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薄闇の中、使用人たちが働きだした気配がする。
目を覚ましたジェスアルドはリリスの頬にかかった髪をそっと払い、穏やかな寝顔を見つめた。
正直なところ、昨夜リリスが打ち明けてくれた〝フロイトの謎〟については、他の者から聞かされていても信じられなかっただろう。
恋に目が眩んでいると言われればそれまでだが、あの話はリリスの口から語られたものだからこそ信じられたのだ。
二人の婚姻からまだ数ヶ月。
リリスの全てを知っているとはもちろん言えないが、このようなことで嘘を吐く人間でないことだけはわかる。
そもそも理由がない。
(しかし、夢とは……)
どんなに間諜たちが探っても、見つけられないのも当然であり、万が一にも知られることになれば、多くの者たちがリリスを狙ってくるだろう。
想像しただけでジェスアルドの体はこわばり、力を抜くように深く息を吐いた。
その時ふとサウルのことを思い出した。
ひょっとして、サウルはリリスの力の秘密を知ってしまったのではないか。
そしてあの大胆な誘拐事件を起こしたとすれば――。
その可能性を、ジェスアルドは冷静に考えた。
間諜は不思議と他の間諜の動きに気付くものだ。
もしフロイトに潜んでいるフォンタエ王国の間諜が秘密を掴んだのならば、おそらくエアーラスの間諜たちも勘づくだろう。
しかし、アレッジオからの報告はまだ何もない。
だとすればトイセンでのリリスの動きから推測したとも考えられるが、それにしては用意周到すぎた。
(確か報告では、フレドリックなどと名乗っているあのクソじじいと、一度トイセンで会ったらしいが……)
リリスから聞いたわけではないが、おそらくフレドリックはリリスから目を逸らすための存在だろう。
それはただ単純にフレドリックがリリスを気に入って、身代わりを買って出ているのだ。
賢人と名高いが、偏屈だとも変人だとも有名であるグレゴリウス――フレドリックが金や権力などに動かされるとも思えない。
だが、ジェスアルドを見る時のにやにや笑いにはいつも苛立たされていた。
そのフレドリックがリリスを裏切ったとは考えにくく、しかも秘密を洩らすほど迂闊でもないはずだ。
やはり今回の誘拐事件は単純にエアーラス帝国の皇太子妃を狙ったものだろう。
(それにしても、ドレアム国王はなぜリリスを手放したんだ?)
新たな結婚を頑なに拒んでいたジェスアルドに妻を娶らせるため、父である皇帝がフロイトに突きつけた無茶な条件ではあったが、嫁いでくるのは妹王女でもよかったはずだ。
むしろ国益を考えるなら、妹王女であるべきだった。
ジェスアルドにとっては幸運としか言いようがないが、それでも謎は残る。
(リリスともっと話し合いが必要だな……)
当初、ジェスアルドはリリスを拒絶していたために、するべき話をしていない。
リリスの提案であるトイセンへの〝新婚旅行〟で二人の距離はかなり近づくことができた――というより、思いがけず心を通わすことができたが、まだまだお互いを知らなさすぎる。
それでも、リリスが冷ややかなジェスアルドの態度に挫けることなく、長い間張り巡らしていた壁を乗り越え――いや、破壊して突撃してこなければ、あり得なかった関係なのだ。
そのことに、ジェスアルドはどれだけリリスに感謝しているか。
旅の間には、一緒に食事をした時や馬車に同乗した時などに、リリスのおしゃべりを楽しんだ。
好きな食べ物、苦手な食べ物、動物が好きなこと、幼い頃に羊に追いかけられた話、ポニーに髪の毛を引っ張られた話、小鳥を捕まえようと罠を仕掛けたがいつも逃げられてしまっていた話。
しかし、やはりと言うか、肝心の同盟についての話などはしていない。
リリスがあれほどに賢い王女でなければ、それは周囲の者とすればよいだけだった。
実際、エアム王子とは密に同盟についての会談を行った。
その時に、なぜリリスが嫁いでくることになったのかと問わなかったのは、興味がなかったからだ。
あの時の自分が如何に頑固で愚かだったか。
ジェスアルドはどうにか感情を抑えると、目の前で穏やかに眠るリリスを抱き寄せようとして手を止めた。
リリスは今、夢を見ているのかもしれない。
以前、リリスがうなされていても無理に起こさないでほしいと言っていただけに、大丈夫なのだろうかと不安になったのだ。
だが一昨日、キスで起こした時のリリスは、はじめ寝ぼけてはいたが、特に異常はなかったと思う。
訊ねるべき疑問はかなり多いが、一番に確認しなければならないのは、本当に一緒に寝ていてもリリスは安全なのかということだ。
ジェスアルドが様々な思いを巡らせていると、リリスは突然目を開けた。
「すまない、起こしてしまっ……」
リリスは無言のまま、謝罪するジェスアルドへぐぐっと寄ると、その胸に顔をうずめて安心したように深く息を吐いた。
それからすぐに、また穏やかな寝息が聞こえてくる。
その間、動くことができなかったジェスアルドだったが、今度は遠慮なくリリスを抱きしめた。
廊下では衛兵が二人の部屋それぞれの前で見張りの交代を行っている気配がする。
いつもならジェスアルドが起き出す時間だった。
しかし、今日は特にリリスから離れがたく、しばらくは腕の中の温かな存在に意識を集中した。
あの誘拐事件からリリスの護衛は目に見えて増やしており、さらにはアレッジオの部下を何人かメイドや掃除婦として周囲に配置している。
これ以上増やすとかえって怪しまれることになるだろうが、それでもリリスの秘密を知った今、ジェスアルドは心配でならなかった。
いっそのこと冗談でなく、リリスを膝の上に乗せて執務をしたいくらいである。
(それはさすがに、まずいか……)
皇太子が乱心したとも思われる上に、リリスの評判も悪くなる。
それは避けるべきだが、何か対策を取らなければならないのは確かだ。
トイセンでのあの焼き物が流通するようになれば、リリスは今以上に注目を浴びるのだから。
フレドリックが身代わりになっていられるのも、それほど長くはないだろう。
各国の間諜もそこまで馬鹿ではない。
そう考えれば、ドレアム国王がリリスを嫁がせたのも納得できる気がした。
エアーラス帝国の皇太子妃ならば、フロイトの王女でいるより安全はかなり保障される。
ただし、それは外からに対してであり、内には見えない敵がいるのだ。
やはり、リリスの力については父である皇帝に報告するべきであり、心外ではあるがアレッジオにも相談するべきだろう。
もちろん、〝フロイトの謎〟を探る間諜はこのままフロイト王国に潜ませたままにしなければならないが。
とにかく早急に、リリスとフレドリックとやらも交えて話し合わなければ。
帝国にとってはリリスの力はそれこそ〝得難き宝〟であるが、ジェスアルドにとっては忌々しく思えた。
だが、その不思議な力も含めてリリスであり、リリス自身はずっとその重荷を抱えていたのだ。
(ずいぶん頑張っていたんだな……)
しかし、これからはリリス一人で抱えさせたりしない。
ジェスアルドは静かに誓い、リリスの艶やかな髪にキスをした。
リリスを守る対策を取るためにも、改めてリリスと昼食でもともにしようと考え、ジェスアルドは渋々柔らかな体からそっと離れ、ベッドから起き出したのだった。
 




