしたちは親子では――」
「わかっとる」
サハは男の台詞を最後まで聞くことなく腰を上げた。
「あんたたちは親子ではない。旅人でもない。まして全能の君でもない。だが、あんたらの目的はいつも同じだ」
〝天上の塔〟
この世ならざる新世界へとつづく夢のアーキテクチャ。
地獄を支配している全能の君が天上の星を攻め落とすために造った天上の塔ではあるが、その全能の君の命令で塔が稼働したことは数えるほどしかないという。
「塔は――」
男は周囲を見まわしながら言った。
「いったいいつ頃現れるのかね」
「ほどなく……」
サハはかたわらで佇む少女を見ながら言った。
「天上の塔は約束を違えたことがない。いつも同じ時刻、同じ場所に門を開くようできてるのさ」
「他にもわたしたちと同じようにここにきた者があったと言ったね?」
「ああ、長いこと門番をやってると、色んなことを経験するものだ」
「他の者たちというのは、門をくぐったあとどうなったんだ?」
サハは少しのあいだ考えてから、
「その先のことは知らないね。わたしはあくまでも地上で門を見張っているだけなのだから」
「上に行って帰ってきた者は?」
「わたしが知るかぎりでは一人だけだ……」
それならいいんだ、と言ったきり、男は口をつぐみ、子供たちをともなって教会へとつづく道を登っていった。
「騎士様……」
マリアンヌは言った。
「ここは聖地ではないのですね」
「そうだ。きみは言っていただろう? 母上にもう一度会いたいと」
「でも、エミリアたちに会わせてくれるというのは――」
「そう事を焦ってはいけないよ、マリアンヌ。彼女たちに再会するということは、きみたちを聖地に連れて行くということに他ならない。そうなれば、きみたちはふたたび聖地に囚われることになるだろう。いくら異端審問官のわたしでも、特定の天使を聖地の外に勝手に連れ出すことはできないんだ」
「それじゃあ、彼女たちにはもう会えないということですか?」
優しい子だ、マリアンヌ。
だがそうなだけに、自分たちだけが助かる道を選ぶことに拒否反応を起こしているように見受けられる。しかしそれは、この絶好の機会をみすみす見逃してしまう危険性をはらんでいた。
「天上の塔を登れば――」
ファントムは言った。
「きみたちの身柄は安全に保護されるだろう。しかしここに残れば、またいつ危険な目に会うかわからないんだ。それに、きみたちはいつ悪魔憑きを起こすかわからないという状況に絶えずさらされつづけることになる」
「ぼくは――」
毛布にくるまれたままのジョシュが口を開いた。
「ぼくは早く天上の星に行きたい。きみはわかっていないんだよ、マリアンヌ。魔物たちがどんなに凶暴なのかをね……」
ジョシュの言葉には重みがあった。それは、マリアンヌを黙らせてしまうほど強い意味を宿していた。
「ごらん……」
教会の天窓を見上げると、遙かな高みから地上へと下りて来ようとしている天上の塔が小さな点となって視認できた。
「あれが天上の塔……」
マリアンヌは、顔にかかった髪を耳にかけながら言った。
天上の星に通ずる唯一の移動手段が、刻一刻とオリュンポス山の頂目がけて近づきつつあった。
「さあ、支度をして……」
ファントムはジョシュにかけていた毛布をあずかると、手を差し伸べて彼が立ち上がるのを手伝った。
牛鬼から解放されて間もなかった頃こそ衰弱がはげしかったものの、体力の面でも筋力の面でも、彼が立ち直るのは思いの外早かった。あるいはこれも、天使の特別な力がはたらいていたせいだったのかもしれない。
「門が開くぞ」
サハの声に導かれて、三人は教会の外に向かって歩き出した。
それはまるで巨大な塔がオリュンポスの不思議な力に導かれてでもいるかのように正確に舞い降りてきた。これほど巨大な構造物がどうやって宙に浮いているのか、ファントムには知る由もない。
天上の塔が地表すれすれのところまで降りてくると、その門の向こうから高らかなファンファーレが鳴り響き、可動橋がゆっくりとファントムたちの前に下ろされた。
「さあ、マリアンヌ……」
ファントムがうながすと、マリアンヌはジョシュの手を取ってゆっくりと橋を渡りはじめた。
門の手前まで来たところで純白の翼を持った天使が姿を現し、その顔に厳かな笑みを浮かべてマリアンヌの肩に手を添えた。
「騎士様……」
マリアンヌが不安そうな面持ちで振り返ると、ファントムは可動橋の手前で立ち止まったまま優しげに微笑んでいた。
「騎士様、どうして?」
「ここから先はきみたち二人で行きなさい」
「でも、騎士様……」
ファントムは頭を振ってマリアンヌにこたえた。
「わたしにはまだやり残したことがある。それはわたしにしかできない大切な役目なんだ」
ファントムの目の前で門がゆっくりと閉ざされ、ファントムはマリアンヌたちと分かたれた。
これでいい……。
ファントムの胸に万感の想いが満ちあふれた。
この世に下った無数の天使のことを想えば、ファントムが救ったのはたったの二人にしかすぎないだろう。しかし、ファントムにとって、彼女を救うことができたのは、数字以上に重要な意義を含んでいた。
可動橋が巻き上げられ、天上の塔がゆっくりと地表を離れてゆく。
門の上に設けられた窓からマリアンヌとジョシュが顔をのぞかせていた。
ファントムはその場に立ちすくんだまま、遠ざかる天使の面差しを見つめつづけた。
もしかしたらこれが最後になるかもしれない――
ファントムは気づいていた。
火竜を使ってネロを船の外に放り出したとき、ネロはファントムの意識下に自分の魂の萌芽を植えつけていた。もしもこれが天上の星で芽生えていたら、ファントムは体の良い媒介者としてネロを天上の星に導いてしまうところだった。
「出てきたらどうだ」
かたわらに立ち尽くしている男が急にそんなことを言い出したものだから、サハはとまどいを隠せない様子だった。
サハの背後――教会の陰にそれは姿を現した。
「お前の目論見はわかっている。わたしはお前を天上の星に連れて行こうとは思わない」
サハはファントムの視線を追って振り返ったが、そこになんらかの異常を認めることはできなかった。
「あんたはさっきからなにを……」
「あなたは教会にでも入っていなさい」
なるほど――
ネロの姿はファントム以外には見えていないようだ。
それはすなわち、ネロがファントムの意識の外には出ていないことを意味していた。
ファントムは自らの心に呪縛をかけて、ネロが己の心から外へと逃げ出さないようきつく縛めた。
――ファントム……。
「どうした」
――マリアンヌは行ってしまったのかい?
「見ての通りだ」
――ここは暗くて、外がうまく見えないんだ。
「マリアンヌは天上の星へと旅立った」
――驚きだな。
「なにが……?」
――ぼくはてっきりきみも彼女たちと旅立つものだと思っていたから……。
「お前の存在には気づいていたさ」
――どうしてもぼくを天上の星に連れて行きたくないんだね。
「お前は悪魔憑きを起こしたんだ。そんな状態で天上の星に行ったところで塵に還るだけだろう」
――きみも見ただろう?
「どうやったのか知らないが、お前は堕天使に戻ることができる」
――それなら――
「それでもだ、ネロ。いつまた悪魔憑きを起こすかわからない状態で、彼女たちと行動を共にすることは許さない」
――ぼくは天使だ。
「いいや。ネロ、お前は悪魔だ。そうだろう、全能の君よ……」
そこでネロは少しのあいだ間を置いた。
――きみには驚かされるよ、ファントム。
「悪魔から堕天使に戻るだなんていう離れ業は、あなたにしかできないでしょう」
――知っていたのかい?
「知るわけがない……」
――そんなことだろうと思ったよ。
ネロは教会の陰から一歩二歩と前に進み出てきた。
ファントムはネロに背中を向けたまま、腰のホルスターに右手を伸ばした。
――マリアンヌには――
ネロはおもむろに語りはじめた。
――彼女が堕天したときから目をつけていた。
――彼女が他の魔物などに目をつけられないように、堕天した直後に身柄を保護し、サン=ミエールへと移送した。もっとも、彼女はそのときのぼくの姿を見て失神してしまったけれどね。ぼくはそのとき、半獣神と同調していたから、それもまた無理からぬことだった。
「どうして彼女に固執する?」
――ぼくはね、ファントム。
ネロはファントムの目の中で両手を広げた。
――知りたいんだよ。
「なにを」
――神が惚れ込んだ人間の世界というものにさ。
――神はね、ファントム。自分の姿に似せて人間を創ったんだ。
――その手には、世界を生み出す才能まで付与されていた。
――ぼくたち天使を差し置いてどうしてよりによって人間なんかに天地創造の力を与えるのか、ぼくには不思議でならなかった。
「嫉妬でもしているのか」
――そうかもしれない。
そこでネロは――ルシフェルは少しだけ言いよどんだ。
――けれどアダムは……。
――彼はその資格を投げ打って、イヴとともに楽園を離れた。
――ぼくは、それを愚かだと思った。
――なにが彼をそうさせたのか知りたかったんだ。
――だからぼくは、人間の世界に触れてみたかった。
――だけど、アダムやイヴとの接触は固く禁じられていた。
――ぼくは、人間に嫉妬したことによって神の怒りに触れ、
――天上の国を追われた。
――だから、人間の世界をよりよく知っている素材を探していたんだ。
――忘却の河を流れ下ってもなお、生前の記憶持ち合わせている天使を
――ぼくは長いあいだ待ち焦がれていた。
「それがマリアンヌだったというわけか」
――そうだ。
――人間の世界に天使病を流行させることで
――堕天使の数を増やすことに成功した。
――それまでには考えられないほど多くの子供たちが死を迎え、
――ぼくの思惑通りに地獄に堕天させられていった。
――このまま堕天使を増やすことさえ出来れば天上の星を攻め落とすことも可能なんじゃないかと思わせてくれるほど、ぼくの目論見は上手くいっていたんだ。
「そう思うのなら大人しくようすを見守っていればよかったではないか」
――彼女からは人間の匂いがした。
――忘却の河などという余計な篩いにかけられた白痴ではなく、純然たる人間の匂いがしたんだ。
――そこに余計な邪魔が入った。
災厄が発生したのだ。
いかに全能の君といえども、いつどこで災厄が発生するかまではわからないらしい。
――マリアンヌこそ、まさに金の卵というべきだ。
――彼女の口から語られる地上の話をこそぼくは期待していた。
――それなのに……。
ファントムの視界の中で、ネロを包む黒い炎が勢いよく燃え上がった。
ファントムはホルスターから銃を抜き放つと、立てつづけに引き金を引いた。
しかし、ファントムの中に巣くったネロにその銃弾が当たることはなかった。
「それはすまないことをしたな、ネロ……」
ファントムは替えの銃弾をシリンダーに装填すると、自分のこめかみに銃口を向けた。
――きみには驚かされることばかりだったよ、ファントム。
――だがここでお終いだ。
――為す術もなく息絶えるがいい……。
これが上手くいくとは限らない。
しかし、これ以外にルシフェル=ネロを止める手立ては思いつかなかった。
ネロの体を包む黒い炎が勢いよく燃え上がった。
次の瞬間、一発の銃声がオリュンポスの高みにこだました。
ファントムの中で暗闇が世界を覆い、永遠の夜の中で一つの灯が消えようとしていた。
〝マリアンヌ……〟
ファントムは、薄れゆく意識の中で彼女の名を呼んだ。
最期の言葉はしかし、天上の星が煌めく広漠とした空へと滲んで消えた。
数年ぶりにアクセスしました、えんまるです。当時はまだこの作品でのデビューを夢見ていたため、ラストまで掲載するのをためらっていたのですが、そろそろ公開しても良いのではないかと心に決めました。残るエピソードは1話となります。最後までお楽しみ下さい。




