第21章
ネロのあとを追うロキだったが、彼が目撃したものは……
「光が、こうパーッと燃え上がりながら飛んできたんでさあ」
閑散としたスラム街の小径を歩きながら、ディギーは大きな身振りを交えて言った。
「今の今まで生きてきて、堕天使なんてえのは見たこともないけど、きっとあれがそうなんだろうだなんて、身内のもんがみんな口々に言うもんだから連絡した次第でして……」
道端で商売をしていた連中は、ロキの姿を認めるが早いか、こちらとは目を合わせようともせず店じまいの支度に取りかかっていた。
「あいつらみんな、トラブルに巻き込まれちゃかなわねえってんで、さっさととんずらここうって腹づもりなんでしょうな」
「ここから近いのか?」
「へ?」
「天使が墜ちた現場は近いのかと聞いている」
「この通りをまっすぐ行けばわかりまさあ」
チットの老人は顎髭をしごきながら言った。
「わっしはこの辺りで失礼させていただきやすぜ」
「現場まで案内するはずじゃないのか」
ロキは自分の腰ほどしかない小さな老人を見下ろしながらそう言うと、懐から謝礼の入った袋を取り出して彼に手渡した。
「勘弁願いてえ。異端審問官と一緒にいるってだけでもなにを言われるかわかったもんじゃねえって言うのに……」
「世話をかけたな」
ディギーは報酬を受け取ると、スラムの小径を曲がって姿を消した。
正確に言えば堕天ではない。
ロキは歩きながら独りごちた。
ネロ・バルトローはすでに堕天してから半世紀以上経過しており、ファントムからの情報によれば、ゲシュタルト崩壊を起こして悪魔憑きになってしまったと考えられている。
悪魔憑きを起こした天使は、そのとき熱心に固執していた事物に執着する傾向がある。
今回のケースでは、その対象がマリアンヌだったというわけだ。
それにしても惨めなものだ。半世紀もの長きに渡って天使として過ごしてきたにもかかわらず、堕天したばかりの少女に固執して付きまとうだなんて。
通りをしばらく歩いた先で、ロキはま新しい瓦礫が足下に転がっているのに気づき、かたわらの建物を見上げた。
ここか……。
見上げた先に、壁に大きな穴を空けたアパルトマンがあった。穴のまわりは、高熱で焼け焦げたかのように黒く煤けている。
ロキは意を決したように大きく息を吐くと、悪魔憑きが眠る建物の中へとおもむろに歩を進めていった。
なんという強烈な瘴気だろう。
誰もいない廃墟の中で、目当ての部屋のまわりだけが異様な邪気に満ちている。
「聖なるかな聖なるかな聖なるかな」
ロキは聖句を唱えながら歩を進め、万が一に備えて腰に帯びた小剣を抜き放った。
部屋の扉は強い力を加えられて内側からひしゃげ、廊下にまでその残骸が散らばっている。
ロキは瓦礫をまたいで部屋の中に侵入すると、焼けただれたように黒く変色した人形の頭を剣の切っ先で持ち上げ、奥の部屋に向かって放り投げた。
ザッ――
風のざわめきにも似た擦過音が聞こえる。
「ネロ・バルトローだな」
ロキは構えた小剣を手の中で弄びながら問いかけた。
「異端審問局の者だ。あなたの身柄を保護しにきた」
〝マリ――ア――ンヌ……〟
だめだったか――
かつて堕天使だった少年は、自らが生み出した心の闇に呑み込まれていた。
ゆらゆらと蠢く不定形の炎の渦が、ネロの体を絡め取っている。
もしも今、周辺に堕天使がいたとしたら、一も二もなくネロが発する邪気に呑まれて、連鎖的に悪魔憑きを起こしていたことだろう。
ロキは構えていた小剣を鞘に収めると、ベルトから聖水の小瓶を取り出して、その中身をネロに向かって振りかけた。
その瞬間、彼は耳をつんざく奇声を上げ、聖水はネロを取り巻く邪気の炎によって一瞬で蒸発してしまった。
「ネロ・バルトロー! わたしはあなたの身柄を保護するためここに派遣されてきた!」
〝異端審問官――〟
その声はまるで少年のものとは思えないほど低く、嗄れていた。
〝マリアンヌはどこだ〟
「それは教えられない。わたしはただ、きみの力になりたいだけだ」
しばらくの沈黙が過ぎた。
〝ロキ・デルフィス二等審問官――〟
「どうしてぼくの名を――」
そこでロキは自分の心を読まれていることに気づき、慌てて精神の扉を閉ざした。
〝無駄だ、審問官。お前の記憶はすでに読ませてもらった〟
こんな話は聞いたことがない!
ロキは小剣の柄に手を伸ばしかけ、そこで動きを止めた。
いや。止めざるを得なかった。
体の言うことがまるできかないのだ。
一介の悪魔憑き風情が特殊な訓練を受けた異端審問官の心を読んだだけでなく、その体の動きまでコントロールするだなんて、前代未聞のことだ――
ロキは信じられない想いで、自らの意思とは関係なく、自分の手が小剣を握りしめるさまを見つめた。
〝チェックメイトだ〟
ロキは両手で小剣を逆さに構え、自らの腹を串刺しにした。
激痛を感じたとたんに、ロキは自分の体から生気が放出されるのを見た。
放出された先にいたのは、悪魔憑きの少年、ネロ・バルトロー。
どうやってか、ネロはロキの生気を吸い込み、忌まわしい闇の渦から抜け出そうとしていた。
――何者だ……。
だがしかし、ロキの言葉は口をついて出ることはなく、そのまま闇に吸い込まれていった。
「お前の与り知らぬことだ、二等審問官」
このとき、ほんの一時のことではあるが、港湾都市ミランダの一画が完全な闇に呑まれ、生きとし生けるものの影という影が炸裂したと記録されている。
***
飛行船エクスカリバー号の一室で、ファントムはジョシュ・バーネットと久方ぶりの再会を果たしていた。
「具合はどうだね?」
ジョシュは見るからに痩せ細ってはいるものの、徐々にではあるが肌の血色を取り戻し、流動食を口から摂取することができるほどまで回復していた。
「神父様のおかげでものを話せるまでになりました」
ジョシュは消え入るような掠れ声でそう言うと、ファントムの手を握って感謝の言葉を述べた。
「わたしは当然のことをしたまでだ。きみが元気そうでなによりだよ」
このようすなら――
ファントムは思った。
彼が悪魔憑きを起こす可能性は低いだろう。
ファントムは病室を出ると、ひっそりと静まりかえった一等船室の扉を叩いた。
「マリアンヌ」
彼女はファントムに気づくと、顔を上げ、胸の前で組んでいた手をほどいた。
「お祈りかね」
「みんな無事であるように祈っていたんです。エミリアも、ネロも、サラもみんな……」
ファントムはマリアンヌのかたわらにしゃがむと、彼女の目をのぞき込んで言った。
「ネロの消息はわたしの部下が確認中だ。エミリアやサラは大丈夫。きっとまた近いうちに会えるだろう」
「彼はどうなんです?」
マリアンヌはファントムの背後に目をやって言った。
「ジョシュのことかね。大丈夫。容態は安定しているよ」
「だいぶ具合が悪そうでしたけど……」
「きみは保護されたばかりのジョシュを見ていないからね。あれでもだいぶ回復してきたところなんだ」
「そうですか……」
「なにか気がかりなことでもあるのかな?」
「エミリアたちになんて言えばいいのかわからなくって」
「ネロのことだね?」
マリアンヌは無言のままうなずいた。
「それに関してはわたしが力になろう」
「どういうことです?」
「わたしには人に暗示をかける特別な力がある。その力を使って、彼女たちからネロの記憶を消すことができるんだ」
「でもそれじゃあ……」
「残酷、かね?」
マリアンヌは少しのあいだ目を伏せた。
「でもどうだろう。彼が悪魔憑きを起こして、自分たちとは別種の存在に変わり果ててしまったと真実を告げるのもまた残酷なのではないかね? それに、天使たちには悪魔憑きの情報を教えてはならないという決まりがあるんだ。ネロはずいぶん顔が広かったようだから全員から記憶を消すのは骨が折れるだろうが、どんなに大変なことであろうともそれが最善の策だとわたしは思っている」
だからマリアンヌ、早くネロのことを忘れた方がいい――
ファントムは心の中で独りごちた。
そこまで話してもマリアンヌの表情は沈みがちだった。
「他にもなにか心配事があるのかね?」
「わたしの母のことなんです」
「母上がどうしたんだね」
ファントムは訝しげにたずねた。
「母はわたしが幼かった頃に亡くなりました。もし母がここにいるのなら、一目で良いから会ってみたいと思って……」
「きみは自分の母上がこの世界にいると思っているんだね?」
「違うんですか?」
「きみの母上は生前、なんらかの罪を犯したのかな?」
「いえ。そういうわけではありません。でも、母がどこかの天上の国にいるのなら、わたしもそこで暮らしたいと思っていただけです」
「きみはなにか勘違いしている。ここは地獄だ。天上の国なるものはこの世界には存在しないんだ」
「でも、ネロが言っていました。この世界に産み落とされた御霊は、天上の国と地獄に分かたれるんだって」
「ネロの言葉は間違っている」
ファントムはマリアンヌの隣りに座って言った。
「おそらくきみは聖地のことを天上の国と言っているのだろうが、それは間違いだ。この世界はあくまでも地獄であり、聖地と呼び習わされている地域は、地獄に点在する光射す国のことであって、それ以上のものではない。天上の国は、それよりも遙かに上、空の彼方に浮かぶ天上の星そのものを指している」
「天上の星……」
「きみの母上はおそらく、天上の星にいるものと思われる」
「それじゃあ、わたしはもう二度と母に会えないということですか?」
「それはわからない」
ファントムは言った。
「母上に会いたいかね?」
「ええ……」
マリアンヌはうつむいたままそうつぶやくと、目に溜めた涙で頬を濡らした。
それにしても――
と、ファントムは思った。
ネロという少年は、どうして極秘事項である天上の国のことを知っているのだろうか。
そして、いまだに連絡のつかないロキ二等審問官――
彼の身になにか起きたとでも言うのだろうか。
窓の外では、厚く垂れ込めた雲海が右から左へと流れすぎ、エクスカリバー号を取り巻く火竜の群れのあいだを縫うように、二度、三度と、美しい稲妻が宵闇を切り裂いてはまた消えていった。
残りわずかとなりました。ラストまであと一息です




