第14章 カタストロフィー
ついに聖域への立ち入りを果たしたファントム。そこで彼を待ち受けていたものとは
吹き荒ぶ風と窓を叩くはげしい雨脚が、絶え間なく窓外を流れている。
荒々しい光景とは裏腹に、瀟洒な装飾のほどこされた船室には穏やかな雰囲気が漂っていた。ファントムは皮革張りの赤いソファーに深く腰かけて、グラスに注いだブランデーを舌の上で転がしている。
ときおり思い出したかのように閃く雷に、未だ空の旅に馴染めないでいるらしいロキはいちいち体をびくつかせていた。
「そろそろ落ち着いたらどうだ、ロキ……」
ファントムの言葉に、ロキはくるりとこちらを振りかえった。
「そう言われましても、ファントム様……。いつ雷が落ちるかも知れないと思うと、いても立ってもいられませんよ」
たとえ雷が船体を直撃しようとも、飛行船エクスカリバー号にはなんの影響もない。すでに説明は聞いているはずだというのに、ロキの臆病風にはまったく困ったものだ。
ファントムは読みかけの書物に栞を挟むと、それをかたわらのサイドテーブルに置き、読書灯の明かりを消した。
久し振りに聖地を訪れるという若き二等審問官は、はじめのうちこそ気分が高揚していたようだが、今ではすっかり墜落の不安に取り憑かれてしまったようだった。
ファントムは深く溜め息を吐くと、立ち上がって、目の前に広がる光景に目を凝らした。
美しい……。
上空に垂れこめる厚い雨雲の中を、飛行船は上へ上へと向かって浮上していた。
まるで印象派が描く宗教画を思わせるような広大無比な景色がファントムの視界を覆っている。
そこに恐怖を見出すだなんて、なんともったいないことをするのだろう……。
〝こちら操舵室〟
天井から突き出した伝声管から、くぐもった男の声が聞こえてきた。
〝じきに雲の上に出ます〟
報告を聞いたロキは、安堵したとでもいうように、ホッと肩を撫で下ろした。
「聖地へはどれくらい振りで?」
ロキはいつもの調子を取り戻して、はきはきとたずねた。
「世紀を跨いでいるだろうな……」
「そんなにもなりますか……!」
「異端審問官とはそういうものだ。我々が相手をするのは、あくまでも堕天した天使と、彼らの命を殺めようとする魔の物だけ……。聖地巡礼は遠い夢といったところだろうな」
「巡礼すらも許されないので?」
ロキは驚いた様子で言った。
「許されてはいる。だが、そうする時間が……」
そこまで話したときだった。分厚い雲海を割って、きらびやかな陽光が船室を照らしだした。
〝聖なるかな聖なるかな聖なるかな……〟
ファントムの脳裡に祝福の調べが鳴り響いた。
晴れ渡った青空の下、太陽の陽射しを浴びて燦々と煌めく霊峰サン=ミエールの頂きが視界に飛びこんできた。
それは目を瞠る光景だった。
先ほどまでの狂騒がまるで嘘だったとでも言うかのように、上空から降りそそぐ光明と静寂とが、聖地と呼びならわされる神聖な世界を支配していた。
〝地上を這いずりまわるだけの生活に嫌気がさした〟
天使を生贄に捧げようと企てた牛鬼の長〝ロボス〟の記憶である。
〝我々は天から授かった亡者どもを支配する立場にある……〟
ヴェーダの町議会で繰り広げられた論争が、ファントムの脳裡をよぎる。
〝だがしかし、当の我々の扱いはどうだ……。遥かな高位の存在である悪魔どもは、我々魔の物を亡者同然に使役しているではないか……。そればかりではない。魔の物を統べているはずの悪魔ですら、堕天使という名の崇高な存在にただ隷属しているだけではないか……。この世における我々の存在は、その価値といい、意義といい、もはや完全に喪失されたと言えるだろう……。今までのようにこの地にとどまり、陽の目を見ることもなく一生を全能の君に捧げるか、それとも今ここで、天使の命をもて我々ヴェーダの民を崇高な地位にまで高めるべきか……。今こそ決断を下すとき……。英断をもて結論を出すときがやって来た……〟
眼前に横たわる清浄な世界……。これこそ、彼らが一族の命運を賭けてまで手に入れようとした栄えある世界なのだった。
雲を突くほどの高さにあるというのに、聖地を頂く霊峰はびっしりと樹木に覆われ、豊饒な環境に囲まれている。
まるで白亜の山肌に融けこむかのように石造りの街並みが築かれているのが遠目にも確認できた。栄えある聖地サン=ミエールまであとわずか。すでに手の届くところにまでやって来たのだという実感が、ファントムの胸中に漲っていた。
〝着陸の準備に入ります。総員、速やかにご着席ください〟
操舵室からの指示にしたがって、二人の異端審問官はそれぞれの席に着いた。
遥かなる歴史と荘厳な威厳に満ちた建造物に向かって、青玉色の船体に金飾りの施された見目麗しい飛行船エクスカリバー号が、ゆっくりと、だが着実に接近していった。
運命の歯車が噛みあう瞬間が、すぐそこまでさし迫っているとも知らぬまま――
固く閉ざされていた扉そのものが、地上へと伸びる階となった。
ファントムは、開かれた搭乗口から吹きこむ風にその身をさらし、新鮮な空気を思う存分味わった。
なんと香しい香りだろう。穏やかで清浄な雰囲気に包まれたこの地から、災厄などという不穏な気配は微塵も感じとることが出来なかった。
天使の園〝サン=ミエール〟
この崇高なる存在が息づく浄土において、我々を待ち受けているものとは果たしてなんなのか……。
そこまで想いをめぐらせたとき、ファントムは、自分たちを見つめる熱い視線があることに気づいた。
長衣の裾を風にはためかせながら慌ただしく立ち働く係員とは別に、純白の祭服に身を包んだ一団が飛行船の前に陣取っている。
サン=ミエールの町議連だ。
ファントムはその中に見覚えのある顔を見出した。町議会をとりまとめる議長でありながら、サン=ミエール大聖堂の司教をも兼ねているというマザー・テレシアその人である。
「ご到着のほど、お待ち申し上げておりました」
司教直々の歓待を受けて、流石のファントムもいささか驚いた。本来なら異端審問官などという一聖職者が気軽に謁見出来るような役職ではない。司教が直接我々を出迎えなければならないほど事態は切迫しているのだろうか……。それとも、ただ単に彼女の個人的な振る舞いと受けとめるべきなのか、ファントムは人知れずとまどっていた。
「ご歓待ありがとうございます、司教殿……」
彼女は穏やかな微笑みを湛えた顔を横に振って、
「どうかマザー・テレシアとお呼びになって」
「ご厚意に感謝いたします、マザー……。審問局より大体のお話は託っております。なんでも、目星をつけられている使徒がおありだとか……」
司教は悲しげに目を細めて言った。
「詳しい事情は大聖堂でお話しさせていただきとうございます、審問官殿……」
ファントムは己の軽率さを呪った。衆目にさらされているこのような場所で口走るべき内容ではなかった。もしかすると、町議連の中にもまだそういった事情を知らされていない者だってあるかも知れぬではないか。
彼女たちの後について歩きながら、ファントムは審問局から下された指令書の内容を思い出していた。
〝聖地サン=ミエールにおける災厄の兆候と情報の差異〟
指令書に添付されていた参考資料の題名である。
預言者による予知というものは概ね抽象的なものであり、天啓を受けた者によって事物の捉え方がはげしく異なっていることが多かった。そのため、預言の受け取り方ひとつとっても千差万別であり、どこでなにが起こるのか一概に決めつけることが出来ないのが常だった。
基本的に天啓というものは、能力者が垣間見た夢まぼろしであり、どのような解釈を下すかは、異端審問官の感性に委ねられている部分が大きい。そのため、優れた勘の持ち主には、ひっきりなしに依頼が舞いこむことになる。
したがって、優秀な審問官であるファントムに休息の暇はない。
派遣先にいたるまでの道のりで報告書を精査し、熟考に熟考を重ねていくつものパターンの解釈を導き出さなければならない。しかし、それでも毎回解釈が正しいともかぎらず、ときには任務中に大きな誤算に気づかされることもままある。
今回の報告書からは、大きく分けて二通りの結末が推測される。
遥カナル霊峰さん=みえーるニオイテ凋落ノ兆シアリ
複数の予言者がサン=ミエールの名を挙げていることから、この地においてなんらかの凶事が発生するであろうという見解でほぼ一致している。問題は、その凶事とやらが具体的になにを指し示しているのか、ということだ。
太陽ノ王 誘惑ノトキ来リテ
華ヤカナ言祝ギニ心躍ル
川ノ流レニ身ヲヤツシ
清ラカナル君ノ横顔ニ
暗イ翳リ兆シタリ
交錯ヲ重ネシ混淆ノ想イ
真ニ 思惑ヲ超越セントスル
これはなにを表しているのか、いくら思い悩んだところで判然とはしなかった。太陽の王とはいったい誰を指すのか……誘惑のときとはなにか……清らかなる君の正体とは……思惑とは誰にとってのものなのか……?
前述の予言とは違って、次の一文からは一筋の光明を見出すことが出来る。聖皇庁としては、こちらの予言に希望を抱いているのだろうが、現実とは、得てして最悪の結末に向かって傾くものではなかろうか? いや、これはあくまでも個人的な見解にすぎないのだが……。
予言者曰く、
翼アル者 天ヨリ下リテ
安ラギト悔恨ノマニマニ沈ム
天ト地ニ 反転ノトキ訪レリ
約束ヲ互イニ果タセヌママ
死ノシガラミニ囚ワレルダロウ
光射ス 街ノ汀ニ
コレ真シク モノノアハレナリ
最初の一行は、まさに天使そのものを指しているのであろう。それにつづく一文は、天使が物思いに沈んでいることを指しているのか……? 天と地が反転するというのは、驚嘆すべき何事かが起こることを暗示していると思われる。ここからが難問だ。約束を互いに果たせぬまま死のしがらみに囚われる……。誰の、何者とのあいだに交わされたどのような約束なのか? つづいて、予言は希望をもたらす一文を投げかけている。
〝光射す〟
天使の身に凶事が生じ、そこから事態が好転すると言いたいのだろうか? そして、この予言を最も難解せしめているのが最後の行だ。
極東の地に伝わるという独特な感情である〝もののあわれ〟とは、いったいどのような心象を表しているのか……? まったく馴染みのない表現に、とまどいを覚えなかったと言えば嘘になる。
これについては、極東の宗派に属する聖地〝神途原〟にでも足を運んでみる必要がありそうだ……と、ファントムは独りごちた。
生きたまま神の心象にまで達するという〝涅槃〟といい、本来なら他者であるはずの仏の意に沿って安らかなる死を迎えるという〝他力〟思想といい、未だ知られざる死生観が存在することにファントムは畏敬の念を抱いた。
発着場の薄暗い拱門をくぐり抜けると、そこにはまさに楽園と呼ぶに相応しい鮮烈な景色が広がっていた。
霊峰サン=ミエールの噴火口を一望のもとに出来るテラスが、すり鉢状の地形に沿って設けられており、それが円形闘技場の客席よろしく幾重にもわたって折り重なっているのだ。
噴火口の内部には豊かな森林が密生し、中央からやや北寄りの位置に、まっ青な空に映える美しい湖が滔々と横たわっている。
広壮な光景に目を奪われていると、それに気づいたテレシア卿がおもむろに口を開いた。
「素晴らしい景色でしょう?」
ファントムは、自分がしばし呆然としていたことに気づいて面映ゆく思った。
「わたしはこの地を守りたい……。清浄こそ、かけがえのない天からの贈り物だと思っているのです。こんなことを言っては、年寄りの冷や水と思われてしまうかも知れないけれど……」
「決してそのようなことは……」
ファントムは、司教に気を遣わせてしまったのではないかと思い、己を恥じた。
「そう畏まらなくてもけっこうですよ、審問官……。むしろわたくしどもの方こそ、あなた方に対して畏敬の念を抱いているのですから」
司教の意外な言葉に、ファントムはいささか驚いた。
「我々などは所詮、一介の軍人にすぎません」
「またそのようなご謙遜を……」
テレシア卿は歩みをとめることなくつぶやいた。
「異端審問官こそは、この世に点在する聖地の根幹を支えるものだとわたくしは存じております。彼の国に堕天した哀れな子羊を魔の手から救いたまうのは、誰を置いて他にもない、あなた方異端審問官ではありませんか。異端審問官こそが、魔の物と命を賭して戦い、天使の御霊が汚らわしい瘴気に毒されるのを守ってくれている……。本来であればわたくしどもが行うべき栄えなる御業を、あなたは見事に代行されておられるのです」
「そのようなお言葉を頂戴して、たいへん光栄に思います……」
ファントムは厳かな気持ちで謝意を顕わした。
「マザー」
そのとき、二人連れの少女がテレシア卿に声をかけた。
「ごきげんよう、シンシア。髪型を変えたのね、素敵だわ」
金髪の少女は恥ずかしそうに微笑んだ。
「ローラ。このあいだのスピーチはたいへん素晴らしかったわよ」
「ずっと練習してたんです。聴いてくださってありがとう」
「二人とも、またお会いしましょう。ご機嫌よう……」
少女たちは別れの挨拶を交わして立ち去って行った。
ファントムは、そのやりとりをなかば呆気に取られて見守っていた。
司教ともあろうお方が、その立場にありながら、なんの護衛もつけずに出歩いているということにも唖然としたし、テレシア卿がなんの変哲もない二人の少女のことを完璧に存じ上げていることもまた驚きだった。
「かわいらしいでしょう? ここにいる者すべてが、かけがえのない天使そのものなのです……」
彼女の言うとおりだ。ファントムは気持ちをあらためてあたりを見渡した。
ここでは、往来を賑わせている老若男女すべての者が天使であり、我々が守りとおすべきかけがえのない崇高な存在なのだった。
信じられるだろうか……。この世の楽土、聖地サン=ミエールの本質がそこにはあった。
バロックの精髄を極めた瀟洒なホールへと達したところで、一行はひとまず歩みをとめた。背中に翼を生やした熾天使と智天使を象った天使像が、厳かな仕草で扉の両側から黄金の剣をさし出している。
「こちらがサン=ミエールの大聖堂となっております」
テレシア卿の説明を受けて、ファントムは身が引き締まる想いがした。聖地の心臓部たる大聖堂に足を踏み入れるには、我々の手は血に染まりすぎてはいないだろうか……。
広大な礼拝堂には大勢の使徒が身を寄せ合っていた。幼い子供たちがそこら中を駆けまわり、十代と思しき少女たちが華やかな嬌声を上げている。
聖堂という言葉から受ける印象とは異なり、賑やかな喧騒に包まれていること自体がファントムには意外に思えた。
下界ではまず見ることのできない平和な光景だった。これぞ純真なる〝無垢〟のなせる御業であろう。
テレシア卿の姿を認めるなり、大勢の天使が彼女のもとに寄り集まってきた。
彼らにとって司教とはこれほどまでに身近な存在だったのか……。両の手をそれぞれ別の子供たちに引かれて、テレシア卿は喜びに満ちた微笑みを振り撒いていた。
「皆さん、今日はお客様がいらっしゃっているのよ」
そう言われて、天使たちがいっせいに二人の異端審問官を振りかえった。
清浄な聖地にあって黒衣の僧服が目立ちすぎたのか、ファントムはたちまちのうちに好奇の目にさらされた。
「あなたたちも先生から教わったでしょう? こちらのお二人は、十字軍の騎士様であられるの……」
テレシア卿がそのように紹介すると、二人に向けられていた好奇の目が羨望の眼ざしにとって変わった。
「わたし、十字軍のお話たくさん知ってます!」
「この娘も以前、騎士様に救けらました!」
聖地では、審問局のことを十字軍と呼びならわし、異端審問官は地獄から人々を救い出す正義の騎士に置き換えられている。
ファントムは天使から慕われていることを面映ゆく思い、かたわらのロキに視線を送った。ロキは、僧服の裾を幼子に引っ張られてもみくちゃにされているところだった。
「さあ皆さん、お二人を放してあげて。これから大切なお話をしなければならないのです」
一行は礼拝堂を横切って、祭壇の裏側へとつづく廊下に出た。ファントムたちは、赤い絨毯を敷き詰めた通路の先にある一室に通された。ファントムたちの他に、今一人、司祭服に身を包んだ初老の男性が後に残った。
「さて、お二方……」
振りかえったテレシア卿は、それまで見せていた和やかな表情から、神妙な面持ちになり変わっていた。
「先ほどのお話ですけれど……」
気持ちの切り替えの早さにファントムは舌を巻いた。ロキなどはいまだに浮かれたような表情を浮かべているというのに、彼女はすでに憂慮すべき深刻な問題に向き合っていた。
「なんでも、目星をつけておられる使徒がおありだとうかがっておりますが……」
テレシア卿は深く溜め息をついた。
「わたくしどもは、ここ数年来、悪質な悪戯をする使徒に悩まされているのです。彼らが行う悪戯は、よく言えば驚きの演出ともとれますが、悪く言えば失態そのもの……。ときにその悪戯で負傷者が出ることもあるのです」
ファントムは資料に記されていた組織の名前を思い出した。
「彼らが今回の予言に関係しているとお考えなのですね?」
「万が一にも〝災厄〟が訪れれば、多くの天使たちが犠牲となるでしょう……。それは憂慮すべきものであると同時に、たいへん屈辱的なことでもあります」
「心得ております」
「わたくしどもは以前から、彼らの動向を注視しておりました。いったい誰が、どのような意図をもって騒ぎを起こしているのか把握すべく、なべての使徒たちに疑いの目を向けていたのです。それは恥ずべきことではありますが、必要ならざるものでしたから、調査はごく内密にすすめられました」
テレシア卿はそこでいったん話を切ると、かたわらにたたずんでいた司祭から一束の書類を受け取った。
「ここになんらかの疑いありきと判断された使徒の名前を書き出してあります。おそらくこの中に詳しい事情を知っている者があろうかと思いますが、わたくしどもはまだ彼らとは直接接触してはおりません」
「後は我々にお任せください」
「ですが、審問官……」
「わかっています。我々が調査を行っているということは誰にも漏らしませんし、調査対象にそれと気取られることもなきよう最大限努めさせていただきます」
それを聞いて、テレシア卿は大きく肩を撫で下ろした。
「安心しました。それでは、係りの者をおつけしますので、なにかお困りのことがございましたら、なんでも彼にお言いつけください」
レニー・セバスティアン卿。
ファントムたちとともに部屋に残り、一部始終を聞いていた男の名前だ。
彼が我々の案内役を務めると聞いたとき、ファントムは少しばかり驚いた。まさか司祭が直々に案内役を務められるとは思ってもみなかったからだ。
それもしかし、事情が事情であるため、致し方ないことではあった。情勢を把握しているのはごく一部の者だけだということだったから、それなりの地位にある聖職者がこの役目を担うことになったのだろう。
西陽の射すテラス席で、ファントムは容疑者の名前が記された書類に目をとおしていた。あたりに人気はなく、セバスティアン卿の口から調査に関する詳細な報告がなされているところだった。
「それで、ここに記されている者たちの仕業ではないかと考えておられる訳ですね?」
セバスティアン卿は、額の汗を拭いながら応じた。
「複数の目撃証言から考えるに、コンサートの関係者と思われる使徒が今回の一件に関わっていると目されております。その実行犯と言われているのが、そちらのお手元にある名簿の中に……」
司祭は袖を片手で押さえたまま、一人の使徒の名前を指さした。
「爆発が起きた当初、現場で不審な行動をとっているところを我々の同志が目にしております」
「具体的な説明を……」
セバスティアン卿はひとつ咳払いをして、次のようにつづけた。
「爆発が起きたとき、彼は現場の近くに座っていました。立ち上る火花を見て逃げ惑う聴衆をよそに、彼は現場の周辺をうろつきながら、こうつぶやいているのを同志が聞いております。曰く〝こんなはずではなかった〟と……」
ファントムはふたたび名簿に視線を落とした。
〝ジャン・ストラウス〟
サン=ミエールに収容されたのが十五年前……。まだ生まれて間もない子供といったところだ。能力的に見ても、まだ未熟だと考えて間違いないだろう。
〝疑わしきを疑え〟というやつだ……。今手元にある情報をひとつずつ虱潰しにしなければならないのだから、うかうかしてはいられない。
「彼は今どちらに?」
セバスティアン卿はファントムの目を見つめて、
「お会いになられるおつもりですか?」
「いけませんか?」
「いえ、滅相もない。ですが、直接接触するのはまだ早計ではないかと……」
「心配はご無用です」
彼らは審問官の能力を把握していない。接触とは言っても、それとなく体の一部に触れられさえすれば、それと気づかれることもなく記憶を転写することができるはずだ。
セバスティアン卿は、いくぶん訝しげな表情を浮かべたものの、異端審問官に調査の全権を委ねるという司教の言いつけには従わざるを得ないと判断したようだった。
「それでは参りましょう。彼のもとに……」
災厄に向かって、時計の針は刻々と進みつつあった。
〝グロリアスホール〟
聖地の地名などに清浄な響きがこめられているのには訳がある。少しでも天使にとって豊かな環境を提供する必要があるからだ。
この世を満たすエーテルの流れの中から不浄なものの気配をことごとく打ち消すことによって、より快適で安寧な生活を送ることが出来る。
禍の根源を断ち切ることこそ、全能の君の悲願なのである。
「この中にジャン・ストラウスがいるはずです」
ホールを見下ろす二階席で司祭は言った。
「あなたはここに残っていてください。その格好では目立ちすぎますゆえ……」
司祭は安堵したとでも言うように肩を撫で下ろした。
「見つかりますかね?」
階段を下りながら、ロキが小声でつぶやいた。
「是が非でもな……」
「本当に彼が騒動に関与しているとお考えですか?」
「たとえそうでなくとも、なんらかの手がかりは得られるだろう」
「こんなにも陽気な雰囲気の中に、禍の根が潜んでいるとは思えませんが……」
浮かれ騒ぐ使徒を見下ろしながら、ロキは言った。
「見た目に騙されるな。災厄はいつどこで発生するともかぎらない……」
「懐かしいな……」
まだ若いロキにとって、聖地での生活はまだ淡い思い出として記憶されているのだろう。一方のファントムにとってそれは、もはや遠い記憶の断片でしかなかった。
楽団による華やかな演奏にあわせてステップを踏む男女、テーブル席について談笑を交わす若者、色鮮やかな風船を手にはしゃぎまわる子供たち……。賑やかなホールにあふれる人また人……。この中に、暗い闇を抱えた天使が身を潜めている。いったいどこに……。
ジャンの肖像はしっかりと記憶してある。彼だけでなく、騒動の当事者であるパラダイム・インテントリー楽団と、彼らと親しくしている使徒の顔は出来るかぎり把握しておいた。
肖像画はきわめて精妙に描かれている。これは他者が記憶している面影を素に、占星術師が自動書記によって描いたのだという。
「十時の方向を見てください」
ロキが小声でつぶやいた。
豪勢な料理を置いたテーブルの向こうに、数人の若者が集まっている。
「手配書で見かけた顔がありました。わかりますか?」
「まだ確認していない。誰のことだ?」
「青いドレスの少女……。セシル・ゴーン・アイナスに間違いありません。彼女もこちらの存在に気づきました」
ファントムは彼女から視線を外した。このまま見つめていたのでは、接触のきっかけを失いかねない。
「どうやって接触しますか?」
「急ぐな。まだこちらを怪しんではいないようだ。このまましばらく様子を見よう」
二人は、セシルをとり巻く輪を迂回するようにして壁際に移動した。
負傷者を出したあの騒動に彼女は関わっているのだろうか?
いや。一概に決めつけることはできない。グループ内にも事情を知っている者とそうでない者とがあるかも知れない。
彼女が周囲に振りまいているあの笑顔はどうだ? 怪我人を出した事件に関わっている者が、あのような無邪気な笑顔を見せられるだろうか?
天使が天使を傷つける……。
命懸けで天使の身を守っている異端審問官としては、想像だに出来ない事件だった。しかし、それこそが災厄の根源になるというのだから、決してあり得ないことではないのだろう。それどころか……。
そこまで想いをめぐらせたとき、彼女のもとに、ジャン・ストラウスが姿を現した。
「ファントム様……」
「わかっている。お前はここにいろ」
「お一人で行かれるので?」
「十字軍の騎士が二人連れで話しかけるだなんて、怪しいと思わないか?」
ロキはいかにも悔しいといった様子で壁に背をもたれかけた。
ファントムは、人波にまぎれるようにして少年の背後へと移動した。セシルという少女がふたたびこちらに気づいたが、ファントムは気配を察して視線をそらし、通りすがりのボーイから透明な飲み物の入ったグラスを受け取ることで、無関心を装った。
「騎士様……」
好都合なことに、彼らのテーブルに近づくと、セシルの方からファントムに話しかけてきた。
「おつまみはいかがですか? わたし、下界のお話をおうかがいしたくって……」
「我々の冒険譚にご興味がおありで?」
セシルは嬉しそうに隣りの少女と顔を見合わせて、快活に「はい!」とこたえた。
その様子からは、悪事を働いたような気配はまるで感じ取れない。
「いいでしょう。どのようなお話がお好みですか、お嬢さん……」
彼らは、銀髪銀眼の騎士を羨望の眼差しで見上げている。
「お話の前に、食事をしても? 到着したばかりで、なにも口にしていないのです」
「ええ、もちろん! ここの料理はどれも素晴らしいものばかりですよ!」
「あれはなにかな?」
ファントムは、テーブルの反対側に盛られている料理に興味を示して、うまくジャンの背後にまわりこんだ。
「魚介類のアクアパッツァですよ、騎士様」
ジャンはファントムの顔を見上げながら、皿に手を伸ばしかけた。
「ああ、いいよ。自分で取るから」
絶妙な仕草でジャンの肩に手を置くことが出来た。ファントムは間を置かずして、さっそく記憶の読み取りを開始した。
ジャン・ストラウスの表層意識に触れたとたん、彼がこの世界に誕生してから今までに経験した記憶がファントムの脳裡にどっと雪崩れこんできた。膨大な情報の中からコンサートに関連した情報を精査しようとしたとき、ファントムはなんとも例えようもない不穏な気配を感じて眉をひそめた。
そのときだった。
「なんのつもりだ!」
ジャンは弾かれるようにしてファントムの手を肩から払いのけた。
これには流石のファントムも意表を突かれた。まさか、記憶を読み取っていることに気づいたとでも言うのだろうか?
その場が一瞬にして静寂に包まれる。まだ年若い十代半ばの少年が、見上げんばかりの長身の騎士に食ってかかったのだから当然だろう。
「どうしたの、ジャン……?」
横に腰かけていたセシルが不安げに問いかけた。
「こいつは騎士なんかじゃない!」
ジャンは跳ねるようにして立ち上がると、ファントムの体を突き飛ばして駆け出した。
「ロキ!」
二等審問官の行動は早かった。ファントムに言われるまでもなく、即座に少年の進行方向に立ちふさがると、利き腕である右手を腰に帯びた小剣に伸ばしていた。
「あなたには聞きたいことがあります。ここを通す訳にはいきません!」
ジャンは、鋭い目つきでロキの得物を睨みつけると、茫然とした様子でかたわらに立ち尽くしている人だかりの中へと飛びこんだ。
騒ぎに気づいた警邏隊が笛を吹き鳴らし、それまで平穏そのものだったグロリアスホールに狂騒のときが訪れた。
「その子を捕まえろ!」
警邏隊に向かってロキが大声で指示を出した。
そのときすでに、ファントムは気持ちを切りかえていた。ジャンに出来ることはせいぜい逃げ惑うことだけだ。彼の行動には訳がある。すなわち、組織のメンバーをこの場から逃がすこと……。
ファントムはおもむろに大剣を抜き放ち、豪勢な料理の並ぶ食卓に向かって勢いよく振り下ろした。
人波の中をもみくちゃになりながら逃げ惑うジャン・ストラウスが、横目でちらりとこちらに視線を送るのが見えたが、ファントムはそんなことには意を介さなかった。
テーブルの周りには料理が飛び散り、驚いた使徒が数人、床に転げ落ちてファントムの顔を見上げていた。
「いくつか尋ねたいことがある」
テーブルを挟んで向こう側に座っていた少年が椅子ごと後ずさった。
「これは教皇陛下のご意志に基づく審問だ。心あたりがあるだろう、ベンジャミン・ベイカー……」
ファントムはこのときすでに、ジャンの意識下からある程度の情報を盗み取っていた。
ベンジャミン・ベイカーは、この場にいる使徒を束ねる中心的な存在であり、それと同時にパラダイム・インテントリーなる楽団との伝達役をも兼務している。
「この場から逃げることはすなわち、罪を認めたものと判断する」
使徒たちは、目の前に突き出された大剣に目を向けたまま、微動だに出来ないでいた。
そこに鮮やかな青色の制服に身を包んだ警邏隊が駆けつけてきた。
「ファントム様、いかがいたしましょう……?」
「ここにいる者の身柄を拘束しろ」
もう少し深く記憶を探り出していれば誰を捕まえるべきか白黒はっきりつけられたのだが、その直前にジャンはファントムの手から逃げ出してしまった。事態が完全に把握できていないままとあっては、わずかなりとも疑いの残る使徒はことごとく捕まえておいた方がいいだろう。
「騎士様、これはいったい……」
うろたえる使徒の中でただひとり冷静さを保っているように見える青年が言った。
ジャンの記憶によると、彼はたしかパラダイム・インテントリーという楽団の中心人物で、指揮者のクリスティアーノ・ドミンゲスという名前だった。彼もまた、今回の一件となんらかの関わりがあるのだろうか……。
「案ずるな。少しばかり聴きたいことがあるだけだ……」
一方このとき、ホールの中では大立ちまわりが繰り広げられていた。騒ぎに慌てふためいて逃げ惑う使徒の他に、名簿に記されていた名だたる容疑者たちが入り乱れて乱闘騒ぎにまで発展してしまったのだ。
人だかりの中にロキの姿を見かけたとき、彼らは床に押さえつけたジャンの手に縄をかける寸前だった。
「ジャン!」
背後で悲壮な叫びを上げたのは、先ほどの青年だった。
「彼を放せ! 彼がいったいなにをしたって言うんだ!」
先ほど見せた冷静さをかなぐり捨てて、クリスティアーノは警邏隊の腕の中ではげしく暴れ出した。着ていたシャツの袖をびりびりと引き裂いて、彼は叫びつづける少年の元へと駆け出した。
「クリス!」
喧騒に包まれるホールの中に、悲鳴にも似た甲高い声が響き渡った。
見ると、出口に殺到する人波に逆らいながら、複数の使徒がホールの中に入ってくるところだった。このような場に押し入ってくるなんて、いったいなにを考えているんだ……!
「警邏隊! その子たちをとめるんだ!」
ファントムの指示を聞いた警邏隊の男が、すかさず彼女の前に立ちはだかった。
これでいい。今は一刻も早く天使を避難させるべきときだ。
そのとき、ジャンを取り押さえていた警邏隊が悲鳴を上げて体をのけ反らせた。
「司祭様……! 司祭様を呼べ!」
ファントムが見守る前で、床にねじ伏せられていた少年がゆっくりと立ち上がりつつあった。そのかたわらで、ロキが腰に帯びた小剣を抜き放つ姿が見えた。
「ファントム様! ご指示を!」
ジャン・ストラウスのまわりで怪しげな影が蠢いている。漆黒の影は、少年の体にまとわりつくように膨張と収縮とを繰りかえしていた。
「あれはいったいなんだ……」
背後で何者かがつぶやくのが聞こえた。その声は恐怖に慄いているようだった。
「遅かった……!」
少年の体に吸いこまれるようにして、影はいったん姿を消した。しかし次の瞬間、ジャン・ストラウスは、この世のものとは思えないほどの強烈な断末魔を発した。
周囲の空気がビリビリと振動し、壮絶な衝撃波がグロリアスホールを圧倒した。
少年の頭上で、豪奢な天井から吊り下げられたシャンデリアがいっせいに砕け散った。
「危ない!」
次の瞬間、明かりの消えたシャンデリアが床めがけて落下した。
「ロキ! 躊躇うな!」
ファントムは、ただちに少年を粛清するよう指示を出した。こうなってしまっては後には引けない。災厄の正体がつかめた今、その根源を速やかに排除するべきである。
しかし、ロキはそのとき、ジャンが放った衝撃波に吹き飛ばされて、現場から離れた床面に倒れこんでいた。
覚醒したばかりのジャン・ストラウスは、一転して大人しくなった。しかし、大きく見開かれた瞳は闇色に染まり、赫々としたまっ赤な輝きを放っている。暗闇の中で対峙した際に牛鬼の長が見せたのと同じ眼だ。
ジャンは、きつく喰いしばった口元から汚らしく泡沫を吐き散らしながら、ぶつぶつと何事かつぶやいている。はっきりと聞き取ることは出来なかったが、あるいはそれは我々に対する呪詛だったのかも知れない。
「司祭様! ご決断を!」
いつの間にか、セバスティアン卿がホールに降りてきていた。
「いかん、悪魔憑きだ!」
警邏隊のあいだに動揺が広がり、少年を取り巻く輪がいっせいに崩れた。威風堂々といった態度を見せていた屈強な男たちが、得物を放り出してホールの出口を目指して逃げ出した。
「災厄が起きるぞ! 今すぐホールから身を引きなさい!」
セバスティアン卿はただ一人その場に残り、呪詛をつぶやきつづける少年に向かってにじり寄って行った。
「司祭殿、なにをされるおつもりですか!」
「審問官! わたしには呪われた使徒を浄化する力が秘められておりますゆえ、ご心配は無用です! あなたは、その少年を連れて一刻も早くこの場から退きなさい!」
セバスティアン卿の言葉を聞いて、ファントムは彼我のあいだにへたりこんだまま茫然としているクリスティアーノの存在に気づいた。このままでは彼も災厄に巻きこまれかねない。
ファントムは大剣を鞘に収めると、クリスティアーノの両脇に手を差しこんで立ち上がらせた。
「ジャン……」
青年は、ファントムの腕の中で少年の名をつぶやいた。
「聖なるかな聖なるかな聖なるかな……」
サン=ミエールの司祭は臆することなく少年に近づいていった。燃え上がる炎のような闇に包まれたジャン・ストラウスは、司祭に気づく素振りも見せずにあらぬ方向に視線をさまよわせている。
「ファントム様、こちらへ!」
ファントムは、ロキの声にしたがってホールの出口を目指しながら、後に取り残された二人の方を振り返った。そのとき、ホールの反対側の出口から外へ逃げ出そうとする人波の中に、ファントムは一人の天使の姿を認めていた。
ファントムは一瞬足をとめかけたが、すでに天使の姿は重い扉の向こうに締め出されたあとだった。
このとき、審問局から託った予言の一節がファントムの脳裡をよぎった。
〝光射ス 街ノ汀ニ〟
今しがた見かけた天使こそがファントムにとっての光明そのものであることに、もはや疑いの余地はない。聖地にて悲願のひとつは成就せり。ただし、この先に待ち受ける苦難の道のりは長く厳しいものになるはずだった。
未曾有の混乱に見舞われたグロリアスホールにおいてただ一人、ファントムの心の中でのみ、希望の星がはげしく輝きを増していた。




