第20章 欺瞞
燃えさかる客船で対峙するファントムとネロ。悪魔憑きを起こしたネロに救いの道はあるのか?
闇の中で、ファントムは邪悪な炎をまとったネロ・バルトローと対峙していた。
「話は聞いている」
返答はない。
「船を海底火山から救ったのはお前だな?」
ネロは右手で血にまみれた口元をぬぐった。
彼の足下には、たった今殺害されたばかりの魔物の亡骸が横たわっている。
力の使いすぎで我を失い、飢えを凌ぐため、手当たり次第に犠牲者を出した、そんなところか。
「そんな状態でマリアンヌに会ってどうする?」
ネロは曇った瞳でファントムを見据えた。
「彼女を巻き添えにするのはお前の本望ではないだろう」
〝マリアンヌ……〟
ネロの言葉が空間を超えて伝わってくる。
「彼女を解放しろ。我々が聖地に連れ帰り、彼女の身に危険が及ばないよう警護すると約束する」
ネロが一歩前に踏み出すのを見て、ファントムは大剣を握る手に力をこめた。
戦るのか――
ファントムは固唾を呑んだ。
ゴライアス号の乗員から仕入れた情報では、白い光をまとった少年が海底火山を鎮めたことに間違いはなさそうだった。これは天地創造を行うに等しい力だ。ファントムはまだ、創造者級の悪魔憑きと接触を持ったことがない。
それを言うなら、そんな強者と戦り合った異端審問官などこの世には存在しないのだが。
ネロ・バルトロー……。
いったい彼が何者なのか、いまだに正体を推し量ることができないままだ。
衝突は突然だった。
音もなく突風が吹きつけたかと思うと、ファントムのかたわらに彼の少年が現れ、左手を一振りした。次の瞬間には、ファントムは壁に向かってはじき飛ばされ、背中をはげしく強打した。
ファントムは大剣を振り上げて応酬したが、その刃がネロの体をとらえることはなかった。
ネロは地面を蹴って跳躍すると、天井に背を向けて宙に浮かび上がり、右手にまとわりつく炎をファントムに向けて撃ち放った。
ファントムは地面を転がって炎をかわすと、態勢を整える間もなく夢中で前方に跳びかかり、気配だけを頼りに大剣を振り捌いた。
確実にとらえたはずだった。
しかし、刃に残る手応えは肉を切るそれではなく、風にたなびくカーテンを斬りつけたときのような頼りないものだった。
どういうことだ?
ファントムはこれまでに経験のない戦いにとまどいを隠せなかった。
まるで実体ではなく、朧気な幻影とでも戦っているかのようだ。
ネロは横に移動しながら立てつづけに炎を放った。
最初の炎を切っ先で薙ぎ払ったとき、ファントムは異変に気づいた。
炎がはじかれることなく、鞭のように剣に絡みついたのだ。
動きを封じられたファントムは、つづく攻撃を外套で振り払い、ネロの姿を目で追った。
唐突に目の前が暗くなったと思った次の瞬間、ファントムの耳元でネロが囁いた。
〝マリアンヌは渡さない〟
ファントムは剣を手放して右手で闇を薙ぎ払った。
「お前にとって彼女はなんだ」
〝渡すべからざるものだ〟
「どうして彼女に固執する!」
〝返せ〟
〝返せ〟
〝返せ――!〟
ファントムの頭の中でネロの言葉が炸裂した。
完全に我を失っている。
このままの状態で彼女をネロに引き渡せば、連鎖的に悪魔憑きを起こす可能性が高い。いや。それはもう確率の問題ではなく、彼女が闇に呑まれてしまうだろうのは間違いなかった。
ファントムははげしい衝撃を受けてはじき飛ばされた。
態勢を整えると同時にホルスターから銃を抜き放ち、炎の中で奇声を上げる少年に向かって全弾発射。休むことなくシリンダーを空け、聖水をこめた弾丸を装填する。
少しは効果があったのだろうか、ネロは炎の中で頭を抱えて叫び声を上げている。
その体にはしかし、銃創の類いは一つも見あたらなかった。
〝マリアンヌ――!〟
銃を構えたファントムの前で、ネロの体がゆっくりと闇に溶け込んでいった。
ファントムは彼の額に照準を定めた。
「聖なるかな聖なるかな聖なるかな」
ファントムは祈祷を唱え終えると、躊躇することなく銃の引き金を引いた。
「汝の魂に安らぎあれ」
阿鼻叫喚と化した巨大船ゴライアス号に断末魔の悲鳴が響き渡り、眩いばかりの強烈な白光がファントムの姿を呑み込んだ。
***
「わかりません」
毛布にくるまったまま、マリアンヌは言った。
「それでは、サン=ミエールを出ようと言い出したのはネロ・バルトローの方だったんだね?」
「はい……」
ファントムは紅茶の入ったカップを置くと、質問をつづけた。
「どうしてサン=ミエールを出ることになったのか話してくれるかな」
マリアンヌは小さく溜め息をついて言った。
「彼は――ネロは、サン=ミエールで災厄が起きたから、悪魔憑きにならないように避難するんだと言っていました」
たしかに、大規模な災厄が発生した場合には天使の避難は急務だが、今回の災厄はあらかじめ予言されていたため、比較的限定的な被害で済み、つつがなく浄化が行われた結果、天使の移送は取りやめになっていた。
災厄の最中にサン=ミエールを脱出したために現状を見誤ったとでも言うのだろうか。たとえそうだったとしても、天使二人だけで聖地を脱走するなどという話は前代未聞のことだし、時期尚早だったと言わざるを得ない。
「どうしてあの船に乗っていたんだね」
「みんなあの船でサン=エルトロを目指すはずだって……」
「ネロが言った?」
マリアンヌは無言でうなずくと、
「サン=ミエールの使徒たちにとって、避難先の第一候補がサン=エルトロになるはずだと言っていました」
しかし、彼の予想は間違っていた。ゴライアス号には彼女たちの他に天使は一人も乗ってはいなかったのだ。
それにしても、彼はどうしてそこまで踏み入った情報を知っているのだろうか。
これに関してはテレシア卿に事情を聞く必要がありそうだ。
「それに――」
マリアンヌは意を決したように話しだした。
「わたしの友達がサン=エルトロに移送されたって聞きました」
「サラ・ディキンソン?」
マリアンヌは沈み込んでいた顔をパッと輝かせて入った。
「そうです! なにかご存じではありませんか?」
「残念ながらサラ・ディキンソンはサン=エルトロには移送されていない。彼女の身柄はサン=システィナに移されている」
「でもネロが……」
「誰が彼にそのような情報を教えたのか知らないが、こちらの情報に間違いはない。それに、彼女は例の騒動で一時的に体調を崩しはしたものの、他の聖地に移さなければならないほどの重傷ではなかったようだ」
マリアンヌは動揺を隠せないようすだった。
ネロという少年が彼女にもたらした情報にはいくつか矛盾点がある。彼はもしかすると、なんらかの考えのもとに彼女を騙していたのではないだろうか。それとも、彼に偽の情報を与えた第三者がいたとも考えられる。
「あの……」
マリアンヌが口を開いた。
「それで、ネロはどうなってしまったのですか? 彼は無事なんでしょうか」
ファントムは複雑な気分だった。彼女はあのような危険な目にあっても、今なお彼の安否を気にかけている。
「それはまだわからない。ゴライアス号から光が飛び出していったという目撃情報から、わたしの仲間が彼の消息を調べている最中だ。だが、もし彼の居所がわかったとしても、一度悪魔憑きを起こした使徒が、ふたたび天使に戻ったという前例はいまだかつてないから、彼と再会するという望みは、残念ながら叶えられそうにない」
「そう――ですか……」
マリアンヌは肩を落としたまま言った。
「わたしはこれからどうなるんですか?」
「きみには我々と共に聖地へと向かってもらう。悪魔憑きの影響がないかどうか調べて、その兆候がないと判断された時点でサン=ミエールに送り届けることになるだろう」
ファントムはそこで彼女の反応をうかがうと、つづけて言った。
「クリスティアーノが言っていたよ。なにも心配はいらない、と……」
とたんにマリアンヌの顔が輝いた。
「彼は無事だったんですね?」
「ああ。きみと同室のエミリアもずいぶんときみのことを気にかけていたよ」
マリアンヌは目に涙を浮かべながら、安堵したように言った。
「よかった……。本当によかった……」
「ファントム様……」
ちょうどそこにロキがやって来て、ファントムに耳打ちをした。
「ネロの居場所が絞り込めました。ミランダ北部のスラム街に謎の発光体が飛来したという目撃情報があります」
ファントムはロキをともなって室を出ると、後ろ手に扉を閉めた。
「わたしは彼女とともに聖皇庁に向かう。お前はネロの所在をつきとめ、状態を確認しろ」
「わたし一人でですか?」
「そうだ。もし万が一お前が持ってきた情報が誤りで、移送中のマリアンヌが彼に襲われでもしたらどうする? 悪魔憑きの面倒はお前が見ろ。天使の身柄はわたしが保護する」
「わかりました」
「いいか。ネロ・バルトローがいまだにマリアンヌに執着しつづけていたとしたら、すぐにでもわたしに知らせろ。聖皇庁を通してではなく、直接エクスカリバーに知らせるんだ。わかったな」
「はい!」
ロキは意気揚々と返事をかえすと、飛行船エクスカリバー号を後にした。
この日を最後にエクスカリバー号は歴史の表舞台から姿を消すことになる。




