第15章 失踪者
悪魔憑きがもたらした災厄は楽園になにをもたらしたのか
忙しなく立ち働く警邏隊や甲冑を着こんだいかめつらしい十字軍の騎士たちをよそに、ファントムは一人、災厄の発端となったグロリアスホールの中央に佇んでいた。
人知を超えた不浄なる炎によって、サン=ミエール大聖堂の司祭、レニー・セバスティアン卿の亡骸は原型をとどめないまでにはげしく損傷されていた。
雅やかな祭服は跡形もなく焼失し、肉を焼き尽くされた黒焦げの腕は不自然にねじくれている。中でも、金の指輪を嵌めた人さし指だけが、まるで救い主を求めてでもいるかのように天に向かって突き上げられていた。
「ファントム様……」
聖皇庁から派遣されている二等審問官ロキが、背後から声をかけてきた。
「お望みのものを持って参りました」
ロキの後ろには、異端審問官とは趣の異なる僧服を着こんだ神父らが控えており、それぞれの手に山と積まれた書物を大事そうに抱えていた。
「こちらへ」
そう告げると、ファントムはセバスティアン卿の亡骸を後に残して立ち去った。
「司祭様のご遺体はいかがされますか?」
ファントムは前を向いたまま言い放った。
「運び出せ。殉教者として丁重に扱うように」
ロキが警邏隊の青年たちに指示を出しているのが聞こえたが、ファントムは振りかえることすらしなかった。今はただ、早々に目の前の問題を片づけることにのみ集中すべきときだ。
先日垣間見た天使の面影がファントムの脳裡をよぎる。
わたしがあの面ざしを見間違えるはずがない。今日という日を迎えるために、これまでどんな危険な任務にも文句ひとつ言わずに従事してきたのだ。
手を伸ばせば届きそうなところにまでたどり着いたというのに、災厄という未曾有の事態によってふたたび彼我の命運は分かたれた。
このままみすみすチャンスを逃してなるものか。彼の天使の身柄こそ確保することができなかったものの、希望の星たる天の御使いがここサン=ミエールに在籍しているのはたしかだ。
どうか無事であってほしい。ここまで来て、災厄に巻きこまれて落命したなどというオチだけは勘弁願いたい。あと少し……あと少しでたどり着く……。
その手がかりが、今まさにファントムの目の前へと運ばれてくるところだった。
いみじくも、そこは、かつてセバスティアン卿と共に身を潜めたのとまったく同じテーブル席だった。 この場所で、ファントムたちは災厄の疑いありと思われるジャン・ストラウスの行方を追っていたのだった。
グロリアスホールからは椅子やテーブルがすっかり撤去され、後に残されているのは焼け焦げたガラクタばかり。中には、熾烈を極めた戦闘に巻きこまれ、犠牲になった使徒の無残な遺体も含まれていた。
ファントムは、すっかり変わり果てたグロリアスホールを見渡して深い感慨に浸った。
最終的に悪魔憑きと判断された使徒の数は十二にも及んだ。
これはしかし、審問局の予言があったからこそ最小限に抑えられたのだとも言えるだろう。もしも避難の誘導が少しでも遅れていたなら――あるいは、聖職者による庇護の準備が整っていなければ、被害はもっと拡大していたものと考えられる。
「これ全てに目を通されるので?」
二階に上がってきたロキが、半ば諦めたかのようにつぶやいた。
「神父殿にも手伝ってもらうさ」
ファントムの言葉を聞いて、神父たちはまんざらでもなさそうな顔つきをして見せた。
異端審問官にとって聖地に勤務する聖職者たちは敬うべき存在であるが、その逆もまた然り、彼らにとっても、聖十字軍の騎士たるファントムたちから助力を必要とされるのは名誉なことなのだという。
「犠牲者の数は五十を越えます。すべての身元を調べ上げるので?」
「そんな顔をするな、ロキ。生存者からの証言が得られれば作業ははかどるだろう」
「ぜひぼくにその役目を引き受けさせてほしいのですが……」
ロキは腰に帯びた小剣をかたわらに立てかけると、困ったような表情を浮かべて席についた。
「正直、このような作業はぼくらの管轄外では?」
そうはいかない。天使の生存をたしかめ、身柄を確保するまで、この地を去るわけにはいかないのだ。しかし、それをロキに悟られては、後々まずいことになるだろう。
「デスクワークは苦手か?」
「いえ。決してそのようなことは……」
ロキは溜息を吐いて、書物の山から一冊目の名簿を手に取った。
目の前にあるのは、サン=ミエールに在籍する使徒の個人情報を記した名簿である。この中に、目指す天使の名前が含まれているはずだった。
ファントムは希望に胸を膨らませながら、一冊目の名簿を紐解いた。
陽が低く傾き、宵空に無数の星々が瞬き出した頃、ようやく災厄の詳細が明らかになってきた。
まず、悪魔憑きに見舞われた天使の数は前述の十二からひとつ増えて十三となった。そのほとんどがパラダイム・インテントリー楽団と個人的な付き合いのある面子だったが、中にはまったく無関係と思われる天使の名前も含まれていた。
これこそが、災厄が悲劇と言い習わされる所以である。
心の中に闇を抱いた天使が悪魔憑きになるのはある程度予測出来るものの、じっさいにそれが生じた際に、たまたま周辺にいただけの罪のない御柱まで悪魔憑きに同調してしまうことがある。
グロリアスホールから素早く天使たちを避難させたのは、悪魔と化した使徒による肉体的な被害から身を守るためだけでなく、こういった精神的な巻き添えを防ぐためでもあったのだ。
そして、悪魔との戦闘の際に命を落としたのは、避難の誘導にあたっていた警邏隊の隊員十四名、悪魔に立ち向かって行った聖十字軍の騎士二十三名、逃げ遅れた天使の数がちょうど二十。そして、ジャン・ストラウスの浄化に立ち向かっていったセバスティアン卿を加えて、総勢五十七名にものぼった。
しかしここで、不審な点が出てきた。いくら数え直しても、遺体の数と行方不明者の数が異なるのだ。犠牲者の体が跡形もなく焼失したと考えるべきか、どさくさに紛れて姿をくらませた天使がいると見るべきか……。
生存者の中には、彼の天使の名前は見あたらなかった。それがファントムに強烈な焦燥感を抱かせていた。もしも彼の天使が災厄に巻きこまれたというのなら、はっきりと自分の目でそれを確認しなければ気が済まないし、そうではなく、なんらかの理由でこの聖地から失踪したのであれば、一刻も早くその消息をたしかめたいところだった。
しかし、失踪するとは言っても、果たしてどのような意図を持って、どこに向かったのだろうか? 聖地の外にはただ混沌が渦巻く魔界が広がっているだけだ。
まさか魔界が危険だということを知らないわけではあるまい。天使の命を喰い物にせんとする凶悪な魔物や悪魔の中に飛びこんで、なにをしようと言うのか? ファントムには皆目見当がつかなかった。
即席の遺体安置所と化した部屋の一隅で、ファントムはロキと共に、床に横たわる夥しい数の遺体に視線を送っていた。
遺体はどれも清潔なシーツで覆われてはいるものの、つんと鼻を突く刺激臭を覆い隠すことは出来なかった。
ファントムはおもむろに遺体のかたわらに歩み寄ると、その場に屈みこんで、神妙な手つきでシーツをめくり上げた。
全身をひどい火傷に覆われた遺体は、高熱によって皮膚が焼けただれ、ところどころから膿が滲み出し、それが乾いて蟹足腫と化していた。
背後でロキがハッと息を呑むのがわかった。
ファントムは凄まじい形相を浮かべたまま硬直している遺体の一端に触れると、天使の体にかろうじて宿っている魂に接触し、その記憶を走査した。
灰色にくすんだ泥のような記憶の海に飛びこんで、ファントムはこの遺体が名簿に記されていた天使の記録と符合することに確信を抱いた。
ファントムは遺体にシーツを被せ直すと、小さく十字を切って、犠牲者の名簿に印を書きこんだ。そして、ふたたび隣りの遺体に歩み寄り、先ほどと同じ行動を取った。
「すべての遺体をご確認されるおつもりですか?」
ファントムはロキの問いかけを無視して、一言も発することなく、黙々と作業をつづけた。その様子を見守っていた神父たちもまた、ファントムがシーツをめくり、名簿に印をつける度に、手で十字を切ったり、首元にぶら下げている十字架を握りしめるといった厳かな行動を繰りかえした。
「やはり数が合いません」
遺体の確認を終えたファントムのかたわらで、ロキが小声でつぶやいた。
ファントムは、なにを言うでもなく、ただ黙したまま、ロキの手から名簿を受け取った。
災厄後、未だに安否の確認が取れていないのはふたりだけ。これでようやく聖皇庁や審問局の目を気にすることなく彼の天使を捜索する目途が立ったというわけだ。
「彼らの友人から話が聞きたい」
「かしこまりました」
ロキは背後に控えている神父たちに事情を説明するため、ファントムの元を立ち去った。
遺体安置所の一隅で、ただひとりファントムだけが、残されたかすかな希望に胸を弾ませていた。
「顔色が冴えないな……」
取調室としてあてがわれた部屋の中で、蝋燭の灯りが風もないのに揺れていた。
くすんだ色の拘束衣に身を包んだクリスティアーノ・ドミンゲスは、椅子の上で窮屈そうに身じろぎした。
彼は見るからに衰弱しきっていた。身柄を拘束された上に、友人が目の前で悪魔憑きになったのだから、動揺するのは無理からぬことだろう。
「聴きたいことがあるだけだと――」
それでもしかし、彼はよくあのときのことを覚えていた。
「たしか、そう仰いましたよね……?」
ファントムはグロリアスホールでの一件を思い出した。ジャン・ストラウスが悪魔憑きを起こす直前、大剣を使って食卓を叩き割った直後のことだ。
「その文言に偽りはない。少しだけ話を聴かせてもらえるかな?」
「ぼくに――」
クリスティアーノは、間髪入れずにつぶやいた。
「拒否権はないのでしょう?」
その通りだ。そしてまた、彼が黙秘を貫こうとも、ファントムには彼の記憶を走査することで、こうして話を聴くことよりもいっそう信頼のおける証言を得られるはずだった。だが……。
万が一にも、ジャンのときのような失態を引き起こしたくはなかった。
あのとき彼は、自分の記憶を探られていることに気がついて、ファントムの腕を振り払った。この世界に顕現してから十五年というわずかな時間しか経ていないにも関わらず、いったいどこであのような能力を身に着けたのか?
悪魔とは煮ても食えんような不浄な輩ではあるが、悪魔憑きの瀬戸際に立たされている使徒もまた、彼らと同等な能力を秘めているものなのだろうか? この世には、科学では推し量ることの出来ない不条理な現象がまだまだ身を潜めているのかも知れない。
「ジャンは、どうなりましたか……?」
ファントムは、クリスティアーノの言葉でふと我にかえった。
「見ただろう。彼は身を滅ぼしたよ……」
「どうして……」
「それはわたしが聴きたいことのひとつだ。コンサート会場での一件だが、いったいどんな目的があって、あのような騒動を起こしたのか……」
クリスティアーノは顔を伏せて、首を横に振った。
「あれは……ぼくは知らなかったんです。彼らが勝手に計画したことで……。悪気はなかったのだと言っていました。ただ、突然力の加減が分からなくなったって……」
〝力の加減が分からなくなった″
この言葉にファントムは疑念を抱いた。これが本心から言っていることなのかどうか、たしかめる必要がある。だが、今ファントムが聴き出さなければならないのは、もっと別のことだった。
「マリアンヌのことを聴かせてくれないか……」
クリスティアーノは、思いがけない名前を耳にして面を上げた。
「彼女がどうかしたんですか?」
「聞くところによると、彼女にはネロという友人がいたとか……」
「彼らはぼくの友人です」
「ふたりの姿が見あたらない。どこへ行ったのか知っているのなら、正直に教えてほしい」
クリスティアーノは茫然とファントムの瞳を見つめかえした。
「残念ながら、ぼくには見当もつきません。ネロとは昔から顔なじみでしたが、マリアンヌとはまだ出会ったばかりですし……」
「彼らはとても親しかった……」
「ええ。たしかに……」
もしもこの少年が悪意を持って彼らの居場所を隠しているのなら、それがわずかでも表情に表れるのではないかと考えていたが、その気配は微塵も感じられなかった。彼が嘘をついているとは思えない。
「マリアンヌが一人でどこかに行ってしまうとは思えません。きっと、ネロとどこかに隠れているんじゃないでしょうか。彼ならサン=ミエールのことを知り尽くしていますし、安全な避難先に身を潜めている可能性が高いと思います」
「ネロとは知り合ってどのくらいになるんだね?」
――分からない。
長い黙考の末にクリスティアーノはそう言った。
得てして、天使とはそういうものだ。遥かなる忘却の河を下るとき、彼らは生前の記憶とともに懐疑心すら失ってしまうものだというのがこの世の理である。
ネロ……。
不思議な少年だ。サン=ミエールに暮らす使徒の大部分が彼の顔見知りなのだという。その実、誰ひとりとして彼の詳細なプロフィールを知る者はない。いくら懐疑心を持たないからと言って、こうも情報が得られないというのは不自然である。
そして、彼と共に姿を消した少女マリアンヌ……。
彼女はサン=ミエールに来たばかりの新入りで、つい最近、生前の記憶を取り戻したところなのだという。そんな少女が、自ら進んで平穏な聖地から抜け出すような無謀な真似をするだろうか……。
そこまで考えをめぐらせたとき、部屋の外からロキの声が聞こえた。
「ファントム様。お話が……」
席を立ったファントムに向かって、クリスティアーノが声をかけた。
「もしよろしければ……!」
彼は少しだけ言いよどみ、小声でつぶやいた。
「友人たちに伝えてください。なにも心配はいらないと……」
「分かった」
ファントムは一言だけ言い残して部屋を後にした。
「さきほどもそちらの審問官にお話ししましたが……」
石畳の敷かれた瀟洒な通りを歩きながら、警邏隊のジョアン・デイは語った。
「あの日、彼らは、わたしたちの誘導に従って、この通りを宿舎の方向へと向かって逃げていました」
「あの混乱の中で、よく把握していたな」
「そのとき保護していた少女が、しきりに二人のことを気にかけておりましたので、わたしも彼らの安否を確認せざるを得なかったのです」
少女の名はエミリア。手元の資料によれば、彼女はマリアンヌのルームメイトで、クリスティアーノやネロとも古い仲なのだという。
「彼女たちは……ネロも含めてですが……三人一緒にグロリアスホールへと駆けこんできました。災厄が発生したときは、わたしがエミリアを、ネロがもう一人の少女をともなって避難を開始しました」
「だが、彼らは忽然と姿を消した?」
ジョアンは額を掻いていた指で、一本の狭い路地を指し示した。
「わたしが最後にネロの姿を見かけたとき、彼らは、人波を外れてこちらの横道に逸れて行きました。わたしは〝こっちだ″と大声で叫びましたが、混乱した使徒たちの流れに押し流されて、そのままはぐれてしまったというわけです」
路地には趣きのあるカフェが隣接しており、多くの使徒で賑わいを見せていた。災厄の爪痕は未だ多くの使徒の心に深く刻みこまれてはいたものの、すでにサン=ミエールは日常生活を取り戻しつつあった。
「彼らへの聞きこみは行ったのか?」
ファントムは、かたわらに控えるロキに問いかけた。
「店員からは話を聴いてあります。警鐘が鳴ってすぐに客ともども避難を開始したため、誰も彼らを見かけてはいません」
その路地は奥へ行くにつれて狭まって行き、古めかしい家屋の裏手で行き止まりになっていた。苔むした石壁には、目にも鮮やかな青い扉が設けられている。
「この先は……?」
「水道管や下水管を整備するための管理棟ではなかったかと……」
扉には鍵はかかっておらず、誰でも自由に出入り出来る状態にあった。中にはまっ暗な隧道がつづいており、その先で天井の高い大きな通路と合流していた。
上下ともに灰色の服に身を包んだ作業員が数名、工具箱のようなものを手にして行きかっており、ファントムたちに好奇の視線を送っている。
ファントムはたまたま目の前を通りがかった壮年の作業員を呼びとめた。
「この管理棟は、下界まで通じているのかね?」
「下界? ああ、外の世界のことですか……。下水管が通ってるんで、それをたどれば、サン=ミエールの麓に出ることが出来るでしょう」
「まさか……」
背後でロキがつぶやいた。
災厄が生じてすでに二日が経過している。彼らがいつまで経っても姿を現さないのは、ただ単にどこかに身を潜めているからだとは考えにくい。災厄に巻きこまれるのを恐れてか、はたまたなんらかの別の理由があってのことかは分からないが、彼らはすでにサン=ミエールを脱出したと考えるのが筋だろう。
彼らの行き先を断定するために、ファントムはいったん今来た道を引きかえしはじめた。
ただちに大規模な捜索網を張ることも出来たが、ファントムが目的を達するには、事態が大事になるのを避ける必要があった。
使徒が聖地を抜け出すには、それ相応の目的があるはずだ。失踪した二人の友人関係を徹底的に洗い出せば、この脱出劇の背景になにが隠されているのか判明するはずだ。
エミリア――
二人の共通の友人であり、なおかつマリアンヌと同室で生活を共にしている彼女であれば、なにか思いあたる節があるのではないか……。
ファントムの胸中で、野望の灯火がゆらゆらと揺らめいていた。




