Ⅰ─番線、通過
プロローグ
“反動”だと言われた。
唯一の平和国。絶対の無宗教国家。
幸福の島──。
世界人類が一度は訪れたいと憧れる理想郷が狂い始めたのは、今からおよそ三年ほど昔だったろうか。
「人類は進化しつつある!」
ここが平和の国だった頃から囁かれていたことだ。
国民が何も考えず、何の拠り所も持たずして生きていられる時代はそう長くは続かない。いつか何世紀も溜め込んだ黒い澱が溢れ出すときが必ずくる。
結論から言えば、その予想は的中した。西暦が三千回巡ったのを契機に、昇っていた日があっという間に落ちるようにこの国の秩序は崩壊した。
「鼠が猿へ、猿が人へ。そして人が文明を持ってから六千年経った今! 我々は新たな進化の真っ直中に直面している!」
列車は急ぎ足で停車駅との距離を縮める。
しかし前方の男は演説を止めない。彼は車掌のこめかみに拳銃を突き立て、列車は駅に停まることなく線路を走っていった。
彼はごく普通の高校生だった。
生まれてからの十七年間、些細な人間関係のいざこざで悩んだことは多々あれど、概ね他の人と大して変わらない日常を送ってきた。
今日この日も、地方線に乗ったのは単なる偶然だった。市の中心街に行って、一年振りに会う旧友と遊び回っていただけ。
帰りの電車をこの時刻にしたのも、友達と別れたのがこの三十分前だったからという以外に理由はない。
「──かつて地上には幾つもの人類があった」
こんなことってあるだろうか。
あと二駅だった。あと二駅で最寄り駅に到着してはいサヨナラだったはずなのに。
突然の銃声。同じ車両の三人の男が立ち上がって銃を手にしたのを見て、少年は思った。
俺の人生、終わった──
「ネアンデルタール人、ハイデルベルク人、ローデシア……。だが彼らは絶滅した! それは何故か! 我々“新人類”が駆逐したからだ!!」
また発砲したのかと思った。
だが違った。興奮した演説者が腕を振り、それが後ろの車掌室の扉を叩いたのだ。
「そして今! 西暦3002年!」
思えば彼らが自分と同じ車両を選んだのも、全くの偶然かもしれない。
だとすると、自分の“偶然”と彼らの“偶然”が重なった奇跡的な結果として自分は事件に巻き込まれていることになる。なんでこんな時ばっかりついてないんだ。
「私は知っている! すでに地上には“超人類”なる存在が現れた! ならば我々新人類──いや! 旧人類がなすべきことは唯一つ!!」
今度こそ奴は銃を撃った。車窓に向けて景気良く。
ガラスの破片は外に飛び散り、入れ替わりに11月の冷たい風が車内に流れ込んできた。
「絶滅だ!!」
その低く押さえた声が自分を呼んでいることに、彼はようやく気がついた。
「キミ」
隣に腰掛けている男性だ。顔は他の乗客と同じように下を向きながら、目でこちらに語りかけてきた。
「頼まれてくれないか」
聞き間違いだろうか。ローカル鉄道の中で危険思想を喚く男の目にとまらないよう、彼も小声になって聞き返す。
「なんでしょう」
「少し頼みを聞いてほしい」
少年はうんともすんとも言えやしない。
こんな非日常な危機的状況に頼みごとをするやつがあるだろうか。
この初対面の男は自分とそれほど年が離れているようには見えなかった。年上だとは思うが、せいぜい二十代半ば。シンプルな革財布以外に手荷物はなく、髪は染まっていない。
テロリストは、自らが会ったという“超人類”について語り始めていた。彼の言う“あのお方”は全てにおいて既存の人類を大きく上回っているらしいが、さすがに空を飛んだとか、海を割ったなどと言われては秋の空風がうすら寒い。
「キミ。聞いてるのか」
銃を持ったイカレた中年はもちろん危険だが、少年にとっては隣から頼まれ事を持ち掛けてくる男の方が厄介だった。あまり隣同士で話していると奴らに怪しまれるかもしれない。
「──あのお方、そしてその同胞たる“超人類”の方々にとって我々は不快な下等生物でしかない! 故に死なねばならない! 我々は!」
仕方ないので少年は彼の頼みを断ることにした。
「お断りします」
「ああ、そうだな。死ぬのはごめんだ」
「そうじゃなくて、あなたの頼みとやらです」
男はとても驚いた顔をした。
「何?」と受け入れがたい事実を目の当たりにしたような表情をしているが、自爆テロの真っ最中に隣の少年が快く頼まれてくれると信じていたことの方がよっぽど少年にとっては受け入れ難い。
「まだ何も言ってないじゃないか」
「いや無理ですって。こんなときに頼み事なんか」
「簡単なことだぞ?」
「なら自分でやってください」
男の膝のあたりを睨んで突き返す。この状況において「息をすること」と「息を潜めること」以上に簡単なことなんてあるものか。
テロルの真っ最中に無遠慮な男の指が、慎重に財布のファスナーを摘んでいるのに気づいた。
革の財布を一周するファスナーが、音を立てないぎりぎりの速度で開かれている。膝と膝の間にそれを持ち、テロリストからは見えないように注意している。
何をしているのだろう?
「私と私の二人の友は悟ったのだ! 我々は考える葦である! 人が人たる最大の理由は、自らの死に意味を見いだすことなのだ、と!」
「なあ、キミ」
「私は死にたい! 進化という摂理にただ殺されるのではなく! 淘汰すらも潔く受け入れる旧人類の美点として! 私は死にたい!」
「このまま座ってたってあいつらは帰ってくれない」
「お前たちも、ここで、死ね! 旧人類なりの、誇りを持って! もしこの中に超人類がいるのなら──潔く、受け入れよう。私を死なすがいい!」
「……人類の、美点として、か。いいセリフじゃないか」
隣の少年にだけ聞こえる声で男は笑った。どうにかこうにか、財布は半分弱ほど開いている。
「本当に簡単なことなんだ。考えることは何もない。だがそれは、俺にはできない」
何ですかそれ。
少年は内心で憤った。この人は何か、この状況を打開する策を企てているのかもしれない。それ自体はありがたいことだが、結局人任せにするのなら黙ってていた方がとても助かる。
どうせあと何駅か通過したらこの列車は外部から強制的に停車されるだろうし。そこでテロリストが暴れて乱射したとしても、自分に命中する確率は低いはずだ。
事前に目を付けられてさえいなければ。
少年の画策は、しかし、隣の男が放った一言によって粉砕された。
「一発芸でもなんでもいい。奴らの気を引いてくれないか」
「……はあっ!?」
正確にはその一言に少年が反応してしまったせいか。
物音立てないよう身を縮こまらせていた乗客も、往生間際の演説を遮られた中年も皆が呆気にとられ、車内が一斉にしんとした。
席に座る男だけが、ぽつりと賞賛の言葉を述べた。
「……ナイスファイト」
本気で人を殺したいと思ったのはこれが初めてかもしれない。
「え、あ、あの……これは」
「……おい! 何だキサマ!」
「あの、あの、違うんです!!」
少年が狼狽え、数瞬遅れて銃の男が怒鳴った。
中年から偉そうにキサマ呼ばわりされるのは好きではないが、銃口を向けられた少年には恐怖よりも高等な感情を持つ余裕などありはしない。
「キサマは何だ! 超人か!?」
「ち、違います! そんなつもりなくて」
「旧人類の分際で大人しく死ねないのか! 恥曝しが!」
何か言わないと。どうしよう。泣きそう。
撃たれる。
やばい────
トイレしたい。
「あっ、あの! トイレ行っていいですか!!」
──俺の人生、終わった。
「…………」
テロリストは何も言わない。
屈辱と憤怒で何も言えない。
彼はここに儀式のつもりで来たのだ。
有史以前から繰り返されてきた自然淘汰。進化の理。人類さえもその流れに逆らうことが出来ないのなら、せめて自分は、その“流れ”を自らの意志で受け入れた最初の生物でありたい。
これは淘汰の儀式であって、目の前に座る有象無象どもはその生贄──
それなのに。生贄の一人がこの私の説教の邪魔をしやがった。
トイレだと? バカにしやがって。
いいだろう。だったらそれを、キサマの最期のセリフにしてやる────
「“ラッシュ”」
怒りの引き金が銃弾を叩き出した、その瞬間だった。
少年めがけて飛んだはずの弾丸が、弾道を直角に逸れて窓ガラスを撃ち破った。
「────え」
銃弾が横に逸れた瞬間を見た者は、もちろん、いない。
彼らが見ているものは、ぎざぎざになった窓ガラスと、唖然とした中年の汗、銃口から上る硝煙。
そして。
右足を繰り出してテロリストを睨む一人の青年だった。
「……それにしても」
フッ と男は右足の力を抜き、同時に目元を緩める。
「新幹線じゃあるまいし。トイレに行きたい、はないんじゃないか?」
「なっ……!」
少年は眉を吊り上げた。
恐怖によって失いかけていた“憤慨”という感覚が男の失笑で甦った。抗議しようと男の肩を掴むが、そこでテロリストの銃口が依然としてこちらを狙っているのが目に入った。
「ッ……キサマァ!! 何しやがった!!」
何しやがったとは、陳腐だな。
少年の手が男の肩から離れた。未だに拳銃を恐れる感覚は消え去っていないが、それでも、前にこの男が立つだけで自分の中に余裕ができたのが少年には分かった。
彼が何をしたか。
決まっている。弾が放たれるや否や椅子から離れ、銃弾を真横から蹴り飛ばしたのだ。
「まさかキサマ、超人……」
「いや、違うな」
口では否定しつつ、青年は拳銃を相手に拳を構える。
普通の人間にこんなことが出来るだろうか。
「あんたの言う“超人”が空飛んだり海ん中に道つくったりするやつのことなら、俺はただの絶滅寸前の一般市民に過ぎないぜ」
彼は財布を横に捨てた。
その中から免許証やクレジットカード、個別包装された錠剤などが散らばる。
飛田桐哉──その免許証の持ち主は人差し指を突き立てた。
「でもな。自分らだけで死ぬのが寂しいからって誰彼構わず道連れにするあんたらに比べりゃ、ちっとはましな生き物だと思うぜ。俺も」
「ゥ……キイィィィッ!!!」
ヒステリックな金切り声に続いて、短筒が連続三回火を噴いた。
だが三つとも、乗客の誰にも当たらなかった。銃弾が誰の目にも見えないのと同じく、青年が鉛を弾く動作は他の誰にも捉えられない。
後ろの車両でテロリストの仲間が何か叫んでいる。いきなり同志が銃を乱射したことを訝ったのか、それとも既にこちらの異変を察知したか。
「旧人類のくせに……! 旧人のくせに……ッ!!」
「旧人類に倒されるのはイヤ、か……。だったらいいよ。今だけ超人類とやらになってやる」
そう言って彼がポケットから取り出したのは、一粒の青い錠剤だった。
一見して毒にしか見えないそれを青年は口に放り込む。
両の拳を頭上に掲げた。
「これも淘汰だ。受け入れろ」
カリッ と、口の中で砕ける音がした。