第12章 粛正者
親友との再会はマリアンヌに衝撃をもたらした。もう一度彼女に会いたいと願うその想いはかなうのだろうか
なにごともなく過ぎ去っていく時間というものに、わたしは漠然とした不安を募らせていた。この世界では、すでに身罷っている御霊が老いさらばえることはないのだという。
ある者は子供の姿でこの世に顕現し、またある者は成人した姿をとるのだという。そして、一度この世界に降臨した御霊が、それ以上年老いることはない。すなわち、それは永遠の命を約束されたと考えても差しつかえないのだろうか?
だとしたら……。
マリアンヌの小さな胸の裡に、かすかな希望が去来した。
だとしたら、わたしたちはもう死ぬことはないのかしら? 薄れゆく意識の中でわたしの名前をつぶやいたサラ・ディキンソン……。彼女もまた、一命をとりとめてくれるといいのだけれど……。
「見て……」
マリアンヌのかたわらで、エミリアが囁いた。
「まだ犯人捜しをつづけているのね」
石造りのアーケードから白い僧服に身を包んだ一団が姿をあらわすと、華やかだった街並みが緊迫した雰囲気に転じた。
サン=ミエールの町議会は、多くの負傷者を出し例の一件を重くかんがみて、これまでに数々の騒動を起こしてきたイベントサークルの正体を暴くことを公式に表明した。
彼らは、それらの組織と関わりのありそうな人物を炙り出すべく、こうして街中で聞きこみを行っているのだ。
気配は……
緩やかにではあるけれど、着実に変化のときを迎えようとしていた。
「あれだって……」
エミリアは、テーブルに肘をついたまま、ストローでグラスに注がれたジュースをすすりながらつぶやいた。
「騒動に関わった人たちは矯正施設送りにされるって噂よ。クリスたちの楽団も事情聴取を受けるって言ってたわ。彼らは被害者のはずなのにね」
口を尖らせるエミリアをよそに、わたしはマザー・テレシアから聞いた言葉に想いを馳せていた。
〝わたしたちはみな、すでに息絶えている〟
こうして目の前で美味しそうにジュースを飲んでいるエミリアも、隣りのテーブル席で美術史について意見を交わしている男の子たちも、みんなすでに人生に終止符を打ったあとなのだという……。
そんなこと、とうてい信じられそうにない。
彼らは知っているのかしら……。わたしは道の向こうでなにやら聞きこみを行っているらしい僧服姿の一団に視線を向けた。
マザーはもちろん、シスター・ケイトも事情に通じているようだった。この街の中に、真実を知っている者がどれほどいるものなのか、もしかするとネロに聞けばなにかわかるかもしれない。
自分と同じ悩みを共有している人たちと言葉を交わしてみたいとマリアンヌは切に願った。そうしなくては、この小さな胸が今にも押し潰されてしまいそうで、いてもたってもいられなくなる、そんな想いがした。
「やっときた!」
かたわらでエミリアが不満げな声をあげた。
人混みで賑わうカフェテリアにネロの姿を認めたとき、わたしはようやく胸のつかえがとれたような気がした。
これでようやくなにかわかるかもしれない……。
正直、あの話を聞かされてからこっち、マリアンヌは暗闇に独り取り残されたかのような心細さを味わっていた。自身の死と向き合うのには、わたしはまだ幼すぎる。心の準備を整えるには、適切な助言と情報をくれる助け舟が必要だと思い知らされた。
その鍵のひとつがネロであることは間違いない。
もしも彼を失ってしまったら、わたしはまた疑問の渦に巻きこまれてしまうだろう。マザー・テレシアがいる……シスター・ケイトがいる……でも、わたしがもっとも切実に求めていたのは、太陽のように朗らかなネロという少年の存在だった。
「待たせたね」
ネロは空いている席につくなり、卓上のメニュー表を手にとった。
「注文はあとにしてよ。マリアンヌがどれだけ心配してるか知ってるくせに!」
エミリアは、やや憤然としたようすで言った。
それというのも、医務室に運ばれたはずのサラの行方が杳として掴めなかったからだ。
病室に一人残ったエミリアが、あの若い看護士が戻るのを待っていてくれたものの、サラが搬送された記録は見あたらなかったのだという。
わたしは彼女からその話を聞かされて、途方に暮れてしまった。またしても友人の手がかりを失ってしまったことに対する寂しさもあったけれど、それとは別に、もしも彼女の病室がわかったのだとして、今の時点で会うべきなのかどうか心が揺れ動いてもいたのだった。
それでも、彼女が無事だったのかどうか、それだけでも知りたいという想いは強く感じていたから、朝目が覚めて、ネロがサラのことを探してくれているのだと知ったときはすごく嬉しかった。
「そのことだけど……」
と、ネロは伏し目がちにつぶやいた。
嫌な予感がした。何事か言いにくい事態がサラの身に起こったに違いない。
「彼女は体調が思わしくないとかで、医療施設の整っているサン=エルトロに搬送される見こみだっていうんだ」
体調が悪い……?
わたしの頭は今にも破裂しそうだった。
そう……。死後の世界だというこの天上の国でも、天使が命を落とすなどということが起こり得るのだろうか? すでに死んでしまっているはずのわたしたちの身の上にも、果たして死は訪れるのか?
ネロの言葉をきっかけに、わたしの脳裡に様々な疑問が生じた。
「そう……。煙りでも吸ったのかしら?」
そんなわたしの想いをよそに、エミリアがそっけなくこぼした。
彼女はまだ事情を知らされていないのだとネロは教えてくれた。そして、エミリアにはまだこのことは黙っておくようにとも言われていたのだった。
忘却の河を下るとき、天使は辛い記憶を失ってしまうのだという。
それと同時に、様々なことがらに対する疑念や不安すらも抱かなくなる傾向があり、自分がいつまでも齢をとらないことを不思議に思うことも、家族がどうなってしまったのか疑問を抱くことすらないらしい。
それは本人にとっては幸福なのかも知れないとネロは言った。
だけど……。
マリアンヌは思った。
事情に気づいてしまったわたしから見れば、それは大きな悲しみをともなっているようにも思えるのだった。
家族のことも友人のことも忘れてしまうだなんて、あまりにも辛すぎるではないか……。
「でもね、マリアンヌ……」
ネロはそんな疑問にも丁寧にこたえてくれた。
「赤ちゃんが生まれてくるとき、前世の記憶を持っていないのはなぜだかわかるかい? それは、生前経験したであろう幸せな記憶を思い出さないようにするためさ。一度失った幸せをとり戻すことができないと知ったとき、人はなによりも耐え難い苦痛に見舞われることになる。ちょうど今のぼくたちがそうであるように……」
ネロ……。
わたしはそのとき、辛い想いをしているのが自分だけではないのだと気がついた。
彼もまた、こうして生前の記憶をとり戻したことによって、あらゆるものを失ったんだ。
それは筆舌に尽くし難いほどの苦痛だったのだろう。だからこそ、わたしが彼にどのくらいのあいだここにいるのか聞いたとき、答えてはくれなかったのだ……。
わたしは自分の浅はかさを呪った。
もし彼が何世紀もの長いあいだ、誰にも話して聞かせることのできない言い知れぬ悩みを抱きつづけているのだとしたら……。それは天上の国というこの清浄な楽園にあって、まるで地獄の業火にも似た苦しみ味わっているのと同じではないか。
二度と手に入らない幸せは、彼になにをもたらしたのだろう……。
「きっと大丈夫よ。そうでしょ、ネロ?」
エミリアの言葉に、わたしはふと物思いから我にかえった。
「話を聞いたかぎりでは、大事には至らないと思うけどね。サン=エルトロの医療体制は進んでいるし、心配する必要はないんじゃないかな」
「きっとすぐに会えるわよ、マリアンヌ」
「ええ……。ありがとう」
また会える……果たして本当にそうだろうか? 記憶をとり戻す可能性のある者同士を再会させるのが最良の選択と言えるのかどうか、わたしにはわからなかった。
もしかすると、わたしたちはこのまま引き離されてしまうのではないだろうか、という不安がマリアンヌの胸に去来した。
あとでネロに聞いてみなくては……。きっと彼ならなにか知ってるに違いないわ。サラのこともそうだけれど、彼女が搬送されたというサン=エルトロのことも気がかりだ。その街は、この世界のどの辺りにあるのかしら……。
わたしはストローでクリームソーダをかき混ぜながら、そんなことを考えていた。
「それよりも、あの連中……」
エミリアは、町議会が組織した調査団の方を指して言った。
「彼らについてなにか知ってることはない?」
ネロは椅子の背もたれに体をあずけて、大きく伸びをした。
「気になるのかい?」
「だって、クリスたちのことまで疑ってるのよ? 無実の罪を着せられるかもしれないなんて見逃してはいられないわ」
「それをたしかめるには、やっぱり色んな人たちから話を聴いてみなくちゃならないだろうね」
「でも……」
エミリアは調査団をちらりと見やってから、声を潜めて言った。
「彼らの噂を聞いた? みんなは彼らのことを粛正者って呼んでるわ」
「粛清か……」
ネロは抜けるような青空に遠い目を向けてつぶやいた。
「罪を憎んで人を憎まずって言うけれど、その言葉がどれだけ事の本質をついているのかぼくにはまるでわからないよ」
「どういうこと?」
「罪を犯した者が赦されるのなら、この世界から罪は消えないんじゃないかって、そう思うんだ。赦しは新たな罪を招く呼び水にすぎないんじゃないかってね……」
わたしたちはしばしのあいだ言葉を失った。いつものあどけないネロの様子からは想像出来ない台詞だったからだ。
昨日交わした会話のときも、今の台詞を聞いたときもそう。ネロが遠い存在ででもあるかのように思える瞬間がある。彼はあどけない少年の姿をしているけれど、本当のところはいったい何者なのだろうか?
わたしはしかし、つい穿った見方をしてしまった自分をいささか恥じてもいた。
そんなことは関係ない。今わたしが目にしている存在こそがネロそのものであり、かけがえのない大切な友人なのではなかったか?
この世界に誕生してから今日に至るまで、わたしはいつも彼に助けられてばかりではないか……。彼が自分とくらべてどれほど遠い存在であろうと、そんなことはちっぽけなことなのだ。
少なくともわたしはそう思うことにした。
「難しいことはよくわからないけれど、クリスは罪なんて犯してない。わたしはそう思うわ」
「それはこれからわかることさ」
「たとえあれが彼らの仕業だったとしても、イベントを盛り上げるためのただの遊びだったかも知れないじゃない。罪と遊びは別物だと思わない?」
「遊びか……。昨日の一件だって、意図的にああなった訳じゃないかも知れないよ。だけど、結果的に多くの怪我人を出した。サラのような女の子まで巻きこんで……」
〝サラ〟
その言葉がエミリアを黙らせた。
たしかにそう。ただの遊びのつもりだったのかも知れない。こんな事態になるなんて、本当は誰も思っていなかったのかも知れない。だけど、結果だけを見れば、これは単なる悪戯にはとどまらない事件にまで発展してしまった。
果たしてそれは単なる遊びで済ませられるものなのだろうか?
もしもそれが赦されるのだとしたら、この世界から罪がなくなることは望めないのではないか?
マリアンヌは胸をしめつけられる想いがした。
なにをどうすれば最善の策となるのか判断する力がないのだということが、今の自分の無力さを物語っているような気がして、とてもいたたまれない気持ちになった。
そのとき、通りの向こうでどよめきが起きた。
「なにかしら? ねえ、行ってみない?」
エミリアが、好奇心を抑えられないといった様子で立ち上がった。
わたしたちは彼女のあとにつづいて、人だかりの出来ている往来へと急いだ。
「粛清だ……」
人だかりの中で誰かがつぶやく声がした。
わたしが通りに駆けつけたとき、ちょうど僧服姿の一団が数人の逮捕者を連れてそぞろ歩いているところだった。
逮捕された容疑者たちは後ろ手に縛られており、顔を隠すために頭からすっぽりと三角の頭巾を被せられていた。
「誰が捕まったんだ?」
「中等部のダミアンだって話だぜ……」
かたわらで男の子たちが声を潜めて囁き合っている。
「嘘でしょ……」
エミリアが口元を押さえてつぶやいた。
「知り合いなの?」
エミリアは通りすぎて行く白頭巾の一団に目を向けたまま、無言で頷いた。
「ダミアンはクリスの楽団のメンバーなんだ」
「それじゃあ、あのときも舞台に立っていたの?」
「ああ。彼はチェリストとして参加していたよ」
「きっとなにかの間違いよ……」
エミリアが蒼白な顔でこぼした。
「もしかすると、彼の友達かなにかが演奏を祝うために花火を打ち上げようとしたのかも知れない」
「そんなのって……」
ネロは淡々とつづけた。
「花火を打ち上げようとしたとき、彼らのあいだで手違いが起こった。そして事故につながったとは考えられないかな?」
「もしそれが本当だとしたら、彼は……ダミアンはどうなってしまうの?」
エミリアは悲壮な顔でネロに問いかけた。
「だって、単なる事故だとしたら、彼らはなにも悪いことなんか考えてなかったはずじゃない!」
「それは……」
「これからわかること……。そうね……だけど――」
ネロはエミリアの肩にそっと手を置いて言った。
「今はただ見守ることしか出来ない……。ダミアンを想う気持ちは、彼らにだって通じているはずだよ」
エミリアは投げかけられた言葉に頷いて見せると、小さな声で言い添えた。
「彼のこともそうだけど、わたしが今一番心配してるのは、クリスが疑われてるんじゃないかということよ……」
ネロとわたしは互いに顔を見合わせた。
クリスの楽団全員に嫌疑がかけられているかも知れないなんて、想像だにしていなかった。クリスにまで粛清の魔の手が伸びているのだとしたら、いつまでものんびりなどしていられない。
「行きましょう」
わたしの言葉に、エミリアはついと顔を上げた。
「クリスティアーノに会いに行かなきゃ。今すぐに……!」
わたしたちは、そぞろ歩く人波のあいだを縫って駆け出した。彼が拘束されてしまう前に、なんとしてでも会っておかなきゃ……。そうでなければ、きっと一生後悔するに違いない。彼と出会ってまだ日が浅いわたしだけならまだしも、ネロやエミリアにとって、クリスティアーノという存在は、わたしにとってのサラと同じかけがえのない大切な友達なのだから。
先を急ぐわたしたちをよそに、陽の傾きかけたサン=ミエールの街並みに、夕刻を告げる鐘の音がただ虚ろに鳴り響いた。




