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エンジェル  作者: えんまる


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第8章 牛鬼対ファントム

天使を捜すファントムと牛鬼が火花を散らす

 どこからか魔犬の遠吠えが聞こえる。逃げ出した亡者とでも出くわしたのか、凄まじい断末魔とともに、はげしく吠え立てる獣の声がした。

 ねじくれた樹木が散在する寂しげな森の中で、ファントムは銀色の瞳を光らせた。

 前方にわだかまる闇の奥に、禍々しい強大な気配が蠢いていることが手に取るようにわかる。牛鬼の長、ロボスだ。闇に潜伏しているファントムとは違って、彼らには気配を消す必要がない。むしろ己の存在感を誇示することで、魔獣との邂逅という余計な面倒を避けたがっているのだろう。

 彼我とのあいだには一本の小川が流れており、夥しい数の夜光蝶が美しい羽を羽ばたかせていた。

 川岸に自生する灌木の蔭に、数人の亡者が息を潜めてうずくまっている。彼らもまた、ただならぬ気配に怯えきっているようだった。

 哀れなものだ。彼らの態度からは、かつて見せたであろう傍若無人な気概は微塵も感じられない。今はただ、一方的にその身に降りかかる暴虐に怯え、永遠に終わることのない辛い労働に疲弊するばかりである。

 亡者の一人がファントムの存在に気づき、小さく息を呑んだ。

 ファントムとしては彼らを怯えさせるつもりはなかったのだが、亡者たちにとって異端審問官はただ恐怖の対象としてのみ認識されているのだろう、彼はじりじりと後ずさり、次の瞬間には土を蹴立てて走り出していた。

 注意を惹きつけるにはそれだけで充分だった。

 ロボスの意識がこちらに向けられているのがありありと感じられる。

 ファントムの存在に気づいたのだろう、ロボスの鼻息が荒くなり、たちまち全身に筋力がみなぎっていくのが感知出来る。彼の精神が尋常ならざる興奮状態に置き換えられた証拠だ。

「これより異端審問を開始する」

 ファントムの声は冷静だった。

「被疑者、汝の名は牛鬼〝ロボス〟。アレクサンドリア州ヴェーダの族長で間違いないな?」

 戦闘準備が整ったのだろう、暗闇の中で、一対の眼が赫々と燃え上がって見える。ファントムとしては、周辺にいる他の牛鬼に自分の存在を知られたくなかったため、派手な戦闘は願い下げだった。なんとかしてこの場を諫めることは出来ないものかと思ったものの、今のロボスにはなにを言っても無駄であろうことは火を見るより明らかだった。それでも、ファントムは通り一遍の審問をやめようとはしなかった。

「ヴェーダ近郊に一柱の天使が堕ちた形跡がある。天使の行方に心あたりがあるのであれば、報告を聞こうではないか……」

 次の瞬間、ロボスは、空気を震わせるようなけたたましい咆哮を上げた。そのまま、めきめきと木立を薙ぎ倒しながら、道なき道を突進してくる。

 交渉は決裂した。ファントムは右手で大剣を抜き放つと、両手でしっかと柄を握りしめ、長身の得物を半身に構えた。

 目の前の灌木を破って、狂気に縁どられた表情のロボスが襲いかかってくる。頭部にそそり立つ鋭い角で串刺しにしようという算段だ。

 やれやれ、これではまるで闘牛士だ……。

 ファントムはロボスの攻撃を左にかわすと、大剣を斜めに振り上げた。手ごたえはあったが、骨を断つまでにはいたらなかった。結局、最初の一撃で与えたのは、ロボスの左腕への軽度のダメージだけだったらしい。

 最初の一振りで腕を切り落とす予定だったが、これでは逆効果だ。魔族はどちらかと言えば人間よりも獣に近い存在である。血の匂いを嗅ぎつけたとあっては、なおさら興奮するだけだ。

「審問官への抵抗は反逆罪と見なされる。承知の上での狼藉だろうな?」

 ロボスは理性のひとかけらも見せることなく、ふたたび雄叫びを上げた。

 ファントムは周辺の森の中にどれほどの夷狄がいるか索敵をはじめる。半径百メートル以内にいるのは、ふたりを除くと、息を潜めたまま身を隠しているコーザとフェリスだけだった。

 できるだけ早く戦闘意欲を削ぐことが先決だ。

「天使の居場所を言え」

 ファントムは審問をつづけながら、次の一手に思考をめぐらせた。果たして、わたしの大剣であの分厚い筋肉を断つことができるのだろうか?

「どこに匿っているのか教えれば、今回の件は大目に見てやらんでもない」

 この一言が、ロボスの琴線に触れたらしい。牛鬼の族長は充血した目を細めると、ファントムの提言を鼻であしらった。

「異端審問を受けた魔族が温情を得られたという話は聞いたこともない。たとえ天使に関わっておらずとも、一度嫌疑をかけられた部族は皆殺し……それがお前たちのやり口だろう!」

 ロボスは、右足で地面を蹴立てると、猛烈な勢いで突進を開始した。

 聞き分けのない輩は嫌いだ! ファントムは両腕に膂力を集中させて、反撃に備えた。

 そのとき、ロボスは思いも寄らない行動に出た。

 ファントムが攻撃をかわした瞬間に、手にしていた松明をこちらに向かって放り出したのだ。それは攻撃というよりも、ファントムの注意を逸らせるための目くらましに近かった。

 思わず上半身をのけ反らせたファントムの不意を突いて、ロボスの攻撃が立てつづけに繰り出される。

 突進したままの態勢で体をくるりと回転させ、腰に帯びた戦斧を振りまわしたのだ。

 斧の刃がファントムの銀髪を削ぎ落す。闇の中にはらりと舞う己の髪を見て、ファントムは老ロボスの老獪さを思い知った。伊達に年を喰っているわけではないらしい。

 ファントムは大剣を空中で薙ぎ払うことによって、その遠心力で崩れかけたバランスを立て直した。振りかえったときには、ロボスはすでに次の攻撃態勢に移っている。

 ファントムは、地面に落ちた松明を小川の方に蹴り出した。コボルト族と違って、牛鬼は夜目が効かないはずだ。それにくらべて、ファントムの目には暗闇は意味をなさない。ただちに視界が暗視モードに切り替わる。

 しかし、ロボスは動揺する素振りすら見せなかった。

一瞬にして間合いを詰められる。巨大な戦斧の一撃を受けとめて、ファントムは二、三歩たたらを踏んだ。

「わしの攻撃を受けとめるとは、さすが異端審問官! だが……!」

 ロボスは左腕一本で戦斧を横様に振り払い、ファントムの体を二分しようとした。その恐るべき腕力にファントムは辟易した。力勝負で挑まれては到底勝ち目はなさそうだ。

 ロボスは勝利を確信していた。しかし、振り払った斧には、得られるべきはずの手ごたえがまったく感じられなかった。

 そのとき、ファントムはロボスの頭上に跳んでいた。伸び切った左腕を足掛かりにして、さらに空中に跳躍すると、体を回転させてロボスの首筋を狙いさだめて刃を翻した。

 勝負はそこで決まった。

 ファントムの大剣は、百戦錬磨の老練な戦士の首を正確にとらえ、逞しい肉体と巨大な頭部とを分断した。刎ねられた生首は、空中をくるくると回転しながら、一言だけつぶやいた。

「お見事……」

 ファントムが地面に着地した次の瞬間、立ちすくむロボスの体から夥しい血しぶきが噴き出した。暗闇をまっ赤に染める血の雨だった。

 斬り落とされた頭部は、まだかろうじて息をしていた。

「ロボス……。お前ともあろう者がなぜ天使になど手を出した?」

 それは問いかけというよりも独り言に近かった。

「異端審問官……いや、ファントムよ……。お前たちにはわかるまい」

「永遠の命が得られるとでも?」

 ロボスは鼻で笑った。

「そんなものは夢ものがたりだ……。違うか?」

 ロボスの口からどろりとした血の塊が流れ出した。さすがの牛鬼も、もう長くはない。早く天使の居所を聞き出さねばなるまい。ファントムは喋る生首に歩み寄った。

「わしら魔物にも夢って奴があるものだ……」

「聞いている暇はない。これよりお前の記憶を洗わせてもらう」

 ロボスは高らかに笑った。

「主はわしを誰と心得ている? こんなことぐらいでくたばってたまるものか……!」

 しかしその言葉とは裏腹に、ロボスの狂気を宿した瞳はぐるんと裏返り、白目を剥き出した。

 時間がない!

 ファントムは喋りつづけるロボスの額を鷲掴みにして、強制的に記憶を盗み出した。

 とたんにファントムの脳裡に大量の記憶が流れこんでくる。

 ロボス誕生の瞬間から、今この瞬間までにいたるまで、幾星霜にもおよぶ長大な記憶の大河。その中には、はじめて間近に見る天使の姿や、そのときロボスの心をよぎった野望に対する生々しい感情の渦までが含まれていた。

 牛鬼の長たるロボスが何故天使を攫ったか。それは拙い夢物語にも似て、荒唐無稽以外の何物でもなかった。しかし、それこそが、この世の底辺に生まれついた魔物たちが共通して抱く憧れなのだということをファントムは知っていた。

 ロボスもまた、一介の魔物にしか過ぎなかったということか。

 ファントムは、ロボスの頭部を掴んだまま立ち上がると、ロキの待つ森の奥へと向かって歩き出した。

一刻も早く先を急がなければならない。

 天使の居所がわかったのだ。


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