第16章 密航者
この世界の暗部に触れるマリアンヌ。その先になにが待ち受けているのか?
黒塗りの馬車を避けて、わたしたちは幅の広い車道を横切った。
一台の馬車の前で、わたしは、実際に客車を引いているのが馬ではないということに気がついた。目元を覆う隠しの隙間からは白濁した眼球がのぞき、額からは螺旋模様の入った角が一本誇らしげに屹立している。全身を闇色の毛並に覆われ、巨大な蹄を石畳に叩きつけながら荒い呼吸をしているその獣は、馬とは似て非なるものだった。
「マリアンヌ……」
前を行くネロが立ちどまって、わたしの顔を覆うヘッドドレスを直してくれた。
「あまりきょろきょろしないで。怪しまれないようにしなきゃ」
「今のはなに? ここにいるのはみんな――」
二足歩行をする蜥蜴のような異形の生物が、巨躯を揺さぶりながら漫然と目の前を横切って行く。隆起した筋肉の上に銀の鎧を身に着け、長衣の裾を翻している。大ぶりの曲刀を腰に帯びているのを見つけて、わたしは思わず息を呑んだ。
「言っただろう? ここから先は人外の世界だって……」
わたしは恐怖のあまり肩をすくめ、ぐるぐる巻きにしたストールに顔を埋めた。
「顔を隠して……。誰とも視線を合わせてはいけないよ」
ネロはそう言うと、すぐさま黒いハットを目深に被り直した。
わたしは膝上までしかない裾の短いドレスに細かいゴシック模様が入ったタイツを履き、腕には肘まである長い手袋をはめていた。その上、頭には顔の半分ほどもある大ぶりなコサージュを飾り、レース編みのヘッドドレスで顔の中ほどまでを覆い隠している。まるで王宮で開かれる仮装パーティーにでも呼ばれたかのような豪奢で異様な格好である。
すべてネロがどこかからたった一人で調達してきたものだ。
わたしはこんな恥ずかしい格好は嫌だと言ったのだけれど、彼によるとこれから向かう街ではこういう服装の方が目立たないのだという。わたしはしぶしぶ服を着替えさせられたわけだが、今になってみるとネロの言葉が正しかったのだと理解出来る。
はげしい往来を埋め尽くしているのは、どれも聖書や神話で見たような異形の生き物ばかり。中にはわたしたちとなんら変わりのない人間の姿もちらほらと見受けられるものの、彼らの手や足には枷のようなものが嵌められていたり、皮革製の首輪をつけられている人までいるではないか。
「中にはね――」
わたしは、先ほどネロが言った言葉を思い出していた。
「一見しただけではぼくらと見分けがつかない生き物がいる。それは、生前罪を犯して地獄に堕とされた亡者だったり、誤ってこの地に堕天した天使だったりする。中でも一番厄介なのは〝悪魔〟だ」
いったいどれが亡者でどれが悪魔なのだろう……。明らかに労働を強いられていると見受けられるのは亡者と見て間違いないだろう。それでは、異形の魔物から独立して歩いている人たちがみんな悪魔ということになるのだろうか……。
ネロは説明をつづけた。
「彼らには天使を見分ける特別な力がある。瞳をのぞきこんだり、体の一部に触れることによって、天使特有の匂いみたいなものを嗅ぎつけるんだ。だからマリアンヌ、これからは、むやみに誰かと接触することは避けて欲しい。たとえそれが一瞬のことだったとしても、きみが天使だということくらいすぐにバレてしまうからね」
目の前を行きかう人波がすべて人外の存在であるということに、わたしはあらためて戦慄を覚えた。誰とも触れてはいけないとネロは言っていた。誰とも安易に接触することなく、この街を出ることが果たして出来るのだろうか……。
「さあ、こっちだ」
ネロは腰までしかない黒いマントからスウェードの手袋を履いた腕を伸ばすと、わたしの手をつかんでふたたび前を歩き出した。
あの日――
サン=ミエールで起きた災厄の日からすでに数日が経過していた。恐慌をきたして逃げ惑う人々をよそに、わたしたちはどこまでも果てしなくつづくかに思われる急な階段を下り、まっ暗な隧道を通ってサン=ミエールから抜け出したのである。
わたしはネロに言われるがままにつき従っていたが、いつの間にかまわりから人の気配が消え、二人きりになってしまったことに気づき、強烈な不安にさいなまれた。
「待って……」
ネロはしかし、階段を下ることに夢中になっているようだった。
「待って! エミリアはどこ?」
わたしはネロの手を振りほどいて叫んだ。
振りかえったネロは、ランプの薄明りの中で驚いたような表情を浮かべていた。
「大丈夫。彼女は無事だよ。ジョアンが……グロリアスホールにいた警邏隊を覚えているかい? 彼と一緒に避難しているはずさ」
「ここはどこ? わたしたち、どこへ向かっているの?」
「心配いらないよ。言ったろう、ぼくはここに来てもうずいぶん長いんだって。誰も知らない抜け道の一つや二つ知ってるさ」
「わたし、怖いわ……」
ネロは震えるわたしの肩を抱いて言った。
「ここまで来たからには、もう安心していいよ」
「あそこでなにが起きたというの……?」
ネロはなにかを知っている……。そんな気がしてならなかった。きっとグロリアスホールでの一件についても事情を知っているに違いない。警邏隊に取り押さえられていた少年……彼の体を包みこんでいた黒い炎のようなものはなんだったのか?
そしてあのとき、一人ホールに残った司祭様が叫んだ言葉……〝災厄〟とはいったいなにを意味しているのだろうか?
「マリアンヌ。きみには話しておく必要があるようだね……」
ネロはそこで少しだけ言いよどんだ。
「この世界には困ったことに、妙な不文律が存在する。常に清浄でなければならないはずの天使が、少しでも穢れた考えに囚われてしまうと、邪な気持ちに心を支配され、あっと言う間に悪の道に転落してしまうんだ」
そう。あのときたしか、司祭様はこう叫んだのではなかったか……。
「悪魔憑き……」
ネロはその言葉を聞いて目を伏せた。
「そう、天使は決して普遍的な存在とは言えない。この世に存在するさまざまな誘惑にさらされ、誤った方向に堕ちた御霊は、滑り落ちるようにして悪魔に憑りつかれてしまう。そうやって堕落した天使こそが、悪魔の正体なんだ」
「それじゃあ、天使と悪魔は元は同じ存在なの?」
ネロは無言のまま頷いた。
わたしの心ははげしく動揺した。
神の御使いであるはずの天使が悪魔と同じ存在だなんて思いも及ばなかった。邪な気持ちを抱いた天使が悪魔憑きになる……。だからあのとき――わたしはエミリアがサン=ミエールでときおり発生しているというイベントの話をしているときに、ネロが見せたなんとも言えない悲しげな表情を思い出した。
あれは悪魔憑きのことを知っていたからこそ見せた態度だったのだ。怪我人を出してでもイベントを仕掛けようとする使徒たちに不安を抱いていたのだろう。それが災いを招くのではないかと……。
「でも、悪魔憑きが出たからと言って、街を出る必要があるの?」
ネロは眉を顰めて首を横に振った。
「ときに悪魔憑きは、その周辺にいる罪のない天使をも巻きこんでしまうことがある。それをぼくらは〝災厄〟と呼んでいるんだ。だからあのとき、セバスティアンはぼくらを速やかに避難させた。彼がたった一人でグロリアスホールに残ったのは、魂を浄化させる特別な力を秘めているからだ」
「魂を浄化させる……?」
「一度悪魔憑きになってしまった天使を完全に救うことはできないけれど、その兆候を事前に察知出来れば、ある程度の悪魔祓いは可能なんだ」
「じゃあ、あの子も……」
「ジャンのことを言っているのかい? 残念だけど、彼はすでに悪魔憑きを起こしていたから、元に戻すのは無理じゃないかな……」
「それじゃあ、司祭様はどうしてグロリアスホールに残ったというの?」
「それが彼にとっての使命だからさ」
「でも、司祭様まで災厄に巻きこまれたら……」
無事では済まない。司祭様まで悪魔になってしまうのではないか?
「彼は悪魔憑きにはならないよ。そういう特別な天使たちが司祭とか司教に任命されて、この世に降誕した使徒を不吉な兆候から守っているんだ」
「マザー・テレシアにもそういう特別な力があるの?」
「ああ。何者も彼女を穢すことはできやしないよ」
「悪魔にも……?」
「いったん聖職者に聖別された天使は、悪魔憑きを起こさない。完全に悪に心を染めてしまう者がいる一方で、そういう特別な存在もいるってことさ」
わたしはマザーの優しげな顔を思い出していた。今頃サン=ミエールでは、彼女たちが必死になって災厄から天使たちを守っているのだろう。エミリアは……クリスティアーノは……シスター・ケイトは……みんな、本当に無事なのだろうか……。
「さあ、着いた」
ランプの灯りが、壁に描かれた〝一階〟という文字を照らし出していた。
その時点ではわたしにはそれがなにを意味しているのかわからなかったけれど、一昼夜もの長い時間をかけて、とうとうわたしたちはサン=ミエールの麓までたどり着いたのだった。
ずっと階段を下りつづけていたものだから、体が平坦な道に慣れるまで少しだけ時間がかかった。まるで雲の上を歩いているかのように膝が言うことを聞いてくれないのだ。足取りの覚束ないわたしと違って、ネロはまるで平然としている。
そうやってしばらく歩きつづけていると、隧道の先に一枚の古めかしい鉄扉が見えてきた。
「ちょっと持っていて」
ネロはそう言ってわたしにランプを手渡すと、見るからに錆びついた円形のハンドルを両手でつかみ、目いっぱい力をこめて回しはじめた。はじめのうちこそ頑なに動こうとしなかったハンドルだったけれど、やがて金属同士の擦れ合う軋みを上げながら、ネロの手の中でゆっくりと回転しはじめた。
重い扉が開くと、その隙間からじめっとした嫌らしい空気が流れこんできた。
「さあ、準備はいいかい? ここから先は人外の世界だよ……」
扉の外には、まっ暗な薄気味の悪い森が広がり、ときおり人の悲鳴にも似たけたたましい叫び声が響きわたった。
わたしは、いつか見た悪夢を思い出して震えあがった。
いいえ、違うわ。あれは悪夢なんかじゃない。今わたしたちの眼前に広がっているこの森こそが、いわゆる〝地獄″そのものなのだ。
「ご覧、マリアンヌ……」
ネロは手にしたランプをかざして言った。
森の切れ目から見下ろす先に、煌々ときらめく巨大な街が横たわっていた。
それこそまさに、霊峰サン=ミエールに物資を運ぶ中継基地〝バビロン″の壮大な街並みだったのだ。
「ぼくらは今からあの街に向かう。覚悟はいいかい?」
ネロはそう言ったものの、わたしには彼に従う他に行くあてなどなかったから、胸の中で脈打つはげしい動悸を抑えながら、黙って頷くことしかできなかった。
「港から船が出ている。サン=ミエールのみんなもそこに向かうはずなんだ。きっとエミリアやクリスとも再会出来ると思う。怖いだろうけど、もうしばらくの辛抱だと思って頑張ろう」
ネロの言葉は遠く小さく聞こえてはいたものの、わたしは目の前に広がる不安の海に投げ出されて、されるがまま流されて行くしかないのだと半ば諦めかけていた。
魔物が巣くうとされる魔都バビロンだけが、怪しげな明かりを放ちながら、ひっそりと暗闇の中に佇んでいた。
建物の壁に背をもたれかけながら、わたしたちは忙しげに立ち働く人夫や、様々な姿形の魔物たちに視線を投げかけていた。
港で使役されている人夫の多くは、わたしたちと同じような身なりをした、いわゆる亡者のようだったけれど、中には巨大な体躯を生かして山のような荷物を運ぶ異形の魔物たちも混ざっていた。
そして、そこから離れたところで船の出港を待っている人だかりに視線を移すと、雅やかなドレスに身を包んだ悪魔たちがたむろしている。大きなトランクに腰をかけながら身振り手振りをまじえて談笑したり、一人で太い葉巻をくわえたまま暗雲に覆われた空を見上げたりしていた。
「ネロ……」
わたしの呼びかけに、ネロは指先に触れることでこたえた。喋るなという合図だ。でも、わたしにはどうしても聞いておかなければならないことがあった。
「エミリアはどこにいるの……?」
ネロはたしかに、サン=ミエールの使徒たちもまたこの港を目指すはずだと言っていた。だからこそ、こうして危険を冒して港までやって来たのではなかったか?
「彼女たちは、もう船に乗っているんじゃないかな」
「だったらわたしたちも早く行きましょうよ。ここじゃ、なんだか落ち着かないわ……」
わたしは無意識のうちに、異形の姿をした魔物たちの行方を目で追っていた。すでに乗船が始まっている船もあったが、わたしたちが乗ろうとしている〝ゴライアス号〟という巨大な蒸気船のゲートはまだ閉じられたままだ。彼女たちがすでに船に乗っているだなんて、いったいどこから仕入れてきた情報なのか例によってわたしにはまるで見当がつかなかった。
「彼らには引率の神父様や聖十字騎士団がついているから、優先的に乗船が許可されているはずなんだ。でも、ぼくらには彼らのような庇護者がいないだろう? だからまずは、どうにかして彼らと合流しなくちゃならないと思うんだ」
たしかにわたしたちは――少なくともわたしは――お金も切符も持っていない。こんな体ではどうやったって乗船するのは無理だろう。
「あれを見て」
ネロは何気ない風を装って、巨大な木箱の山を指さした。
「あの中にどうにかして潜りこめないかな……」
木箱には見たこともない文字が描かれていたが、なぜだかわたしにはその意味が読み取れるような気がした。緑の木箱には果物が、赤い木箱には工芸品が入っているらしく、それぞれに行き先と思しき街の名前が記されている。
「文字が……」
「読めるのかい?」
「不思議……。あんな文字見たこともないのに……」
「それは、この世界が〝通念″に支配されているからだよ」
「通念……?」
「この世界には万物に共通する理念が働いていて、異なる文字や言葉も難なく理解することができる。だからマリアンヌ、きみにも彼らの会話がわかるはずだし、彼らにもぼくたちの言葉が丸わかりってわけさ」
ネロの説明を聞くまで、そんなことには思いも及ばなかった。そう、たしかにわたしは、この街に来てからというもの、異形の生物たちがなにを話しているのか理解しているようだった。わたしたちの正体がバレていないかと耳をそばだてながらバビロンの街中をわたり歩いていたのがなによりの証拠だ。
「天使は遥かなる河〝レテ″を下るとき、生前の記憶とともに疑念のような余計な感覚を忘れてしまうって以前話したよね? だから自分が死者であることにも、自分たちが年を取らないことにも気がつかないし、いつの間にか異国の言葉を話す天使たちと意思疎通を行っていることにも疑いを抱かないんだ。知ってるかい? エミリアは英語で、クリスティアーノはスペイン語で話しているんだよ」
そう言われてみれば、エミリアからもクリスティアーノからも、どこかエキゾチックな雰囲気が漂っているような気がした。いったいこの世界はどれほど多くの謎を抱えているのだろう……。わたしは一人、途方に暮れてしまった。
「今だ、行こう……!」
ネロが急に歩き出したものだから、わたしは少しばかり遅れをとった。
全身黒ずくめの衣装に身を包んだわたしたちは、ガス灯が投げかける光の輪を避けながら、ゆっくりとだが確実に目指す木箱に向かって歩みを進めていった。
「積み荷はこれで最後か?」
どこか遠くで、しわがれた声が言った。
「早く上に知らせてこい。こんな街、さっさとおさらばしようぜ」
もう一つの声がこたえた。
「あんたは早くアレクシアに会いたいだけじゃないのか? バビロンほど美しい街はこの世には存在しねえよ!」
「無駄口たたいてないで報告してこいって言ってんだ!」
へいへい、となかば諦めた様子でもう一方の声が応じると、錆びついた金属が擦れあう嫌な軋みが聞こえてきた。貨物室の扉が閉まったのだろう、大きな音とともに辺りにようやく静寂が訪れた。
「マリアンヌ、聞こえるかい?」
ネロの囁き声が言った。
「ええ」
「蓋を持ち上げるから力を貸して。いっぺんに開けちゃだめだよ。そうっと、少しずつ持ち上げるんだ」
わたしたちは合図をかわして、同時に蓋を押し上げた。
船倉の中はまっ暗だったけれど、うっすらとネロの表情を読み取ることが出来るくらいには夜目が効いた。でもなんだか妙だ。明かりひとつない暗がりの中で、どうして彼の顔が見えるのだろう? もしかすると、それすらも天使特有の不思議な力なのかも知れないな、とわたしはぼんやりと想いを馳せていた。
「よし、誰もいないみたいだ」
ネロが先に木箱を抜け出し、わたしに手を差しだした。わたしは足元に積めこまれた緑色のオレンジを蹴って箱の縁に手をかけると、あとは自分の力で体を持ち上げた。
「こんなにうまくいくだなんて思わなかったわ」
「まさか密航者がいるなんて思いもよらなかったんじゃないかな」
そう言ってネロは小さく笑った。
大きな鉄扉には鍵がかけられているようで、押しても引いても頑なに動こうとはしなかった。わたしたちはあえなく船倉に閉じこめられてしまったというわけだ。
「ちょっとだけ離れていて」
ネロはそう言うと、扉のハンドルに手をかけたまま、わたしには聞こえないくらいの小声で何事かひそひそとつぶやいた。
「これからどうすればいいの? 外から扉を開けてもらうまでこうしているつもり?」
ネロはわたしの言葉を無視して、わけの分からない言葉をつぶやきつづけた。魔法の呪文でもあるまいし、そんなことで扉が開くはずがないじゃない……。
けれど、わたしはすぐに自分の考えをあらためさせられた。ネロのつぶやきが終わると同時に、扉の向こうでガシャッという金属音がして、扉が開いたのだ。
「さあ、行こう」
「ちょっと待って」
ネロはしかし、わたしの言葉を待たずに貨物室の外に出て行った。
わたしにはもうなにを信じていいのか分からなくなっていた。今のはなに? ネロはどうやって扉の鍵を外したっていうの? やはり彼もまた、人間にはありえない神秘的な力を秘めているのだろうか?
それも不思議なことではないような気がした。だって、わたしたちはもう死を迎えていて、いつの間にか異国の言葉を理解することもできるし、暗闇でだって物が見えるではないか。なにより、これまで目にしてきた人外の魔物を見れば、この世界にはまだまだ未知の要素が秘められているとしても不思議ではないだろう。
わたしたちは、狭い無機質な廊下を横切ると、半開きになった白い鉄扉の隙間から外の様子をうかがった。
暗赤色のカーペットが敷かれた通路には、仮面舞踏会ででもあるかのようなけばけばしい衣装を身にまとった男女や、見るからに怖気を振るう異形の魔物たちが大勢ひしめいている。
「覚悟はいいかい?」
ネロの言葉に、わたしは恐るおそる頷いて見せた。
バビロンの街をうまく切り抜けることが出来たのだから、ちょっとやそっとのことではわたしたちが天使だとは気づかれないだろうという自負があった。
ネロのあとにつづいて通路に出ると、わたしは後ろ手に扉を閉めた。ちょうどわたしの前を通りがかった馬面の魔物がじろりと充血した目でわたしを見下ろしたものの、注意を引くほどのものではないと判断したのか、そのまま人波の中に紛れて姿を消した。
わたしはほっと胸を撫で下ろし、ネロとともに歩き出した。
「どこに向かっているの?」
わたしが小声で囁くと、ネロはきょろきょろと辺りを見まわしながらこたえた。
「一等客室を探してるんだ。もしエミリアたちがいるとすれば、危険を冒してまで部屋の外には出ないようにしているはずだからね」
わたしは、板張りの壁に〝二等甲板″という文字が躍っているのを発見し、溜息を吐いた。ここではないのね……。船倉と同じ甲板に一等客室があるはずがないという事実が、重く肩にのしかかってきた。
わたしたちは、誰ともぶつからないよう細心の注意を払いながら歩きつづけ、ようやく階段を見つけると、案内板を頼りに一等甲板を目指して上へと向かった。
二等甲板とは違って、ここには魔物の姿がほとんど見あたらず、彼らよりも上位の存在である悪魔たちが大きく幅を利かせていた。
わたしはそれを見て、より一層気を引き締めた。
ネロはたしかに言っていたはずだ。異形の姿をしている魔物たちよりも、悪魔の方がよほど危険な存在なのだと……。
まるで人間と見分けがつかない……。
彼らはいずれも豪奢な衣装に身を包んでいる。孔雀の羽のような毛でできた豪勢な扇を手にした女性や、鳥の嘴を模したマスクで顔を覆った紳士などで賑わっている。こんなことなら、顔をすっぽりと覆い隠せる仮面を被っていればよかったのにと、わたしは今さらながら後悔していた。
廊下の脇に金細工をあしらった入口があり、食堂と思しきホールから食欲をそそる良い匂いが漂ってきたが、ネロはそれには目もくれずに、あっさりと通り過ぎてしまった。サン=ミエールを抜け出して以来食事を摂っていなかったから、わたしは唐突に空腹を覚えた。
そうこうするうち、どこをどう迷ったのか、わたしたちは船室の外に出てしまった。
後ろを振り返ると、密航した船の大きさにあらためて驚かされる。
わたしたちがいるのは、まだ船の中央辺りにしかすぎず、その上にさらに天を突くような摩天楼が聳え立っていた。わたしたちはまだゴライアス号のほんの一画を彷徨っていたにすぎなかったのだ。
「まいったね、これはちょっと骨が折れそうだ」
流石のネロも弱音を吐いた。
周囲には、墨汁を流したかのようなまっ暗な海が広がり、ほどよい風が剥き出しの肌を優しく撫でていった。どこか遠くの方で楽団が奏でる華やかな音色だけが、大海原のただ中にこだましている。
「少し休憩しましょうよ」
わたしは正体がバレなかったことに安堵して、少しだけ気が大きくなっていた。
わたしたちは甲板の縁に設けられている木製の手すりに寄りかかり、潮風に身をゆだねた。
「疲れたかい?」
ネロは海原に目を向けたままつぶやいた。
「ものすごくね」
それを聞いて、ネロは笑った。
「ぼくもだよ。まさかこんなことになるなんてね」
「あなたはまだましよ。ずいぶんと事情に詳しいみたいだから……。でもわたしはそうはいかないわ。まるでわからないことばかりだもの」
ネロはわたしの愚痴を聞いて鼻で笑った。
「この船はどこに向かっているの?」
「港湾都市ミランダに向かってるはずだよ。そこからサン=エルトロまで、馬車で二日くらい。徒歩だと四、五日はかかるだろうね」
魔物や悪魔が徘徊する異界の森を五日間も、それもたった二人きりで放浪するだなんて考えるだけでも悍ましいと思った。
「そんなことにはならないわよね? 歩くだなんて……」
「そのためにも、早くみんなを捜し出さなくちゃね」
そのとき、船室の方から二人の悪魔が出てきて、わたしたちから少し離れたところで立ちどまり、なにやらこそこそと会話をかわしはじめた。一人はタキシードを着こんだ長身の紳士で、彼の腕に手を絡みつかせているのは、タイトなイブニングドレスに身を包んだ妖艶な美女だった。
自意識過剰と笑われてしまうかも知れないけれど、女性の方がちらりとこちらに視線を向けたような気がして、わたしはとたんに落ち着かない気持ちになった。
「そろそろ戻ろうか」
それに気づいたのかどうかわからないが、ネロは悪魔たちとのあいだに立ちふさがって言った。
「今度はもっと上の階を探してみよう。護衛軍がついているのなら、すぐに見つかるはずだよ。彼らは武装しているだろうからね」
「そうね……」
わたしたちは、悪魔から向けられる好奇の眼差しを強く意識しながらも、何気ない風を装って船室へと取ってかえした。




