第10章 楽園の正体
記憶を取り戻したマリアンヌに告げられる驚愕の真実とは?
医務室は、騒ぎに巻きこまれた人々でごったがえしていた。負傷者のほとんどが軽度の火傷を負った程度で済んだようだけれど、パニックに見舞われたことによる精神的ダメージを負った人の方が多いようだった。
わたしは、エミリアたちが引き留めるのをよそに、医務室中を歩きまわってサラの姿を探していた。
彼女は気を失いかけていた……。きっとベッドに寝かされているはずだわ……。
ベッドの上に腰掛けて腕に包帯を巻いてもらっている女の子がいた。
数人の友達に囲まれて嗚咽を繰りかえす少年がいた。
半ば閉じかけたカーテンの隙間から中の様子をうかがうと、うつ伏せに寝かせられて、背中に消毒液を塗られている男性の姿があった。
看護師のひとりがわたしに気づき、患者の前に立ちふさがった。
「どうかしました?」
「わたし……友達を探してるんです」
看護師は、後ろ手にカーテンを閉めると、マリアンヌに向かって言った。
「お友達のお名前は?」
「サラ・ディキンソンです」
彼女は、わたしの背中に手を添えて壁際まで誘導すると、椅子に腰掛けるようすすめた。
「わたしはその名前に聞き覚えはないけれど、調べることはできるわ。その娘は重症者なのかしら?」
「その娘、気絶して、ここに運ばれてきたみたいなんです」
かたわらで不安げな表情を浮かべたまま、エミリアがこたえた。
「そう。それは心配ね……。ちょっと待ってて、受付に聞いてくるから」
「お願いします……!」
わたしは自分の声に驚いた。それほど悲痛な声を発してしまったのだ。それも無理からぬことだろう。だって、彼女は――サラはもう、死んだはずなのだから……。
「マリアンヌ、あのサラって娘について話してちょうだい」
エミリアは、わたしの隣りに腰掛けて優しく囁いた。
わたしはしかし、あまりのことに衝撃を受けすぎていて、黙ったまま首を横に振ることしか出来なかった。自分でも、まだうまく事態が呑みこめていないのだから、説明のしようがない。
彼女はわたしを見て言った。
〝マリアンヌ″
はっきりと声に出してそうつぶやいたではないか。
では、彼女はやはりサラなのだろうか? 天使病に罹り、わたしたちが見守る前で命を落としたサラ・ディキンソン……。そんなはずはない。でも……。
「マリアンヌ……」
それまで押し黙っていたネロが急に言葉を発したものだから、わたしは少し驚いた。
「きみに言いたいことがある。ふたりで話せるかな?」
わたしはそこでもまた、黙って首を振った。
「看護師さんが戻ってくるのを待ちましょう? それからでもいいじゃない」
エミリアがわたしの言葉を代弁してくれた。彼女がサラなのかどうか、一刻も早くたしかめたいという想いが強くわたしの心を支配していた。
「そのことも含めて、今だからこそ話しておきたいんだ」
エミリアは、わたしの耳元で「どうする?」と囁いた。
「わたし……」
マリアンヌのこたえを、ネロの言葉が遮った。
「サラは生きてる」
わたしは思わず顔を上げた。
ネロは厳しい表情を保ったまま、わたしの瞳を見つめていた。
彼はなにかを知っている……。それは、わたしの求めていた答えそのものかも知れない。ネロはサラの知り合いなの? あれだけ顔が広い彼のことだから、そうであっても不思議ではない。なにより、わたしはまだここに来たばかりの新参者にすぎないのだ。今はただ、誰かにすがることしか出来ないではないか……。
「サラのことを知っているの?」
「ここでは話せない」
ネロは辺りを見わたして言った。
「場所を変えよう。エミリア、きみはここに残っていてくれないか?」
「わたしだけ仲間外れってわけ?」
ネロは気まずそうな顔をして、小さく肩をすくめて見せた。
エミリアは、はあっと大きく溜め息をついて、
「マリアンヌのためになるのなら、わたしは我慢しておくわ。マリアンヌ、サラのことはわたしが聞いておくから、行って来なさいよ」
「ごめん……」
「謝るのはあなたじゃなくってネロの方でしょ?」
ネロはちょっとだけ笑顔を取り戻して言った。
「すまないね、エミリア」
「なにもかも片付いたら、わたしにもちゃんと教えてよね?」
「もちろん、そのつもりさ。さあ行こう、マリアンヌ!」
わたしは、差し伸べられたネロの手を掴んで立ち上がると、彼のあとについて歩き出した。これから向かう先に、わたしが抱いている疑問を解消する手がかりがあるのだと信じて……。
「さあ、座って」
部屋に着くなり、ネロは言った。
「顔色も良くなってきたみたいで、安心したよ」
わたしはソファーに腰かけた。正直、足元は覚束なかったし、精神的にもだいぶ参っていたから、ようやく人心地がついたという感じだった。
「これを飲むといい」
ネロは水の入ったコップを手渡しながら言った。
わたしはグラスの中でたゆたう水を、ゆっくりと喉の奥に流しこんだ。
「それにしても参ったよ……」
ネロはわたしと向かい合ったソファーに腰を下ろすと、両手を頭上に伸ばしながらとぼとぼとこぼした。
「まさかコンサートがあんなかたちで台無しにされてしまうだなんて、誰が考えただろう? 可愛そうなのはクリスだよ。せっかく演奏がうまくいったっていうのに、あれじゃあ余韻もなにもあったものではないからね」
「ネロ……」
わたしは焦れったくなって、とうとう口火を切った。
「あなた、サラのことについてなにか知っているのね?」
ネロはそれにはこたえず、燦々と陽の降りそそぐ窓の方を振り向いた。
「お願い! 彼女はいったいどうしてしまったの? なにか知っているんでしょう?」
「さて、なにから話そうか……」
ネロがなにかを言いかけたとき、部屋の扉を開けてふたりの尼僧が入りこんできた。
「それについては、わたくしからお話ししましょう」
先頭の女性はシスター・ケイト――いつも身のまわりの世話をしてくれている女性だった。けれど、言葉を発したのは彼女ではない。彼女の背後にもうひとり、妙齢の白人女性が穏やかな微笑みを浮かべて佇んでいる。
「はじめまして、マリアンヌ……。あなたの噂はこちらのふたりからうかがっておりますよ」
「マリアンヌ、こちらはマザー・テレシア。大聖堂の司教をなさっておられる方よ……」
シスター・ケイトに言われて、わたしはあらためてマザーのお顔を拝顔した。ネロたちに学園を案内されたときに、たしかに彼女の肖像画を見かけた覚えがある。
「はじめまして。わたし……」
立ち上がってお辞儀をすると、マザーはわたしの肩にそっと手を添えられておっしゃられた。
「そう固くならなくてもいいのよ。わたしにとってあなたはもう家族も同然なのですから……」
わたしたちは向かい合ってソファーに座った。さっきまでそこにいたはずのネロは、いつのまにか窓際に立って外を眺めている。
「マリアンヌ……。今日、あなたのまわりで起きたことについては知っています。わたしたちとしては非常に残念なことでした」
マザーはマリアンヌに向かって語りかけた。コンサート会場での騒動を思い出して、わたしは少しとまどった。わたしが知りたいのは、もっと別のことだったからだ。
マザーは、そんなわたしの心情を汲みとったかのように小さく頷いて見せた。
「そして、あなたが古いお友達と出会ったということも聞いておりますよ」
わたしの心臓は高鳴った。いったいいつ、どこでそんな話を聞いたというのだろう。ネロはずっとわたしと一緒にいたはずなのに……。
「サラと言ったかしら? 彼女がここにやって来たのは、そう……四ヶ月ほども前のことだったかしらね……」
そう。彼女が亡くなった日とちょうど重なる。それがなにを意味するのか、このときのわたしにはまだ見当もつかなかったのだけれど……。
「本当なら、あなたにこの話をするのはまだ早いのかも知れません。ですが、あなたがご自分の記憶を取り戻しつつあるということをかんがみて、特別に今、この世界の秘密をお教えすることにいたしましょう」
「マザー、よろしいのですか?」
かたわらで成り行きを見守っていたシスター・ケイトが、少し慌てた様子で言った。
「仕方がありません、シスター・ケイト。サン=ミエールに動揺を広める訳にはいきませんからね……」
そう言うと、マザーはわたしの方に向き直って、正面から瞳をのぞきこんだ。
「いい目をしているわ。こんなこと言っちゃ嫌われてしまうかも知れないけれど、若い頃のわたしに瓜ふたつよ、あなた……」
その背後では、ネロが厳しい表情で自分の足元に視線を落としていた。
彼は? 彼の前でこの話をしてもいいのだろうか? マリアンヌは急に不安になってきた。先ほどからネロの言動には不自然なところがある。彼はいったい、なにを、どこまで知っているのだろうか? サラのことも知っているようだったし、これからマザーが話そうとしている〝この世界の秘密〟についてもなにか関わりがあるのだろうか?
「マリアンヌ……。あなたが今日出会ったのは、サラ・ディキンソンに間違いありません」
マザーははっきりとそう断言した。
「でも、彼女は死んだはずです……」
わたしはいたたまれなくなって、マザーから視線をそらした。自然と涙がこみ上げてくる。じぶんでも、溢れ出す感情をとめようがなかった。
認めたくはないけれど、サラはたしかに、わたしの目の前で事切れたはずだった。それとも、わたしの記憶が混乱しているだけなのだろうか? そう……きっとそうに違いないわ……マリアンヌは思った。だって、もしもサラが死んだのが真実なのだとしたら、あの後わたしは……わたしの身に起こったことについて、説明がつかないではないか……。
「そのとおりね。サラは残念なことに亡くなってしまったわ……。そして、彼女の御霊は、ほど無くしてこの街にやってきた……」
マリアンヌは、胸の中で彼女の言葉を反芻した。彼女がいったいなにを言っているのか、言葉の真意をうまく把握することができなかったからだ。
わたしははげしく動揺した。それがマザーにもわかったのだろう。しかし、それでも彼女は平静さを失わなかった。
「ここサン=ミエールは、天に身罷われた御霊が集う街なの……」
マザーの仰られている言葉の意味がうまく呑みこめないまま、わたしは彼女の話に耳を傾けつづけた。
「わたしたちはみな、すでに息絶えているのです」
「息絶えている……?」
「そう。ここは死者の御霊を収容する街、聖地サン=ミエール……。あなたもまた、なんらかの事情によって命を落としたのです。思いあたるふしはありませんか?」
わたしは唖然として、マザーの言葉に聞き入っていた。
そんな話、簡単に受け入れられるはずがない。でも……マリアンヌには、マザーの言うことが朧げながら理解できていた。理解できてしまったのだ……。
サラが死んだ後、わたしは聖ヘレナ病院で診察を受けた。そのときはまだ天使病の兆候は見あたらなかったものの、ほどなくして咳の発作に見舞われるようになったのを、わたしはまざまざと思い出した。
はじめて感じた喉の異物感……好不調の波を繰りかえす体調の変化……突然訪れた立ちくらみ……そこからつづく、儚い闘病の日々……
それでは、あの忌まわしい記憶は、すべて真実だったのだろうか……?
「わたし……わたしも……死んでしまったというのですか?」
マザーは微笑みを絶やすことなく、しめやかに頷いた。
わたしは、自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。ひどい眩暈を覚えて、今にも倒れこみそうな想いがした。
「マリアンヌ……」
それまで押し黙っていたネロが、そこではじめて口を開いた。
「マザー、シスター。やっぱり彼女にはぼくが話します。きっとそうするべきだと想うんです。しばらくお時間を頂けないでしょうか?」
マザーはしばし逡巡したものの、うつむいたままかすかに震えているマリアンヌの様子を見て、ネロの言葉にしたがうことにした。
「そうですね。ここはあなたにお任せしましょうか……」
「マザー、よろしいのですか?」
「ときとして人は、友人の助けを必要とするものです。今の彼女は、まさにそのときを迎えているのだとわたくしは思います」
そう言うと、ふたりの尼僧は席を立った。
「ネロ。くれぐれも事を急がないようにね。あなたには言わなくてもおわかりでしょうけれど……」
ネロが黙って頷くのを、わたしは強烈な不安に駆られながら見守っていた。ネロは知っているんだ……わたしたちがすでに死んでいるということを……。でも、どうして? どうして彼はそのことを知っているのだろう? そして、なぜ、わたしたちから真実を隠していたというのだろうか……?
尼僧たちが退室すると、ネロはふたたびわたしの正面の席に腰かけた。
「マリアンヌ……」
ネロはそよ風のような優しげな声音でそっとつぶやいた。
「きみたちに黙っていたのには、訳があるんだ……」
わたしは震える手を膝の上で握りしめた。彼がこれから語ること……。それが、これまでの常識を覆すものになるであろうことは明らかだった。
「きみたちのあいだに混乱を招かないように配慮していたってことも理由のひとつだけれど、それは単なる名目にすぎない」
わたしは彼の目を見つめた。ネロの視線もまた、しっかとわたしの目をとらえて離さなかった。
「きみは天使だ、マリアンヌ……」
そんな話はでたらめだとわたしは思った。生前――なんということだろう、わたしはすでに死んでしまったのだ――天使病の患者は天からの御使いだとかなんだとか、さんざん騒がれていた……。それが、こんなかたちで目の前に突きつけられるだなんて誰が予想しただろう……。
「そして、ぼくも、エミリアも、ここにいる者全てが天使の眷属なんだ」
「みんな天使病に罹ってしまったというの?」
でも、それはおかしい。サン=ミエールには大人の姿もあった。マザー・テレシアも、シスター・ケイトもいい年をした大人だったではないか? わたしが知るかぎりにおいて、天使病は年端もいかない子供にしか感染しないはずである。
ネロは首を横に振った。
「ここにいるのは、天使病の患者だけじゃない。生前、悪事を働かなかった清浄な魂だけが天使として選別されて、それぞれの聖地に身罷われることになっているんだ」
「聖地……?」
ネロは説明をつづけた。
「この世界は大きくふたつの領域に分かたれている。神に祝福された者だけが存在を許される〝天上の国″と、生前犯した罪によって永劫の苦しみを与えられる亡者の国〝地獄〟のふたつだ。天上の国は、霊峰と呼ばれる神聖な山の頂に築かれていて、その外側には人外の魔物が暮らす世界、いわゆる地獄が広がっているんだ。天使の身柄は聖十字騎士団によって手厚く保護されていて、地獄を徘徊している悪魔や魔物といった不浄の輩から隔絶されている」
〝悪魔〟という言葉を聞いて、わたしは息を呑んだ。そのようなものが実在するだなんて到底信じられない……。
「それじゃあ、ここは天国なの……?」
わたしは恐るおそる口を開いた。
「見てのとおりさ」
そう言って、ネロは窓の外を眺めやった。窓の外には陽の光が満ち溢れている。
「きみは、罪を犯したという自覚があるかい?」
「わからないわ……。できるかぎり、神の教えには背かないようにしていたつもりよ……。だけど、目を覚ましたとき、わたしが見たものは、とても天国とは思えない光景だった……。あれは……」
あれは、まるで地獄のような悍ましい光景だった。暗闇の中に佇む裸の半獣神に追いかけられて、わたしは深い森の中で意識を失ったのではなかったか……?
「きみはサン=ミエールの麓で発見された」
わたしの戸惑いを察したかのように、ネロはつづけた。
「きみを救いだしたのは、教会つきの聖十字軍の騎士だった。死者の魂は、〝天上の星″と呼ばれる特異点からこの世界に降臨することになる。天使の魂も、亡者の魂も、同じ星からこの世に産まれ落ちるんだ」
「それじゃあ、わたしが見たのは……」
「悪い夢だった、そう考えるべきだとぼくは思うね」
「わたし……わからないわ。だって、パパや神父様から教わったこととは異なっているもの……」
「きみは天使として天上の国に身罷われるはずだった。でも、親よりも先に天命を全うした子供の魂は、罪を犯したと見なされて、地獄に墜ちてしまう」
「あなたは、いつからここにいるの?」
「ぼくは……」
ネロはそこで言葉に詰まった。
「もうずいぶん長いこといるからね、ここでは時間の感覚も薄れてしまうし、正確なことは誰にも分からないんじゃないかな」
「わたし……どうして自分が死んだことを忘れていたのかしら……?」
「それは簡単なことさ。天上の星からこの世界へは、大きなエーテルの流れが存在するんだ。その流れは、地上では大いなる河に例えられ、忘却の河〝レテ″と呼ばれている」
「忘却の河……?」
「レテを下った魂は、生前味わった苦悩や苦痛をことごとく忘れてしまうものなんだ。第二の人生をスタートさせるためにね。でも、きみのように、記憶をとり戻してしまうことも決して珍しくはない。特に、辛い記憶を共有している者同士が接触したときに記憶がぶりかえすことが多いらしいんだ。きみとサラのように……」
「彼女もわたしを覚えていたわ……」
「ああ。だけど、自分が死んだことまでは理解していない」
「辛い記憶を忘れてしまったの……?」
「たぶんね。でも、きみはサラが亡くなったときの記憶をとり戻してしまった。それだけ彼女の死はきみにとって印象深いことだったんだろう」
「でも、わたしは自分が死んでしまったことを知っているわ」
「きみは、もしかして、天使病で亡くなったのかい?」
ネロの口から天使病という言葉を聞いて、わたしはぞっとした。
「ええ……そうよ」
「サラの死から、そう遠いことじゃなかったんじゃないかな?」
「そうね……。一月も経ってないんじゃないかしら」
「サラの死ときみの死は関連づけて考えていいんだと思う。だから、きみは自分の死を認識してしまったんだ」
わたしはただ、茫然とネロの話を聞いていた。それは聖書の教えと似ているようで、少し異なってもいるようだった。
「あなたは……? あなたはどうして自分が死んでしまったということに気がついたの?」
「ぼくは……」
そこでネロは、彼にしては珍しく、次の台詞を言いよどんだ。
「ねえ、マリアンヌ。今はきみのことについて話そうじゃないか。これまできみの身に起きたことに対して向き合い、これからどうするのか決めるべきだとぼくは思うな」
「そうね……。ごめんなさい」
「謝る必要なんてないよ。今ぼくが話したことは理解できそうかい?」
わたしは黙ったまま首を横に振った。いったい、なにを受け入れて、どう解釈すればいいのか、今はまだまったくわからないというのが正直な気持ちだった。
「今すぐに、すべてを理解しようなんて考えちゃいけないよ。まずは、自分の死を受け入れることからはじめるんだ。そして、サラやエミリアのことを考えてあげて」
「サラやエミリアのことを……?」
「ああ。彼女たちに、自分が死者であることを知らせるべきかどうか考えるんだ。まったく、今のままでも彼女たちはそれなりに幸せなんだとぼくは思うけどね」
生前の記憶を失ったままでいるべきか、それとも、自分が死んだときのことを自覚させるべきか……。到底、わたしにこたえられるような簡単な問題ではない。
「わたし……わからないわ……」
「それが、これからぼくたちが抱えていかなくちゃならない問題なんだ。まだ誰も結論を出してはいないし、これからだってきっと、この問題は解決されないまま残されていくんじゃないかな……」
ネロは寂しげにそうつぶやくと、窓の外に視線を送った。
眼下では、先ほど起こった騒動がまるで嘘だったかのように平穏な生活が繰り広げられている。これが死者の街だなどという話を、いったい誰が信じるだろう?
緑あふれる広場を駆けめぐる幼い子供たちを見て、わたしは思った。
この問題は、触れてはならない禁句なのだ。彼らの平穏な生活を掻き乱すような真似は、わたしには到底できそうになかった。
サラ……。
せっかく再会を果たせたというのに、わたしたちはこのまま二度と会うことが出来ないのだろうか? わたしは、遠く過ぎ去った懐かしい日々に想いを馳せた。




