Ⅳ─分と33K
八千文字さ。
「ゲノム」という言葉がある。
細胞核に蓄えられた、生体の設計図のことだ。
一般に言う「遺伝子」とニュアンスは同じだが、本来遺伝子とはゲノムを記録する物質、つまりDNAなどをさす。犬と魚とでDNAの基本構造に違いはないが、そこに書き込まれた“情報”の差異が生物の多様性を生み出すのである。
そのゲノムは、我々の場合はヒトゲノムと呼ばれるが、およそ千年前にコンピューターの力によって全て詳らかにされている。
そして幾度と無い技術革新を経た現在、この国のほとんどの民は産まれたときにゲノムデータを採取されている。将来未知の病気を患った際にそのデータを治療に役立てるのだ。
ここからが話の核である。
過去数百年にわたる膨大な蓄積データ。それらの解析を進めていた生命情報科学者や配列解析学者が、三百年ほど前からヒトのゲノムに異変が現れ始めたことを確認した。
もとよりゲノムというのは変わるものである。同種の個体間でも一定の割合で違いが見られるし、時代が下れば何らかの変動が見られて当然だ。
だがその“異変”は突発的だった。そして劇的だった。
具体的にヒトゲノムのどこが変わったのか。
簡単に言えば“薬物作用の発現”に関してだ。全ての人間にこの変化が見られたわけではないものの、何世代にもわたる研究によりこの特性が遺伝することも分かった。
二万二千種類もあるとされるヒトゲノム。その中で何故“薬物作用”なのか。
その筋の研究者に言わせれば、とても簡単な理由だ。人と薬との歴史は、深い。麦を植えるより早く、文字を書くのよりも早く人間は薬草を重用していた。
これは起こるべくして起こった“進化”なのだ。
そこまで話したところで桐哉が口を挟んだ。
「進化って、まさかあんた……」
椎樹はこれ見よがしに溜息を吐いた。「進化」と言った途端に警戒されるのはこれで何度目だろう?
「いいですか? これだけは念押しときますけど、自分ら秘匿憲国軍ってのは国が認めた民営の治安組織なんです。某ルサンチマンみたいなイカレ衆と一緒にしないでください」
「そんなこと言われても……。秘匿憲国軍、なんて、初めて聞くんだけど?」
「ええ? 知らないの? あっちゃー参っちゃうなこりゃ」
ムカつくやつだ。出来ることならこの風邪を丸ごとこいつにうつしてやりたい。
「秘匿憲国軍ってのはですね、……えー、ほんとなら設立事由とか資本財団とか一々言わなきゃなんないんですけど……まあようするに進化した人を集めた正義の組織です」
「セイギの……ソシキ?」
何とも幼稚な響きに思えた。“進化”だの、警察を差し置いて“正義”だのと赤茶色の髪の男が口走るから、どうしても夢見がちな若者が空想でモノを言っているようにしか聞こえない。
だが彼が単なる気狂いでないことは、素手で破壊された扉を見ればはっきりしていた。
「……なんか、何言われるか察した気がする」
「おっ、鋭い! たぶん正解だと思うけど、一応決まりなんで言わせてもらいますね」
名刺を取り出した方とは反対側のポケットを漁り、蝋で封じられた封筒を桐哉に寄越した。
鉄錆色の封蝋には、Xまたはχの字を横に引き延ばしたような印が捺されていた。砂時計を横倒しにしたようでもある。桐哉がその封を破くのを見計らって、椎樹が一つ咳払いをした。
「おほん。えー……飛田桐哉殿。貴下の遺伝情報を解析することにより99.99%、国際取締薬物への使用耐性があることが認められた。よって貴下を、我々秘匿憲国軍の一員として歓迎する」
封筒から出てきた令状にも概ね同じようなことが書いてあった。こちらには秘匿憲国軍の総裁や様々な財団の名も連ねてある。
軍の資本である各種財団の下に続いて、小さな文字で補足事項が記されていた。「貴下の薬物使用認可状は入属し次第手配する」とある。
それさえあれば本来法で禁止されているはずの取締薬物を使用できるらしいが、禁止されるほど危険な薬など許されたところで飲みたくはない。
そしてその下、赤い下線が引かれた文章を見て桐哉は我が目を疑った。
「きょっ──拒否権は認められない!?」
「え? あ、そうですけど」
なんたることか。「秘匿憲国軍の存在を認知した者はこれに入属し、管理下に入る責務を拒否できない」なる注意書。
この民主主義国家においてこんな暴挙が許されるのか。
「許されてませんよ。一応」
桐哉が病人なりに気迫を振り絞ってまくし立てると、椎樹は悪びれもせずに言った。
「自分もお上からはぎりぎりまで正体を隠しつつ勧誘しろって言われてますけど、そんなん、無理に決まってますよ。ねぇ」
秘匿憲国軍はまさしく“秘匿”の組織である。桐哉はその存在を知ってしまった以上、“口を封じるために”組織の管理下に入らねばならないのだ。
納得いかない桐哉は果敢に反発した。暖房の風邪で令状がぺらりと舞い転がる。
「だったら秘密にしなきゃいい! 正義の組織、なんだろ? なんでそこまでして隠さなきゃなんないんだよ!」
「そう。それな、それですよ」
我が意を得たりと、椎樹は指を突き立てた。
「僕らの戦い方、だいたい分かると思いますけど、とにかく薬飲んでパワーアップして悪い奴らをやっつけるって感じなんですね。で、その薬ってのが曲者でして。ほとんどが国際的に認められてないんですよ」
「認められてない? だったらこの使用認可状は……」
「これね、日本が勝手にやっちゃってるんですよ」
「なっ……勝手にって……そんなことして」
「もちろんヤバいですよ。だから隠してるんです」
ここは本当に日本だろうか。寝ている間に自分は日本に似た、けれど最低限の秩序すら保たれない国に連れてこられたのではないか。
眩暈がした。風邪とは関係ないだろう。桐哉は手の平に顔を埋めた。
もう一度、眠りたい。そうしてゲノムだの憲国軍だのいう話は全てなかったことになって、この椎樹も夢となって消えてくれるといい。
「……桐哉さん。もしかして睡眠薬とか飲んじゃった感じですか?」
返事をする気力はなかった。もっと言えば、座っているのすらつらかった。
瞼が痺れる。横になりたい。
「睡眠薬はだめですよ桐哉さん。桐哉さんのゲノムは睡眠薬と相性悪いんで。あっというまに免疫落ちちゃいますよ?」
また「ゲノム」だ。やめてくれよ。夢に出てくる。
とうとう桐哉は横になった。
入属拒否は認められない? 勝手に言ってろ。口封じ? そんな誘拐まがいのことなんかしなくたって、俺は誰にも言わない。このまま寝かしてくれれば今聞いたこと全部忘れといてやるから……
「最後の最後に言っときますけど」
年下らしき若者の抑揚のない声が聞こえてきた。
彼は何かを口に含んでポリポリと噛み砕き、言った。
「自分、指示に従わない者、軍の情報を漏洩する怖れのある者を処分する権限与えられてますんで」
日は沈みかけ、雲が寒々しい灰色に染まっている。窓の庇に並んだ氷柱から滴が垂れ、きらりと茜色に瞬いて消えていった。
二月の半ばにしては室内は暖かかった。暖房が強すぎる。布団にくるまっていると全身からどっと汗が噴き出し、エアコンのリモコンを求めて桐哉は寝床から這いだした。
「ううっ……寒……」
自販機で買った缶コーヒーもとっくに冷たくなっていた。これ以上冷めないうちにと、私は残りを一気に飲み干す。
交差点の向こうにコンビニが見えた。空になった缶を捨てに、私は横断歩道を渡った。
「いらっしゃいませー」
「ふやぁ……あったかい」
お店の中は暖房が利いていて、かじかんだ指もすぐ元通り。
しばらく外にでたくない。とりあえず携帯カイロだけ確保しておいて、私は雑誌コーナーの前に並んだ。
なに読もっかなぁ……
ファッション誌はこの間読んだばっかり。「出来る人の20の共通点」みたいな本は、読んでおいて損はしないんだろうなあとは思うけれど、あんまり進んで読みたい気分にはなれなかった。
やっぱり帰ろうかな。もう暗いし。
ガラスに自分の顔が映る。ショートヘアの前髪をピンでとめて、マフラーで口元を覆っている。ガラスに反射した私の目は、外の暗さのせいで落ちくぼんで見えた。
ふと、あずのお兄さんの顔を思い出す。お兄さんはとってもつらそうだった。目にはクマができて、私が部屋に飛び込んだときも横になったままぼうっとしていた。
お兄さん、まだ寝てるかな。
もしかしてお昼からなんにも食べてないのかも。
病気を治すには栄養が大事。お昼にお見舞いに行ったときだって本当なら何か作ってあげたかった。
でも風邪をひいた人にはどんな料理を出してあげればいいんだろう。普段食べるものは一通り作れるけれど、滋養のための料理となるとお粥くらいしか思い浮かばなかった。
(そういう本、ないかな)
前の書棚を探してみる。
すると、あった。「ほっこり手料理」という題名で、サブタイトルに「さむい季節、二人であったまろう!」とある。雪を被って風邪を引いちゃったお兄さんにはぴったりだ。
バス停に降りる頃には、ちらちらと雪が降り始めていた。
「傘……。……あれ……?」
確か折りたたみ傘が鞄の中にあったはず。
「ほっこり手料理」をどかし、筆箱を持ち上げ──その筆箱だと思っていた物が折りたたみ傘なのにようやく気づいた。すっかり暗くなっていて、持ってみるまで傘と筆箱との区別もつかない。
少し歩くと大きな用水に差し掛かる。そこに架かる橋を越えたところにあるのが私のアパートだった。
外は私一人だった。時々雪の薄くなった道路をヘッドライトが照らしたりするけれど、みんな寒い思いをしてでも外を出歩く用事はないのか冬の街灯が寂然としている。
私だって。早く帰ってお風呂にはいりたいよ。
橋の中央に人が居るのは、何かを歯で引き剥がす音で分かった。
「ちゃぐっ、ンググッ……ちゃぐっ、ちゃぐっ……」
そして、生臭い鉄サビの臭い。
「ぐぅっぷ。にちゃっ、ちゃっ、ぺちゃ……ぺちゃ……」
「ひっ……!?」
宵闇には目が慣れていた。橋の真ん中で煌めくナイフ。
カラス、なのか、鳥の生肉を貪っている人がそこにいた。
「あぁ……?」
犬のように四つん這いになり、文化的とはお世辞にも言えない食べ方をしていても、眼鏡の向こうから睨んでくるのは間違いなく人間の、男の人だった。
「……女?」
「あ……あぁ……」
逃げないと。でも背を向けたらその隙に襲いかかってきそうで、怖い。
「なぜにげない、女」
なんて答えるべきなんだろう。襲われそうだから、と言ったら相手を刺激しそうだし……。
男の人から目を離さずに、じりじりと後ろに下がる。
距離が開いたら、走って逃げよう。どこかの家に匿ってもらわないと。
「ふふっ……そうか。この“鳥類王”の神々しさを前にしておそれ慄いているのだな?」
「……鳥類……?」
「ほんのすこし前まで私は“番犬王”だった……。だがいまは、うふふっ。漆黒の賢鳥をくらうことによって私は鳥類の王への転生をとげたのだ!!」
言っている意味が分からなかった。この人はどこからどうみても普通のヒト──普通ではないにしても、鳥とか犬とかにはどうしても見えない。
やっぱり頭がおかしいんだ。こんなときはなるべく相手の話に合わせてあげたほうがいいのかな?
「見よ。我が神々しき暗黒の翼! 闇夜に溶け込む災禍の羽毛!」
「あ、は、はいっ」
「グエェェェ! ギョェェエ! グルッ、クエエエエェェェッ!」
頭のおかしい男の人は両腕、もとい両翼をはためかせてけたたましく啼いた。
足をピョンピョンさせて細い腕をバタバタ振っているのを見ているとつい笑いが込み上げてくる。唇を噛んで堪えながら、この大声を聞きつけて誰かが助けに来てくれないかな、と期待した。
そのときだった。男の人が急に苦しみだして、吐いた。
「プグッ!? ゥロオエエエエエェェ!」
「いっ……!」
私はとっさに目を逸らした。それでも男の人の口から想像したくもない“モノ”が溢れ出す音は防げない。
「っ! ハアッ! ハァ……! く、くすりが……らっしゅ……」
今なら逃げられる──男の人の方はもう見ずに私は回れ右をする。
後ろで何か吐き気止め薬のようなものを噛み砕く気配がした。
「! までこらァ!! にげんなあァ!!」
ひいっ、と情けない息が口から漏れた。思わず足が竦みそうになっても、必死に前へ走る。
(車!)
遠く前の方に一組のヘッドライトが見えた。こちらに向かってくる。
乗せてもらわないと。助けてもらわないと……
「うおおぉぉおおぉ! へん、しん!!」
ヘッドライトの眩しさに瞼を細めて、逃げるように横を向いた。
すると視界の端、たった今走ってきた方向で男の人が跳んだのが見えた。
「────えっ」
目を見開いて、後ろを見上げる。
あの変な男の人は、足の力だけで十メートルも跳んでいた。最高点に達した後、頭を下にして襲いかかってくる。
十字に開かれた両腕にはアメリカンナイフが握られていた。
「必殺!“ダーククロウデススラッシュ”!!」
「キャアアアアアアアアア!!」
顔の前で組んだ刃物が上空から近づいてくる。
走らなきゃ──なのに、凍った路面に足をとられて左膝を突いてしまう。
男の人は目が血走っていた。今度こそ、私の目にも鳥に見えた。食欲の赴くままに獲物を襲う、理性のない人型の鳥に。
切っ先が振りかぶられた。もう、死ぬ──
「“ノックス”」
ゴウ! 焼けるような熱が耳を掠めた。
ほんの一瞬だけ真昼のような眩しさを感じ、瞼を閉じる。
ぱち、ぱちと炎が爆ぜる音がして、何が起きたのかと目を開いた。
「ヴッ!? ヴァッ! ギャアアアアアァァ!!?」
アスファルトの雪にまみれて燃え上がる物体。
それが二丁のナイフを放り出したのを見て初めて、あの男の人が燃えているのだと気づいた。
「誰?」
その炎のすぐ側にコートを着た人が立っていた。
軽く構えた拳から煙が上っている。その人の周りだけ円形に雪が融けて、降る雪も彼に落ちることなく空中で蒸発していた。
その髪の色。赤茶色に染められた頭に見覚えがあった。
「し、椎樹さん……!?」
夕方、お兄さんの部屋を尋ねてきた椎樹さんは、燃え盛る男の人の断末魔を見届けてからゆっくりとこちらを向いた。
「な、なに、したんですか? 火が、火が……」
椎樹さんは夕方会ったときとは別人のような、引き締まった表情をしていた。炎の赤が逆光になって一層凄みが増して見える。
ぽと、ぽとと椎樹さんの近くにも粉雪が落ち始めた頃、両拳を額の近くに掲げて、椎樹さんはこう言った。
「てじなーにゃ」
「……は……」
「だいじょうぶ? 怪我とかない?」
すっと手を差し出される。さっき煙の出ていた方とは反対の手だ。
それでもその手に掴まることはできなかった。「この人に何したんですか……?」
「何って……まあ、“処分”かな。堕滅した中毒者に引導を渡すのも自分らの仕事だから」
「自分、ら?」
「あーっ、と」椎樹さんは罰の悪そうに頭を掻いた。「なんかこの辺で飼い犬が食い殺されたって話を聞いたからさ。野次馬根性だして見に来たわけ。それにしても不思議だねぇ。空気が乾燥しちゃうと、人にも自然と火がついちゃうものなんだねぇ」
「なにか、しましたよね」
「こわいねぇ、自然現象って」
口ではおどけている。でも目は笑っていなかった。椎樹さんの近くは奇妙に温度が高いのに、このときは私の背筋を寒気が走った。
「家、この近く?」
「…………すぐそこ、です」
「あ、じゃあ送ってかなくてだいじょうぶだね」
気をつけて帰るんだよ、と椎樹さんは優しい表情をした。その表情の温かさ、そして何よりお兄さんの同級生という事実が私の警戒を解きほぐしていく。
でも。この人は男の人に火をつけた。
どうやったのかは見当もつかない。でもこんなのが、自然現象なわけがない。
第一、現れたときの椎樹さんの冷たい眼差し。突然燃え上がった炎に驚いた様子は少しもなかった。
何かしたんだ。でも訊くとただじゃすまない。
こんな人がどうしてお兄さんのところに?
そして、恐ろしい予感がした。
まさかこの人は、お兄さんにも火を……
「椎樹さん! お兄さんをどうしたんですか!」
「どっ、どどっどうって? 桐哉さんが何?」
「お兄さん、今どこですか!? 生きてるんですか!?」
「いやたぶん生きてるけど……ちょっと待った! まさかとは思うけど自分は桐哉さんに手ぇ出したりしてないからね!?」
嘘だ。お兄さんの名前を出したらこの人は動揺していた。
「……ッ!」
学校に戻らないと。お兄さんのところへ──
「わわっ! 真希ちゃんどこ行くの!」
「いやぁっ! 離してぇ!」
「ぅおっ!? ごめん! そういうつもりは」
後ろから肩を掴まれた。男の人を焼き殺した、その右腕で。
「あーもー仕方ない! 真希ちゃん! ほら、後部座席!」
運転してきた自動車を指さす。私はいつでも逃げられるように立ち上がった。
後部座席? 乗れってこと? この人は、私をどこに連れてくつもりなの。
立って初めて、椎樹さんの車に人がいるのに気がついた。
「っ! お兄さん!」
後部座席座席に寝そべるようにしてあずのお兄さんは寝ていた。薄い毛布を被って、頭はこちらを向いている。
窓ガラスを叩いてもお兄さんは起きなかった。代わりに椎樹さんが運転席のドアを開ける。
「寝かしといてあげて。お兄さん、急に苦しんで意識失っちゃったから。これから病院に連れて行くんだ」
「うそ……」
「心配しなくていいよ。すぐ治る」
「……椎樹さん」
運転席に乗り込んでドアに手をかけた椎樹さんに、私は言った。
「私も、ついて行っていいですか?」
「うー……ん」
明らかに愛想笑いだと分かる笑顔で椎樹さんは逡巡する。断られる、と覚悟したとき、やっぱり椎樹さんは丁寧に首を振った。
「仮について来ちゃっても、帰りの車は用意してあげられないから」
「……わかり、ました。どこの病院か教えてください」
「ダメダメ! 今日はもう遅いし、また変な人に捕まらないうちに早く帰りな!」
今度大学に寄ったときに教えてあげるから──その今度って、いつ?
それを訊こうとしたのに。椎樹さんは手をひらひら振って運転席の扉を閉めてしまった。
「あ──待」
車は一度バックし、川に沿うように走っていった。
私もつられるように三、四歩前によろめくけれど、あっというまに車との距離は広がっていく。
「椎樹さん……」
車が町並みの向こうに消えて行き、近くの民家から一人、二人と人が出てきた。
「お兄さんを……お願いします」
騒ぎを聞きつけてようやく様子を見に来た人たちは、川辺で傘も差さずに立っている私を不審に思った。騒いでたのは、君か? と問うてくる。
何人かは鼻を押さえ、ぶすぶすと煙を立てる炎を気味悪そうに眺めていた。
人の焼ける臭いは、道を流れ、川を伝って町に広がっていく。
犬が燃えてるんです。そう言って納得してくれるかな。
何でもいいから、何とかしてこの場を収めないと。警察が来て、椎樹さんやお兄さんのことを聞き出される前に。
次第に雪が強く、大粒になりだした。
傘も持たずに出てきた住人は、燃える野良犬と人騒がせな女性への興味を失って、出てきたときとは反対に一斉に我が家へと帰って行く。
真希は遠くに転がっていた傘を手に取り、肩に乗った雪を払った。手が冷たい。息で温め、傘の持ち手を袖で覆った。
炎は弱まり、川面が再び墨色に染まる。
膝が濡れていた。肩に触れた椎樹の熱を思いだし、冷え切った体が震えている。
吐く息が白かった。
──それ以来桐哉の姿を見ることは、もう、無かった。
次号、「一年後」!
でも気が向いたら書き足すかも。