Ⅲ─set, noon
ねむいぜ
ピッ、ピピピピッ、ピピッ、ピピピピッ──
窓の外はまだ暗い。
なぜこんな時間に目覚ましが鳴っている。
ピピッ、ピピピピッ、ピピッ──タム。
適当に手を伸ばすと運良く時計に当たった。朝にありきたりな電子音がしんと鳴り止む。
置き時計ごときに大切な睡眠を妨げられた桐哉は少々気分を損ねた。最低でも日が昇るまでは眠っていたい。
エアコンをつけ、頭から布団を被っているにも関わらず酷く寒気がした。
風邪、引いたかな? それはそれで憂鬱だ。学内薬局に行って薬を処方してもらわないと…………
「うっわ、ナニその本」
1時間目の講義が終わり、その場にいた大半の学生の表情が解放感に輝いていた。
と言うのも彼らの多くは今日の三時間目の講義を選択しておらず、さらに二限目は休講。朝の十時を少し回った今この時間から放課後が始まるハッピーデーだったのだ。
「読んだことないのか? ルサンチマン出版の『赦されざる薬物』」
「ないし……てかあんた“ルサンチマン”の本とか読むの?」
馬白の聞き方には少し非難がましい含みがあった。
“ルサンチマン”とは数年前から信徒を急増させている思想集団で、彼らの頂点に立つ“ミナモト”なる人物を崇め称えている。
ミナモトはその、ヒトには赦されざる薬物を取り込むことの出来る崇高な存在なのだと。
ルサンチマンが出版した本を読むことの何がいけないのか。井原は咳払いして眼鏡を持ち上げた。
「別に俺は進化だの超人だのいう思想に共感してるわけじゃない」
「じゃあ何で読んでんのよ」
「いっぺん読んでみろよ。この本、なかなか内容が濃い。薬物の作用とか致死量だけじゃなくて、ちゃんと詳しい作用機構とか合成法まで書いてあんだぜ」
「合成法って……それ、ふつーに書いちゃって良いものなの?」
「大丈夫だろ。多分。どうせ作ったって普通の人間には飲めやしない」
本に書いてある中で最も毒性の低いものでも、半数致死量120、つまり青酸カリの100倍近い毒性を誇っている。
その薬物“ラッシュ”は、原理的には使用者の集中力を高め、運動能力を飛躍的に向上させるとされている。
だがそれは死に至るまでの数分間の話だ。
薬の副作用が始まれば使用者は直ちに堕滅し、尊厳とは遠くかけ離れた死に様を遂げるのだ。
「そのミナモトってのは、そこにある薬全部飲めちゃったりするわけだ?」
馬白がまるでルサンチマンの門徒のようなことを言うので、井原はわざとらしく首を振った。
「まさか。あるわけないだろそんなこと。全く……馬白も薬理関係の学生ならそれくらいの判断」
「あー! はいはい私の頭が悪ぅござんした! 今後は発言に気をつけますんであんたもルサンチマンに背中を刺されないよう気をつけることですね!!」
「お……おいおい怖いこと言うなよ」
いつの時代も思想集団に楯突いた者は残忍な“粛清”の対象になるものだ。ぞくっとして、井原は思わず後ろを向いた。
「……ん。ん? ……飛田」
「あれ? ほんとだ飛田じゃん。どしたの?」
マスクで顔を半分覆った桐哉が、そのときちょうど講義室の後ろから入ってきたのだ。
井原たちに近づく彼の足取りは覚束なく、息が荒いのがすぐにわかった。
「お前……一限どころか研究室にもこないと思ったら。風邪引いたのかよ」
「ああ……。二度寝した……」
喉はやられていないようだが、喋るのもつらそうだ。
桐哉は室内を見回し、鞄を持って部屋を出ていく者が多いことに首を傾げた。まさか休講のことを知らないのか、と馬白が教えてやる。
「休講……そうだっけ……そうだったか」
「あんた、三限受けてたっけ?」
「ああ」
「なあ飛田。悪いこと言わねえから今日は休め。医務室寄ってから部屋で寝てろ」
「……そうだな」
反応は薄く、目の焦点も定まっていない。このまま彼を一人で歩かせると途中でぶっ倒れたりしないか心配だ。
よし、と井原は本を閉じ立ち上がった。昼休みまでここで本を読んでいるつもりだったが、今は友達の体調の方が優先だ。
仕方ない。寮まで送ってってやるか。
「じゃ、任せた。私は帰る」
さも当然のごとく去って行く馬白にはまごころ込めて「ありえねえ」と言っておいた。
井原の付き添いで何とか寮にたどり着き、桐哉はすぐさま布団の中に潜り込んだ。
しばらくしてまた這い出て、途中寄った薬局で処方してもらった風邪薬を飲み込む。
(寒、い……)
薬を飲んだら重力に負けたように横になった。布団を被って体を縮こまらせども一向に寒気は収まらない。
食欲はある。こんなときは滋養によいものを食べるべきだとは分かっているが、それを用意するだけの気力はなかった。
頭の中がぼうっとする。今朝起きた記憶も、講義室に向かった記憶も曖昧だ。
寝起きのあの気だるさが、熱を伴ってのしかかってくる感じ。何かするのはつらく、しかし目を閉じても全く眠くならない。
こんなときどうするんだっけ?
そうだ。連絡──講義を病欠することを総務課に報告しなければ。無断欠席はまずい。
枕元の鞄を引きずり、携帯の電話帳から総務課の番号をタップする。
『──はい。下滝大学総務課学生係、戸塚です』
「すみません。理工学部の……飛田、です」
少し間が空いた。
相手の女性が質問してきて初めて桐哉は思い至る。
そうだ、学科、学年、学籍番号も言わないと。総務の戸塚さんが困ってしまう。
明日の講義を欠席する旨を伝えると、相手ははあ、と微妙な反応を示した。
病欠の連絡は普通、当日の朝にするものだ。それは分かっているのだが、明日の朝一番の講義の始まる時間に起きていられるかどうか。自信がなかった。
通話を切り、ほとんど四つん這いの格好で桐哉は台所に向かった。
食事が無理ならせめて睡眠だ。「せっかくだから」なんて寝ぼけた理由で買っておいた睡眠薬は、あと一週間分くらいある。
白い錠剤を一粒摘んだ桐哉はコップも持って布団に戻る。薬と水とを立て続けに飲んで、泥の中に沈んでいく意識に体を預けた。
お兄さん。
お兄さん……。
真希、ちゃん……?
お兄さん起きてますか……
寝てる。
でもしっかり眠れてない。
喉痛かったら、ラインでもいいので何かお返事ください……
ラインね。
ライン……
ちゃんとご飯食べてますか……
……お兄さん……?
あの……い、生きてますよね……
…………。
ブブブブッ──ピンポーン。
ブブブブッ──ピンポーン。
ピンポーン。
ドンドンドンドンッ。
…………。
お兄さん? いるんですよね?
返事してください!
寮母さんに言って鍵開けてもらいますから……
…………。
おにい……
ガチャ。
…………ッ!!
開いてる……
………………え?
おっ……お兄さんッ!!
「よかったぁ……。てっきり死んじゃってるのかと」
真希は布団の脇にへたり込み、安堵の溜め息をついた。
鍵を掛け忘れたのは迂闊だった。扉が何の抵抗もなく開いたときの真希の慄きようといったら、殺人事件の現場に踏み込む第一発見者そのものだった。
「なんでここに……?」
「昨日からお兄さんを見かけなかったので……」
彼女はわざわざ理工学部に立ち寄り、先日会った馬白に桐哉のことを訊いたらしい。次に馬白を見るときは覚悟せねばなるまい。
「そっか。ごめんね、わざわざ」
「お兄さん、ずっと寝てたんですか?」
真希が顔を覗き込むのでつい目を逸らす。すると開いた扉の向こうの空が明るく澄んでいるのが見えた。
「今、何時?」
「えっと、12時20分ですね」
部屋のデジタル時計を見て真希が答えた。
桐哉が井原に抱えられて部屋に戻ってきたのは11時頃だったはず。即効性の睡眠導入剤を飲んで一時間弱で目が覚めるとは思えない。
時計の画面に表示された日付を見て納得した。
「そうか……。昨日から、って言ってたもんね」
昨日のうちに総務課に連絡しておいて正解だった。桐哉は丸々24時間眠り続けていたのだ。
「じゃあ、何も食べてないんですね?」
いわゆるお腹と背中がくっつきそうというやつだ。意図せずぐううっと音がして、本当にお腹と背中の距離が縮まったのだからシャレにならない。
恥ずかしげに頭を掻きつつ、淡い期待が桐哉の頬を綻ばせる。
このシチュエーション……。もしかしなくても真希ちゃんが何か手料理を作ってくれるパターンじゃなかろうか。
いやあ。申し訳ないよ真希ちゃん。キミはこれから午後の講義もあることだし。夕方また来るといいよ。
「ちょっと待っててくださいお兄さん!」
「いやいや真希ちゃん。悪いって」
「コンビニで何か買ってきますから!」
「あ、えっと……うん……」
予想を裏切られて遠慮するのも忘れてしまった。まあ世の中そんなに甘くないですよね。
「16:35」と、現在時刻が七セグで表示されている。
真希が電光石火の勢いで買ってきてくれたのはゴマのスープとインスタントの生姜湯だった。空きっ腹には物足りないが、調子の悪いときに詰め込みすぎるのが体に良くないことは桐哉も承知している。
息を切らしてスープにお湯を注いでくれる真希を思い出し、桐哉はとても自分が情けなく感じられた。
梓から、唯一真希に関してだけは頼りにされている21歳の兄。それなのにみっともなく風邪を引いて、事実上真希を使い走りにしている。そんな自分が彼女にしたことと言えば、雪を払って冷たくなった手にカイロを握らせてやっただけ。
その雪だって、自分が間抜けにも頭から被ったものなのだ。
なんだこれ。
「頼りねえ……」
声に出したところで叱責は飛んでこない。ラインで梓に暴露すればすぐにでもやってきて闘魂注入してくれるに違いないが、それは憚られた。
生姜湯を飲んでいると少し頭の痺れが取れてきた。血行が良くなって、悪い成分が排出されつつあるのだろう。
「んんっ……ん」
伸びをした。さすがに一日以上も横になっていたら体が固まってしまう。真希を心配させないために、そして一日でも早く馬白の追撃に耐える体力をつけるためにしっかり体をほぐさないと。
気分転換もかねて窓際に寄った。
外を見下ろすと真希が見えた。
「……誰……?」
彼女は誰かと一緒だった。
桐哉の知らない男だ。真希と同じ人間開発学部かもしれない。おそらく桐哉より背が高く、赤茶色の髪が雪景色の中で映えていた。
真希はこちらに背を向けている。少し遠いが、相手の男が何か言う度に頷いたり、両手をもじもじさせたりしている。
男の方は笑っているようだった。桐哉には笑っているように見えただけかもしれないが、真希と男との間に何か親しさのようなものがあるのはこの距離でも伝わってきた。
男友達だろうか。
……カレシ、かな。
この二つはどうちがうのだ。いや。大きく違う。前者は仲良しで、後者はいちゃいちゃ……。
要するに何がちがうのだ。
くるり、と真希が振り返ったので、慌ててカーテンの陰に隠れた。
そのまましゃがんで、布団に這いつくばる。
風邪は、明日には治るだろうか。何とも言えない体調だが桐哉は携帯を手にし、睡眠薬を飲みに台所へと這いずった。
トントントントントン。
一秒で五連打。軽快なノックが響き、桐哉の睡眠が妨げられる。
誰だ? こんな時間に。
不機嫌になって時計を見るが、寝入ってから五分と経っていなかった。念のため日付を確認するが今日のまま。無論、西暦は2999年だ。
トントコトントン、トントン。
腹の立つノックだ。ただでさえ機嫌も気分も悪いのに、その上無礼な来訪者を追い払う元気はとうに無くしていた。
411……飛田、桐哉。合ってるよなぁ。
部屋違いではなく確かに自分に用があるらしい。だがその声に聞き覚えはなかった。
面倒だし、居留守を使おう。罪悪感はない。これは訪問者に対する挑発ではなく、風邪をうつさないための奥ゆかしさ溢れる遠き慮りなのだから。
来訪者はしばらくノブをがちゃがちゃやっていたが、ついにドアの前から離れたようだ。気配が消え、部屋に静寂が取り戻される。
(ふう……)
胸をなで下ろし、桐哉が再び丸くなった、そのときだった。
「桐哉さーん。隣に人いないみたいなんで、開けますねー」
は、とドアを見やった瞬間、ドアノブの周りがメキリと音を立てて陥没した。
「ちょっ……?」
ガタン、ガタンッ!
ドアの隙間からロックが弾け飛び、乱暴で粗野な音が桐哉の耳に直接飛び込んでくる。
そして────
バッ! ゴオォォォォンン!!
「は……はあああああああぁぁ!?」
凄まじい爆音とともに、扉が完全にへし折られた。
「いたいた。……ってやっぱ起きてたんじゃないですか桐哉さーん」
「あ、え、あ、あんた、なにやって」
「もー居留守とか勘弁してくださいよ」
これで五人目っすよぉ。と靴を放る。
五人目? なにが? こいつは過去四回も人の家の扉を素手でぶち破ってきたのか?
いやそんなことより──
「あんた、真希ちゃんと話してた……」
「え、うっそなんで知ってんの? 見てたの?」
「ぇあ、いや違」
「そっかぁ。“お兄さん”は大変だねぇ。妹を毎朝毎晩見張ってなきゃならないもんね!」
妹じゃねえし、ぶっ殺すぞ。
心の中で悪態を吐く元気くらいはまだ残っていたようだ。行動や腕力以上に非常識ななれなれしさが堪忍袋にちょっかいをかけてくる。
しかし現実に桐哉の口をついて出てきたのは「あんた、誰」と、覇気も闘気もない掠れ声だった。
「えーとね、一応あの真希ちゃんって子には桐哉さんの同級生って言ってあるけど……」
赤茶髪の男はコートのポケットに手を突っ込み、一枚の名刺を取り出した。「詳しくは、こういうものです」
「秘匿……?? これは?」
会社の肩書きでも弁護士事務所の名前でもない。そこには明朝体の縦書きで「秘匿憲国軍『治安一級士』 椎樹 威」と記されていた。