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エンジェル  作者: えんまる


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第19章 臨界点

窮地に陥った客船ゴライアス号。はたして船内でなにが起きているというのか?

 すさまじいばかりの瘴気が、貨客船ゴライアス号の中に濃密に立ちこめていた。

 天井には亀裂が走り、床と壁のあいだには不自然な隙間までできている。

 どこかから出火したのだろう、船内はどこも焦げ臭く、廊下を曲がった先には、血まみれの男女が数名、見るも無惨な姿で倒れ伏していた。

 吹き抜けのホールに出たところで、ファントムは構えた剣を振り捌いて、左右から襲いかかってきた魔物たちを出会い頭に斬り捨てた。

 いずれの魔物も、極度の興奮状態から我を失っているようだった。

 意識を同調させたうえで船内に侵入させておいた港湾管理局の職員が一人、物陰から受けた不意打ちによって行動不能に陥ってしまうなど、抜き差しならない事態がつづいている。

 悪魔と魔物が入り乱れて殺し合いを繰り広げているのだ。

 二等客室の扉を開けると、首筋を噛みちぎられた形跡のある悪魔の男が入り口のそばで座り込んでいた。

 彼は虚ろな目でファントムを見つめると、驚いたような表情を浮かべてふたたび力なくうなだれてしまった。

 ファントムは彼のかたわらにひざまずくと、おもむろにその額に掌を添えた。

 膨大な記憶の一端に触れたところで、ファントムは情報を選別するため、今日一日の短期間に絞って記憶を精査することにした。

 船を襲った海底火山のこと、その後乗客たちを襲ったパニック、生き残りをかけた血まみれの闘争があり、自分の部屋に行き着くまでの顛末を、まるで自分の記憶ででもあるかのようにまざまざと追体験することができた。

 その中に気がかりな情報を発見して、ファントムは眉をひそめた。

 彼はゴライアス号から逃げようと上部甲板に避難していたが、海面に下ろされた救命ボートがことごとく沈んでしまったのを見て船内に引き返している。

 その際、海の上に正体不明の白い光が浮かんでいるのを彼は目撃していた。

 ――これはいったいなんだ?

 先ほど記憶を走査した魔物もまた、同じような光景を目撃している。

 彼らの記憶によると、この白い光が空中を漂いはじめたところ、火山の活動が収束に向かっていったように見受けられるのだが、今までにそのような現象を聞いたことは一度としてなかった。

 まさかここまで高度な能力を秘めた何者かがゴライアス号に乗り込んでいるとでもいうのだろうか。

 もしもそうだとしたら、この能力はまるで――

「ファントム様――」

 ゴライアス号に乗り込んでいるロキが、ファントムの傀儡に話しかけた。

「こちらで捕獲した乗務員の記憶によると、彼は展望デッキでマリアンヌと思しき少女を目撃しているようです」

「本当か?」

「直接意識して見ていたわけではないので記憶の中の輪郭がぼやけていますが、周辺視野にちらりとそれらしい顔が映りこんでいました」

 やはりこの船のどこかに彼女はいる。

 それがはっきりしただけでも値千金というものだ。

「ネロは彼女と一緒ではないのか?」

「ええ。それが――」

 ロキは少しためらうように言った。

「彼女は展望デッキの欄干から身を乗り出して、ネロという名前を叫んでいました。もしかすると彼は、救命ボートに乗り込んでいたか、あるいは海に投げ出されてしまったのではないでしょうか」

ファントムは傀儡として操っている港湾管理局の職員を一人、港に帰すことに決めた。すでに避難が完了している救助者の中に天使が紛れ込んでいるかもしれないからだ。

ファントムは天使の捜索をつづけるようロキに言い渡すと、船内に散らばった傀儡どもの視野を一通り見渡した。

 天使の尻尾が目の前にちらついている。

身柄を確保するまであと一息だ。


  ***


 ゴトッというくぐもった物音でわたしは目を覚ました。

 目を開けると、わたしは暗い箱の中にただ一人閉じ込められていた。

 張りつけられた板の節目から外をのぞくと、目の前に緑色の肌をした異形の顔があった。魔物はしかし、白目を剥いてすでに事切れているようだった。

 荒い息をつきながら、何者かがわたしを閉じ込めている箱に手をかけるのがわかった。

 蓋を開けたのは、馬と人間の合いの子のような顔をした巨漢の魔物で、わたしは髪を鷲づかみにされると、そのままつま先が地面に届かないほど高く体を持ち上げられた。

「ゴドフ、見ろよ」

 ゴドフと呼ばれたもう一体の魔物がこちらを振り返る。

「良い物を見つけた。こいつは天から俺たちへの贈り物だぜ」

 ゴドフは怪しむかのように目を細めて、

「そいつは天使か?」

 と訝しんだ。

 魔物はわたしに顔を近づけて匂いを嗅ぐと、高らかに笑いながら、

「間違いなく天使だ」

「ダニア、そいつは箱の中に仕舞っておけ。余計な連中の目に止まらないようにな」

「それがいい」

 ダニアはそう言って笑うと、つかんでいた髪を放して木箱の中にわたしを落とし、乱暴に蓋を閉めた。

 どこへ連れて行くつもりだろう。

 わたしは外に出ようと蓋を内側から蹴ったけれど、箱を引きずっているダニアにどやされて大人しくせざるを得なかった。

 火山活動が活発化し、いくつもの火球がネロを襲った。そのうちのほとんどはゴライアス号を逸れて近海に落下したけれど、それによって生じた高波が幾度となく船を揺さぶり、わたしはバランスを失って甲板の上に倒れた。

 それから――それからどれくらい経ったのだろう。

 ネロはいったいどうなってしまったのか?

 わたしは板の隙間からふたたび外を覗いた。

 暗い。船内を照らしているのは、小さな船窓から射し込む明かりだけ。

 辺りに人気はなく、歪んだゴライアス号が上げる金属の軋みなのか、悲鳴のような金切り音がどこからともなくこだましている。

「なんだ?」

 二人の足音とともに、箱を引きずる動きが止まった。

「見えたか?」

「なにが?」

「階段の下だ」

 糸を張り詰めるような緊迫感がよぎった。

「壁のところでなにか動いたんだがな」

「目の錯覚だろう」

 ダニアが手を放したのか、わたしを容れたまま箱が地面に倒れた。

「どうした?」

「兄貴――」

 ダニアはそう言い残すと、ナイフの刺さった首を掻きむしりながら、うつぶせに倒れ込んだ。

「ダニア!」

 残されたゴドフは、腰に帯びた剣を抜き放った。

〝マリ――ア、ンヌ……〟

 ネロの声だ。

 思いがけないほどすぐ近くから、ネロの声がわたしに呼びかけた。

〝マリアンヌ――〟

「ネロ!」

 わたしは叫んだ。どこ? どこにいるの?

 箱のまわりで葉擦れのようなざわめきがしたかと思うと、ゴドフの体に黒い影のような物がまとわりつくのが見えた。

〝マリアンヌ!〟

 力強いネロの言葉が脳裡に響いた。

「離れろ! 離れろってんだ、ちくしょう!」

 ゴドフに取り憑いた影から黒い炎が立ち上り、ゴドフは言葉にならない悲鳴を上げたまま闇雲に走り出した。

「ネロ!」

 わたしは叫んだ。

 返答はない。

 闇の向こうから断末魔の叫び声が上がったかと思うと、辺りは不気味な沈黙に閉ざされた。

「ネロ、お願い……。助けて」

 それからほどなくして、何者かの靴音がゆっくりとこちらに向かって近づいてくるのが聞こえた。

「ネロ!」

 わたしは彼の名前を呼び、箱の蓋を両手で叩いた。

 箱のまわりで足音が止まり、何者かが蓋に手をかけてゆっくりと箱を開いた。

 わたしはてっきりネロが助けにきたのだと思い込んでいたけれど、目の前に現れたのは、僧服に身を包んだ銀髪銀眼の神父様だった。

「マリアンヌ・フィオローニ・アグリエッティだね?」

 どうしてわたしの名前を知っているの――?

「わたしは異端審問官ファントム。聖十字騎士団と言った方がいいかな?」

「わたし――」

「大変だったろう、マリアンヌ。今からきみは聖十字騎士団の庇護下に入る。立ち上がれるかい?」

 わたしはあまりのことに言葉を失った。

 彼の手を借りて箱から出てはみたものの、膝に力が入らず少しよろめいた。

 そんなわたしを、ファントムと名乗った騎士様は優しく抱き留め、ちゃんと一人で立てるようになるまで支えてくれた。

「あの……。実はもう一人いるんです。彼は――」

〝マリアンヌ……〟

 また声が聞こえた。

「彼が――彼が呼んでる……」

〝マリアンヌ……〟

「彼を助けてください」

「ネロ・バルトローだな」

 ファントムは通路の奥に向かって視線を定め、強い調子で言った。

「マリアンヌ、下がって」

〝マリアンヌ!〟

「彼はすでに臨界点を突破している」

「臨界点……?」

 ファントムはじりじりと後退しながら、背中に帯びた大剣を抜き放った。

「なにをするの? 彼は敵じゃない。わたしを助けてくれたのよ!」

「いいかい、マリアンヌ。彼はもう彼であって彼ではない。まったく異質の存在になり変わっている」

「見たわけでもないのに! どうしてあなたにそんなことが――」

 そのとき、闇の奥から突風のような衝撃が放たれた。

「ネロ・バルトローはとうに臨界点を超えて、悪魔憑きを起こしている。どんなに暗い闇の中にあっても、私の目にはすべて見えている。間違いない。彼は悪魔憑きだ」

 そんな――

 わたしはネロの優しげな面立ちを思い返していた。

 危険をかえりみず、幾度となくわたしを救ってくれたネロが、どうして悪魔憑きなんかを起こすだろうか。

 まさかあのとき、火山の脅威からわたしたちを守ってくれたあの力の使いすぎで悪魔憑きを起こしたとでも言うのか? だとしたらそれは、あまりにも残酷にすぎやしないだろうか。彼は自分の欲望のためではなく、わたしたちを救おうとしただけではないか――

「ネロ・バルトロー。この娘はすでに異端審問官の庇護下にある。これ以上なんらかの接触を図ろうとした場合、それらの行動はすべて異端として認識され、断罪の対象となることをここに宣言する」

〝マリアンヌ――こちらへ……〟

 わたしはどうしていいのかわからずに、その場で震えていた。

 すると、背後から大柄な熊のような魔獣が近づいてきて、わたしの肩をつかんだ。

「マリアンヌ、彼は我々の味方だ。彼と一緒にゴライアス号を降り、港に向かってほしい」

「それじゃあ、ネロは……」

「彼は悪魔憑きだ。このまま彼と接触していると、きみにまで悪影響を及ぼしかねない」

「殺すのですか?」

 わたしは意を決して聞いた。

「彼はわたしたちを守ろうとしたんです。決して悪い人なんかじゃない。お願いです、彼を助けてください!」

 ファントムは少しのあいだ思考をめぐらせて、

「彼はずいぶんときみに執着しているようだ。もし今、この場を切り抜けることができたとしても、今後もきみの姿を追い求め、ふたたび害をなそうとするかもしれない。それでも彼をこのままにしておくべきだときみは言うのか?」

「わたしは彼を信じています。きっと彼ならどんな困難だって――」

「きみは、彼が悪魔として生きていくことを望むのか?」

 それはマリアンヌにとってあまりにも酷な台詞だった。この場で命を奪うべきか、ネロを悪魔として生かすべきかなんて、そんなことが選択できるほど、彼女はまだ成熟などしていなかった。

「この場はわたしに任せてほしい。きみはただ、友達の元へ帰ることだけを考えるべきだ」

 エミリア――クリス――彼女たちだったらどう言うだろう。このままわたしは引き下がるべきだと言うだろうか。

「ネロを助けて……」

 結局、わたしに言えるのはそのくらいのことだけだった。

 この場において、わたしにはなにも選択肢はないのだ。

「善処する」

 ファントムはそう言い放つと、闇がわだかまる通路の奥へと歩を進めていった。

 彼の手の中で、下段に構えた大剣だけが鋭い光を照り返していた。



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