第11章 秘密裏に、そしてそっと
ようやく天使を保護したファントムだったが、また新たな天使の情報が舞い込んでくる
寝室の中央に、天蓋つきのベッドがひとつ置かれている。
レースのカーテンを開けると、一柱の天使がひとり、静かな寝息をたてながら横たわっていた。
その腕には、点滴を打つためのカテーテルが注射されている。注射痕の他にも、抜けるような白い膚には、いくつもの切り傷が見受けられる。浄化班の説明によると、これは牛鬼たちによって生き血を抜かれた痕なのだという。
「酷いことをするものだ……」
声が聞こえたのだろう、長い睫毛に覆われた瞼がぴくぴくと痙攣し、やがて天使がうっすらと瞳を開けた。彼は、しばらくのあいだぼんやりと視線をさまよわせていたが、かたわらにたたずむ神父に気がつくと、不安げな表情で瞬きを繰りかえした。
「起こしてしまったかな?」
少年は無言のまま神父を見つめつづけた。自分の置かれた状況にとまどいを隠せない様子だった。
「わたしを覚えているかな?」
ジョシュは、シーツを手繰り寄せて顔を半分うずめると、首を横に振った。
「わたしは聖アントニウス。サン=エルモ教会の神父だ」
ジョシュは怯えきった表情で、素早く室内に視線をめぐらした。
「安心しなさい。ここにはきみに危害を加えようとする者はいないから」
しかし、神父の言葉では少年の動揺を諫めることは出来なかった。シーツをはねのけて起き上がろうとするジョシュだったが、その体は彼の思いどおりには動かず、ただ痩せ細った手足をばたつかせることしか出来なかった。
わたしは、点滴が倒れないように片手で支えながら、少年に語りかけた。
「きみは悪い夢を見ていた……。とても恐ろしい夢だ。きみが味わった恐怖は、今はもうない……!」
ジョシュの腕からカテーテルが外れ、まっ赤な血が柔肌を伝い落ちた。
少年は、喉を両手で押さえつけながら、言葉にならない呻き声を上げてもがきつづけた。
係りの者を呼ぼうか……わたしの脳裡に最悪の結末がよぎった。彼の潜在意識は今まさに崩壊しようとしているのではないか? もしも想定されうるかぎりにおいて最悪の事態が生じた場合、わたしはこの少年を殺めなければならない……。果たしてわたしにそのような真似が出来るのだろうか? なんの罪もない幼子を手にかける……考えただけでもぞっとする。
わたしは点滴を握る手に力をこめた。苦しみに喘ぐ少年の額に左手を翳しかけたとき、唐突にジョシュが目を見開いて、叫び声を上げた。
わたしは伸ばしかけていた手を引っこめると、少年の両肩を掴んで、ベッドに押さえつけた。
なおも叫び声を上げつづける少年をよそに、わたしは僧服の隠しから水晶の小瓶を取り出し、口を使って栓を開けると、透明な液体をジョシュの干からびた唇の上にそそいだ。
陽によって清められたサン=アレグロの聖水である。
はじめのうちこそ唇をきつく閉ざしていたジョシュであったが、わずかでも聖水が口に入ったのか、しだいに全身から膂力が失われ、荒ぶっていた呼吸も穏やかになっていった。
もはや、この少年が悪魔憑きになるのも時間の問題かのように思われた。
ならば、どうする……。
わたしは考えた。このまま少年を見殺しにすべきか、それとも、今すぐ計画を実行に移すべきか……?
しかし、計画を遂行するには、重要な要素がひとつだけ欠落している。わたしにとってそれは、決して譲れない要因だということに違いはない。ならば……。
そこまで考えをめぐらせたとき、部屋の扉がノックされた。
「なに事だ? ここはわたしひとりに任せるよう言い置いてあるはずだが?」
「すみません。ですが、ロキ殿がどうしてもと……」
二等審問官が……? わたしは内心舌打ちをして、大人しくなったジョシュの寝顔を見下ろした。
ようやく容体が安定したようだ。だが、依然として予断を許さない状態である。
「わかった。今から行くと伝えておいてくれ」
足音が遠ざかっていくのをたしかめて、わたしはサイドテーブルの抽斗から古めかしい書物を一冊取り出した。それは浄化施設でのみ扱うことが許されているという禁断の書物〝聖典〟だった。
わたしは書物の頁を開いて、聖句を読み上げた。
「天人の群れ天下りて言いのたまう。いわく、」
み使いよ、天の族よ。
罪びとを赦し、
塵にいのちをあらしむべく
ゆるやかに
天翔り来よ。
徐ろに列をなし、
漂い浮びつつ、
なべてのものに、
やさしき痕をとどめよ。
さらにわたしは頁をめくり、次のように後をつづけた。
息子よ、あなたの罪は赦された
伸ばしなさい手を
天は悔い改めた罪人のことを、その必要がない、九十九人の存在にもまして喜ぶ
立ち返ってこの子供のようにならなければ、天の国へは入れない。自分を子どものよ
うに最も小さくする者が、天の国では最も大きな者となるのだ
私に続け
聖なる聖なる聖なる神よ、かつてそうであり、今もそうであり、これからもそうであ
る全能者よ
来い、そして視よ
息子よ、あなたの罪は赦された
「汝の魂に安らぎあらんことを、神の祝福あらんことを、願わくば、主イエス・キリストの名のもとに、彼の少年ジョシュ・バーネットに福音の徴あらんことを願い奉る。アーメン……」
わたしは聖典を閉じると、それを元あった場所に戻し、抽斗に鍵をかけた。
もしも浄化施設の外に聖典が持ち出されたことが知れ渡れば、聖皇庁からの破門さえ覚悟しなければならないだろう。わたしが聖典を手に入れた背景にはそれなりの思惑あってのことであるが、今はまだそれを明かすわけにはいかない。
穏やかな寝息をたてる天使をあとに残して、わたしは部屋を出た。
ロキ――
牛鬼の村の殲滅を任されたはずの二等審問官がどうしてここに……?
それは、サン=エルモ教会の存在を知らせた者が身内の中にいるということをあらわしていた。いったい誰がそのようなことをしたというのだろうか?
従者のあとにつづいて通された部屋に、果たして二等審問官の姿はあった。まだ若い、厳しい戒律に縛られ、はげしい名誉欲と異端者の血に飢えた邪悪なる神官よ……。
「ロキ……」
ロキは座っていた長椅子から立ち上がると、被っていた帽子を脱ぎ、頭を下げた。
「どうしてここに?」
「質問の意味がよくわかりません。ぼくがあなたのお供をするのは聖皇庁から受けた勅令であり、なんら不思議なことではないと思いますが?」
ロキは状況を正しく把握していないのか? わたしがここにいることと、保護したはずの天使が匿われていることに疑念すら抱いていないというのだろうか? それならそれで構わない。今はそれをうまく利用させてもらうことにしよう。
「ファントム様……」
ロキはつづけた。
「どうしてぼくを置いて行かれたのですか?」
ファントムは壁に立てかけておいた大剣を腰に帯びながら、どうこたえてよいものか考えた。うまく切り抜けなければ、聖皇庁に事のほどが知れてしまう。いかに二等審問官と言えども、洗脳が可能な従者どもとは頭の出来が根本から違うはずだった。
「すまない」
ファントムはロキをヴェーダに置き去りにしたことを素直に詫びた。
「なにぶん、事態が逼迫していたものでな……」
「あの少年は無事なのですか?」
ロキは不安げな表情でたずねた。
「状態はきわめて悪いと言わざるを得ないだろう。つい今しがた眠りに就いたところだ」
ファントムはロキのかたわらをすり抜けて窓際に歩み寄ると、レース織りのカーテンの隙間から外の様子をうかがった。飛行船の類いは見あたらない。聖皇庁が動いているのだとすれば、ロキの他にも異端審問官が派遣されていても不思議ではないが……。
「どうしてここがわかった?」
「伝達官からうかがいました」
ロキはそっけなくこたえた。
お喋りな奴だ……。あれほどきつく口どめしておいたというのに、あっさりロキに情報を漏らしてしまうとは……。しかし、計画の全貌を知らされていない伝達官にとっては、ロキに現在地を教えるのは当然のことだったのかも知れない。
「聖皇庁ではなく、どうして教会に?」
「天使の状態によっては、浄化施設に連れて行くのは負の連鎖を生む可能性があるから、急遽こしらえた教会に身柄を安置するよう聖皇庁からお達しが下された」
ロキは怪訝な表情を浮かべた。
「初耳ですが……」
「急遽決まったことなんだ。二等審問官へは我々の口から直接言うようにという指示が出ていたのだが、忙しさにかまけて、つい失念していた。牛鬼の殲滅に意識を集中していたからな……」
「たしかに!」
とたんにロキの瞳が輝きを増した。はじめて上げた自分の手柄に満足し切っている様子だった。それもそのはずだ。たとえ百戦錬磨を誇るファントムをもってしても、ヴェーダ殲滅はそれだけ骨の折れる任務だった。
ファントムは、天使をサン=エルモ教会へと運びながら、エクスカリバー号の甲板からソドムという名の牛鬼を意識操作して、ヴェーダの殲滅に加わっていた。血みどろの戦いが繰り広げられる中で、ロキがファントムの失踪に気づかなかったのは当然のことと言えるだろう。
「ここへはお前ひとりで?」
ファントムは何気ない風を装って、それとなく探りを入れた。
「途中までガーランド様の飛行船に乗船させてもらいましたが、イシュトアール近郊で舟を降りました」
ガーランドの船に……。
ファントムは、審問局きっての切れ者として知られているガーランドの名前が出たことにいささか懸念を抱いた。もしもファントムが天使を連れまわしていることが彼の耳に伝わっているのだとすれば、事態は急を要することにもなりかねない。
「ガーランドには事情を説明したのか?」
「そんな、滅相もありません!」
ロキは即座にそれを否定した。戦場に置き去りにされたなどとは口が裂けても言えなかったのだろう。奴の自負心が難局を切り抜ける好材料になろうとはゆめゆめ思いもよらぬことだったが……。
「ガーランド様はヴェーダ殲滅のことに大いに興味を持っておられるようでした。ファントム様にも宜しくお伝えするようにと……」
「そうか……」
ファントムは内心胸を撫で下ろしながらつぶやいた。ロキが天使の情報を与えなかったことで、今しばらく時間を稼ぐことができるだろう……。
「観測所から次の任務についてなにか聞いているか?」
「はい。こちらに……」
ロキは僧服の隠しから丸めた羊皮紙を取り出して言った。
「聖域のひとつで懸案が発生したのだとか……」
「内容をたしかめたのか?」
「いえ。それは禁じられていますから……」
ロキは少し残念そうに肩をすくめて見せた。二等審問官には、聖皇庁の公文書を閲覧する権限はいまだに与えられていない。それだけ、天使の情報は秘密裏に伝達せねばならない極秘事項扱いとみなされているのだ。
聖域での任務というのは極めて稀な事案である。ファントムはそこに光明を見出していたが、無論そのような気配はおくびにも出さなかった。
報告書を読んだファントムは、思わず目を瞠った。天使が暮らす聖域のひとつで、悪魔憑きの兆候が見られるのだという。
情報そのものは未だ不確定要素をはらんでいるものの、複数の予知能力者が似通った予言をものしたことから、異端審問官による調査が必要だと判断された、と報告書には記されている。
「すぐに出立する」
ファントムに迷いはない。聖域に足を踏み入れられるのは聖別された聖職者のみである。たとえ異端審問官と言えども、大義なくして天使の園を訪れる好機はそうめぐってはこないだろう。まさに千載一遇のチャンスである。
「保護した天使の方はよろしいので?」
正直なところ、ジョシュの容体は芳しくない。しかし、ファントムは、自分に出来得るかぎりの最善の策を講じたつもりだった。後は彼がどれほど長いあいだ自我を保っていられるかにかかっている。
「彼の命運は神の御手に委ねられた」
天使を聖皇庁から引き離したときから、ファントムの決意は固まっていた。
もう後戻りは出来ない。異端審問局が提出された報告書の虚偽記載に気がついたとき、ファントムは聖職者の地位を奪われることになるだろう。そうなれば、堕天した天使の情報を入手することはほぼ不可能になってしまう。そればかりか、ファントム自身が異端者の汚名を着せられて厳しく断罪されるであろうことは間違いない。
運命の歯車は、ゆっくりとではあるが着実にまわりはじめていた。
行こう。たとえその先になにが待ち受けていようとも、今はただそこに向かって突き進むだけだ。




