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K─anzen seKai  作者: δ
6/9

Ⅵ─時の待ち合わせ

キリヤ視点はもうしばらく後になります。

「626……627……」


 季節は夏の始め。

 タンクトップ姿の男が汗を流し、腕立て伏せに励んでいる。

 ジムの中は蒸し暑く、彼の金髪からは汗が滴っていた。


「628……」


 その様子を僕は隣で眺めていた。

 午後の演習も全て終わり、本来ならば風呂に入ってから夕食の時間まで自室でゆったりしているはずだった。

 そう。まさに部屋の鍵を開けたその瞬間だった。

 「すこし付き合ってくれ」──そんな台詞とともに現れたケントに連れられて、今の今までコーチングする羽目に陥っていたのだ。


「62……9ッ!」


 自己ノルマの650回まであと少し。だが僕はそれを中断した。


「だいぶ腰、上がらなくなってますね」


「…………ちっ……くしょ!」


 ついにケントは力尽きた。うつ伏せに倒れ、すぐに足の力で起き上がる。


「629回……。この程度じゃあ……」


「さっ。あと一時間で晩メシですよ。早くフロ入らないと」


「これが俺の限界なのか……!」


 ケントはまだうじうじしている。訓練後の連続629回は決して恥ずかしい回数でもないと、僕は思う。

 第一、実戦では(ラッシュ)で身体能力を向上させるため、多少の筋力不足は致命的ではないのだ。


「それじゃダメなんだアシハラ! カグヤ、キリヤ、椎樹センパイ……。あのレベルに追いつくには、そんな生半可な覚悟じゃ無理なんだ!」


 しかしケントは耳を貸さない。カグヤが強いのは膂力ではなくむしろ力の使い方が上手いからだと言っても、彼は頑として筋力増強を唱え続けた。


「まあ、いいんですけど。何にせよ急がないと。メシ食わないと筋トレ意味ないですよ」


「……そうだな。わかった」


 ここ数ヶ月でだいぶケントの扱い方を掴めてきた。脳筋にはやはり「筋トレ」だ。


 それから僕は部屋に戻り、シャワーを浴びた。

 使用時間外のジムには冷房がつかないため、ケントがトレーニングを続ける間中暑苦しくて仕方なかったのだ。

 風呂から上がり、ジャージ姿に。ノートパソコンを開くとカグヤからのライン着信があった。


「いい加減友達つくれよなあ」


 どうせ今日も誰とも仲良くできないまま終わったのだろう。

 カグヤが独りぼっちにならないよう夕食を共にして久しいが、そろそろカグヤも女の子同士で話し合える仲を見つけないと。

 人間関係のトラブルはそのままチーム連携の巧拙に直結する。


 本当に。あんな女の子と僕がよく出会えたなとしみじみ思う。

 カグヤと出会ったのは、僕が高校三年生の頃だ。当時カグヤは一年生。同じ高校に通っていた。

 共通の友人はいない。部活も、僕が陸上部でカグヤは剣道部だった。

 僕の方は校内で有名でも何でもなかったし、カグヤは、あの頃はツインテールではなく、前髪で顔を隠していたのでやはり地味な女の子にしか見えなかった。そう。昔のカグヤは勝ち気の“か”の字もない、言ってしまえば暗い女の子だったのだ。


 きっかけは駅のホームだった。

 陸上部を引退し、受験勉強に本腰を入れはじめた二学期の初日。片耳にイヤホンをはめ、いかにも受験生らしく英単語を聞き流していたプラットフォームで

 僕は、一目惚れをした。







 タタン、タタン……

 風が吹いていた。車両が減速し、居並ぶ人々は右を向く。

 僕も線路を辿る電車を見やった。そして、風で前髪が掻き上げられた彼女を、乙梨かぐやを見つけた。


 いつも人の多い駅だった。そんな中その子だけが、髪を押さえもせず線路に目を落としている。

 彼女は一人だった。通学生や通勤中のサラリーマンで溢れかえるホームの端に、ぽつんと立っていた。

 僕は見つめる。人混みに紛れているのを良いことに、その横顔を見つめ続ける。

 風に煽られ、乱れた髪を耳にかける仕草が美しかった。


 制服が自分の通っている高校のものだとすら気づかなかった。

 これから同じ電車に乗る。なのに多分、車両は違う。そういうことばかりが察し良く、どこの学校に通っているかなど全く気が回らなかった。










 あの子が剣道部だと知ったのは、竹刀を担いで武道場から出てくるのを見たからだ。

 彼女は手を怪我していた。

 激しい籠手を取られたのか、捻挫したのかも知れない。ハンカチでくるんだ保冷剤を手の甲に当てている。

 そのとぼとぼとした足取りは、今のカグヤからは想像もできない気勢の無さだった。


 いきなり彼女が現れたものだから、僕の心臓は死ぬほど跳ねた。

 その当時、“あの子”がこの高校の生徒であることはもう知っていた。あの日の朝、彼女が同じ駅で降り、自分の前を歩いて見慣れた校門をくぐったときの感動は忘れられない。

 それ以来廊下の端を歩いているのを度々見ていた。あんな子、夏休み前までいたっけ、と記憶を巡らしてみるがやはり見覚えはない。もしかすると転校生かも知れない。


 “同じ高校の一年生”であることしか知らない女の子。怪我で早めに部活を切り上げた彼女は一人だった。

 そして僕も一人だった。

 彼女が向こうから歩いてくる。

 何か言って、引き留めたい。でも何て? おそらく向こうは僕のことなんて単なる先輩としか思ってないだろうし……


 僕は気づいてしまった。

 事実、単なる先輩に過ぎないじゃないか。

 名前も知らない三年生からいきなり声をかけられたら不安に思うに違いない。もうなんべんも聞き返した英単語の音量を下げ、僕は秋の空を見上げた。


『branch……grow……grass』


 音量を下げたおかげだ。もちろん、目は逸らしていても意識は彼女に向いていたからでもある。


「…………」


 足音が止んでいた。

 すれ違った直後だった。竹刀が倒れるぱたんという音がして、僕ははっと振り向いた。


「だっ、大丈夫?」


 彼女は両膝をついていた。転んだ格好ではないにしろ、覆っていない脚が地面に直接触れている。

 駆け寄り、肩に触れると、彼女の体は華奢だった。


「どうかした?」


「……足の力、抜けて……」


 彼女は左手で右の肘を抱えている。右の手首は打撲したのか、真っ赤に腫れていた。

 彼女がなかなか立ち上がらないので僕は困った。足まで挫いてしまったのだろうか。運動部の子が歩くだけで足を挫くのは珍しいが、今日はたまたま悪いことが重なったのかも知れない。転校のストレスのせいで調子が悪いのも十分考えられる。

 どうすればいいんだろう。励ましや慰めの言葉が思いつかない。

 どうも彼女は元気がない。カッコつけて食事にでも誘ってみる?

 ……何考えてんだ僕は。


「その……立てる?」


「…………」


 返事はなかった。微かに頷いたように見えるが、どうだろう。

 遠く、図書館前の道をバスケ部が走り込みしている。吹奏楽部の細切れの演奏が流れてくる中、ここに僕はこの子と二人。

 送っていくべきだ──僕は決めた。今から図書館に参考書を返しに行く予定だったが、そんなもの明日でいい。

 この子と最寄りの駅は一緒だ。その分、彼女に余計な遠慮をさせることもない。


「一人で帰れる?」


 それなりに勇気を振り絞った。

 でも、彼女からは何の反応もない。


「その……。えっと、その手。診てもらったほうが良いかも」


 だから何? もしそう言われたら答えに窮していたところだ。

 彼女は足の痛みに苦しんでいる様子はない。ただ虚ろに一点を見ているだけだ。つまり足は挫いていない。

 つまり僕の助けが無くても医院くらい、行ける。


 焦って取り繕おうとする自分に気づき、止めた。「送る」と言ったのはもう取り消せない。

 取り消す意味もない。

 言ってしまえ。「一緒に帰りたい」と。

 駅で会ったときに一目惚れした、と。

 相手は年下の女の子じゃないか。何をビビってる、芦原零一? 言うんだ。さあ……


「──歩きたくない」


 いざ、想いを告白しようとした瞬間だった。


「え?」


「…………」


 聞き間違いじゃない。“歩きたくない”と。

 滅多に聞けないこの子の声。か細くて、頼りない喉。

 腕に、いや左手にだけ力が籠もり、ぎゅっと肘を握っている。

 放っといてほしい。そう言ってるように見えるのは自虐的すぎるだろうか。

 歩き(かえり)たくない──そう聞こえたのは瞳があまりに空しいからか?


「……立たないと。…………」


 手を貸してやるつもりで腕を下ろした。イヤホンからはもう何も聞こえない。

 ハンカチを握ったまま、彼女の肘は震えていた。丈が短い。

 その袖を必死に手繰り寄せて、手首を隠しているようにも、見えた。


「貸して……」


 ハンカチに手を伸ばしたのは、そういう意図があったからだ。

 指先が触れる。

 ビクッ、と彼女の手が跳ね、短い袖が手首の下までずり下がった。


「……!」


 リストカットの痕。

 見るのは初めてだった。それでも手首を一息に横切る痣色のそれが何を意味するのかは考えずとも分かった。


「……っ」


「待っ……!」


 彼女は竹刀を引ったくり、後も見ずに走っていった。

 自傷行為の証、陰鬱な疵瑕(キズ)。見られてはいけないものを見られた少女は右手が痛むのも構わず逃げる。

 僕は引き留めようと手を伸ばす。しかし届くわけがない。走って追いかけることは、しなかった。










 僕とあの子の人生が一つになったのはその翌日からだった。


 ──タタン、タタン……


 遠く離れていた二つの直線。辿るうちに互いの存在に気づき始め、一つの点で、交わる。


 ──四番線、列車が到着します。白い線の内側に──


 あの日と同じ天気。

 あの日と同じ風。

 変わらない顔、変わらない場所。

 この日も彼女はホームの端にいた。


 ──タタン……タタン……


 僕は二号車。彼女は隣。

 僕に気づいている様子はなかった。いつもの通り、平行な鉄路をぼんやりと見下ろしている。

 彼女は袖を隠していなかった。


「…………」


 もう電車が来る。そして僕は右を向く。

 風に吹かれ舞う彼女の髪。普段隠れている表情が朝この時だけは日を浴びる。

 その表情が、どこか、いつもと違って見えた。


 ふらっ……と彼女の体が揺れた。

 後ろの人に押されたせいでバランスを崩したようだ。とん、と足が前に出る。

 点字ブロックの後ろにいたから彼女は線路に転落することはない。ただ片足が、白線を踏み越えてしまっただけ。


 それだけだった。

 ただ白線を越えただけで、彼女の表情から生気が消えた。


「っ!?」


 線から外側には誰もいない。その開放された空間に向かってゆらり、と、彼女の体が傾いた。

 僕は走った。鞄を捨てて。白い線の外側を一直線に。

 彼女のもう片方の足が、出た。人の波から押し出されるように。波の面から滴が飛び出るように、死の決断はあっという間だった。


「死ぬな……」


 人混みがせり上がった。電車が近い。事態に気づいた人が少女に手を伸ばしたが、彼女はその手に背中を押されているようにも見えた。


 列車の風圧が髪を巻き上げる。人混みで、誰かが叫んだ────


「だめだアアアアァァァ!!」


 タタン、タタン……タタ……ン……


 一両、二両。僕らの前を通り過ぎ、緩やかに止まる。


「なん、で……」


 僕が必死に伸ばした腕に彼女はもたれていた。見失っていた景色が戻り、辺りの雑音が大きくなる。


「どうして……」


「……死なせたくなかった……」


 死なせたくなかったのは、どうして。とは訊かれなかった。


「…………」


 ぐっと腕に重みがのしかかる。

 これがあと少しで死んでいた子の全体重。

 僕は支える。重くなんかない。この子は僕に体の重さを預けてくれている。この子なら支えられる。

 カグヤの頬から涙が落ちた。









 それからは何度も相談に乗った。

 その相談のほとんどが父親のこと──妙な新興宗教に嵌まってしまった父のこと──だった。僕には心理学の知識もなければ新興宗教と何の縁もないけど、それでも力の限り相談に応じた。


 次第にカグヤの心も開かれていき、僕を通じてなら他の人とも素直にコミュニケーションがとれるようになっていた。まさか僕がいないとすぐ喧嘩になるとは思いもしなかったけど、喧嘩でも何でも、カグヤが人と大きな声で話しているのを見るのは嬉しい。


 カグヤから送られていた大量のコメントに既読を付けてゆく。それを読むと、どうやら彼女は午後の訓練が終わった後射撃場に向かったらしい。

 文章は決して誘っている風ではない。しかしわざわざコメントを送ってくるからには、僕も一緒に射撃訓練してほしかったのは推して知るべしだ。


「ケントに付き合わされてなきゃな……」


 そこからカグヤのコメントは途絶えている。おそらく僕からの返信は諦めて一人で向かったのだろう。

 約三時間。もしまだカグヤが射撃場にいるのなら、彼女は三時間も訓練を続けていることになる。

 まだいるだろうか? 普通ならいい加減部屋に戻っていると考えるのが自然だ。だがカグヤなら多分、まだ標的を狙い続けているはずだ。

 誰よりも負けず嫌いで、誰よりも努力家。そんなカグヤも、好きだった。


 だが直後、僕の期待は裏切られる。

 射撃場に顔を出そうかと立ち上がった僕のパソコンが、カグヤからの着信を表示したのだ。

 僕はそれを読み、青ざめた。


「あのバカっ……!!」


 六時、カルデレラ記念像の前にて。との待ち合わせ場所に続いて到着したコメントには、こう書かれていたのだ。


 “レイちゃん! かぐやこれから決闘するの! 今日こそあのムカつくキリヤをぶっ飛ばすからゼッタイ見に来て!!”


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