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「リリスが……フロイトの謎?」
訊き返しながらも、ジェスアルドは混乱する頭のどこかでは納得していた。
トイセンでのストーンウェアの扱いや、シヤナ作成方法、ブンミニの町での言動の数々。
あれはフレドリックの――賢人グレゴリウスの助言だと思っていたが、リリス自身の知識があってこそのものだったのだ。
しかし、それが事実ならば、謎は深まる。
「いったい、どうやって……?」
今までのフロイトの偉業を考えても、膨大な知識が必要なはずだった。
それは賢人グレゴリウスの存在をもってしても不可能なのではないかと思えるほどに。
しかも、フロイトの発展はもう十年以上前から始まっているのだ。
「正確に言えば、私だけの力ではありません。ですが、知識の源は私の……夢なのです」
「夢?」
「はい。信じられないかもしれませんが……」
リリスはきっぱり頷いたものの、やはり自信がなくなってきて言い淀んだ。
そんなリリスの手をさらに握り返し、励ますようにジェスアルドは微笑みかける。
「私はリリスに出会って、信じられないようなことばかりの毎日だ。それなのに、今さらリリスの言葉を疑ったりはしない」
「ジェド……」
すごく素敵な言葉をくれたはずなのに、何か違う気がする。
だがその違和感を脇に押しやり、リリスは素直に受け入れることにして続けた。
「私は、幼い頃から不思議な夢をたくさん見ました。その日見た夢を、毎日のように母に聞いてもらっていました。そしてある日、母が気付いたんです。私の話す夢が現実の出来事であると」
「現実の出来事……」
「幼い私が知り得るはずのない場所、時間での出来事です。それは過去であったり、未来であったり……。しかも私たちが住むこの世界だけではなく、違う世界を見ることもできるんです」
「違う世界とは?」
「えっと……一番衝撃を受けたのが、犬が立って歩き、人間と言葉を交わしていた世界の夢です。それ以外にも見たことのない動物――この世界では物語の中だけでしか存在しない生物――ドラゴンなども見ました。だからひょっとして、おとぎ話の作者は私のような夢を見たことのある人なんじゃないかと思うんです。――って、話が逸れてしまいました。すみません」
「いや……なかなか興味深い話だと思う。それで、その違う世界で見た夢の知識などで、今まで新しい製品の製法を得ていたということか?」
「は、はい。そうなんです!」
普通ならば、馬鹿にするなと怒られても、笑い飛ばされてもいいような話なのに、ジェスアルドは自身の言葉通り、きちんと受け止めてくれている。
それどころか、そこからさらに推察してくれたのだ。
それが嬉しくて、リリスの心も声も弾む。
「もちろん、フロイトの発展は私が見た夢の力だけではありません。私の話を幼い子供の戯言とは思わず、真剣に耳を傾けてくれた母や、受け入れて国のために活かそうと考えてくれた父や兄たちがいてこそですから。そして無茶な提案を試行錯誤しながら成功させてくれた料理人や農業に携わる人たちの協力があって、今のフロイトはあるのです」
「そうか……」
ジェスアルドはいつものように短く答えただけだったが、その一言には思慮深さが窺えた。
今のリリスの言葉をじっくりと考えてくれているのだろう。
どうにか一番の難局を乗り越えることができたようで、リリスはほっと胸を撫で下ろした。
かすかに俯いて黙り込んだジェスアルドを待ちながら、リリスは次にされるだろう質問に備える。
だが何かに気付いたようにはっとしたジェスアルドは、いきなり顔を上げてリリスを見据えた。
その眉間にはしわが寄っている。
「リリスの体は大丈夫なのか?」
「……はい?」
「あなたは体が弱い。それはひょっとして、その力の代償ではないのか?」
「代償?」
やはりこんな荒唐無稽な話は信じられないなどと言われるのかと思ったリリスは、予想外の質問に戸惑った。
だが、ジェスアルドはもどかしそうに続ける。
「もし、そうなのだとしたら、夢を見ないことはできないのだろうか? 夢を見ることであなたが衰弱してしまうのなら、そんな力は必要ない。もう十分だ」
「ち、違います! 大丈夫です! 本当に……」
明確な返答を得られないジェスアルドは、自ら答えを出してしまったようで、さらに言い募る。
これ以上ジェスアルドに心配をかけたくなくて、リリスは慌てて否定した。
まさかジェスアルドが信じてくれただけでなく、力の価値や利便性より何より、リリスの体調を気遣ってくれるとは思ってもいなかった。
この怪しげな話をジェスアルドが信用してくれたとしても、次には一番の発明品は何かとか、夢を見た後にどのように対応するのかなど、もっと実務的な質問をされるだろうと答えを用意していたのだ。
そのため、病弱だと嘘を吐いていることについては後回しにしてしまった。
それなのに、リリスの告白でジェスアルドが一番に導き出し、質問してきたのはリリスの体調のこと。
「わ、私……そのことについても謝罪しなければ……」
「謝罪など必要ない。本当にリリスはその夢を見ても、体に支障はないんだな?」
「支障はないんです。ただ、夢を――私は〝現実夢〟と呼んでいますが、現実夢を見ると、さらに多くの睡眠が必要なんです。一日の半分以上を寝て過ごすこともあるので、あまり部屋から出ることもなく、病弱だということになりました。〝フロイトの謎〟を探る人たちに怪しまれないためにも、否定するのは賢明ではないだろうと。だから本当はいたって健康なんです。ずっと、そのことでジェドには心配をかけてしまって……嘘を吐いて、申し訳ありませんでした」
「健康、なのか……」
ほっとしたように呟いたジェスアルドは、不安そうに見つめるリリスに微笑んで首を軽く振った。
「何度も言うが、謝る必要などないんだ。リリスが健康だというのは、私にとってこれ以上ないほど朗報なのだから。本当に大丈夫なんだな?」
「……はい」
肯定しながらも、リリスの緑色の瞳から再び涙がこぼれ落ちた。
それを目にしてジェスアルドは動揺した。
「リリス! どこか痛むのか!? それとも私が無神経な発言をしてしまったのか!? まさか、この秘密を打ち明けると何かの呪いでも発動してしまうのか!?」
今までに見たことがないほど、ジェスアルドは慌てている。
支離滅裂なことを口にしておろおろするジェスアルドを見ていると、リリスはおかしくなってふふっと小さく笑った。
この重大な告白が、リリスにとって今までで一番の幸せを感じる時間になるとは思ってもいなかった。
「……リリス?」
泣いたと思ったら笑い始めたリリスの様子を窺うように、ジェスアルドはそっと問いかけた。
その声は笑われていることに腹を立てた調子は一切なく、ただ心配が滲んでいる。
そんなジェスアルドに、リリスは勢いよく抱きついた。
「ジェドは呪いは信じていないって言ったじゃないですか。私も信じていません」
「しかし、リリスの夢にしてもそうだが、世の中には不思議なことがいくらでもあるだろう?」
「そうですね。でも不思議なことと言うか……奇跡は起こるって信じています。そして今、本当に奇跡が起こったことが、私は嬉しいんです」
「奇跡? 何が起きたんだ?」
リリスを抱きとめるように背中に回したジェスアルドの逞しい腕や、耳元で聞こえる優しく低い声。
その全てがリリスにとっては奇跡だった。
だが、そのことを言ってもきっとジェスアルドは納得しないだろう。
リリスはほんの少し体を離し、紅に輝く瞳をまっすぐに見つめた。
「ジェドが、本当に私を好きでいてくれること。――それが奇跡なんです」
「信じていなかったのか?」
不服そうなジェスアルドの頬をリリスはそっと両手ではさみ、微笑んだ。
その笑みは今までになく輝いている。
「いいえ。ジェドの言葉を私は全て信じています。もちろん納得できないこともあれば、許せないことだってありましたけど」
初めて顔を合わせた当初は、かなりひどいことも言われた。
しかし、リリスはその言葉にしっかり反論し、行動にて反意を表していた。
さらには自分を卑下するようなジェスアルドの言葉は許せなかったが、今はもうほとんど口にしなくなっている。
「私の家族は私を愛してくれています。侍女のテーナやレセも。それに、フロイト王城の人たちだって私に好意を寄せ、心から仕えてくれていました。でも私はとても我が儘なんです」
「我が儘? リリスが?」
リリスはかなり変わっているが、我が儘だと思ったことは一度もない。
むしろ並ぶ者なきほどの身分を得ていながら、驚くほど謙虚だ。
民に対しても献身的であり、慈愛に満ちている。
これこそがエアム王子が言っていた〝得難き宝〟なのだと、最近のジェスアルドは納得していた。
「私はみんなに愛されています。それでもまだ、私だけの特別がほしかったんです」
「リリスだけの特別……?」
「はい。私だけを特別に想い、大切にしてくれる人です。そんな人を私はやっと手に入れたと、自惚れていいですか?」
穏やかな問いかけだったが、ジェスアルドを見つめるリリスは真剣だった。
そして緊張もしている。
それは頬に当てられたリリスの小さく震える手からも伝わってきていた。
ジェスアルドはその小さな手に手を重ね、励ますように優しく微笑んだ。
「リリスのこの小さな体では足りないな」
「え?」
成人女性としては、確かにリリスの体は小柄だが、脈略が掴めず戸惑うリリスの右手首に、ジェスアルドは首を傾げて口づけた。
それから驚くリリスに視線を戻すと、今度は悪戯っぽく笑う。
「どうせなら、ホッター山脈ほどに自惚れていい。それでもきっと、私の愛は収まりきらない」
「あ、愛?」
「私の胸の中に、頭の中に、体中に高揚する気持ちがずっとめぐっている。どうすればいいのかわからなくて、困っているんだ。走り出せばいいのか、冷たい川に飛び込めばいいのか……。剣の鍛錬で騎士たちを相手にしてもすっきりしない。だが、リリスのことを考えれば心が温かくなり、こうしてリリスに触れていればほっとする。それなのに、もっとと欲張る自分がいる。朝、リリスの傍を離れるのがつらい。夜、リリスに早く会うために必死に仕事を片づけている。新たな仕事を持ってくるフリオに殺意が湧く。好きだという言葉では足りない。これはきっと、愛だろう?」
「わっ、わわわ、私も! ジェドのことを考えるだけで悶々としてしまって、枕を叩いても収まらなくて、尖塔のてっぺんから叫びだしたくなったり、我慢できないんです。でもこうしてジェドに触れていると心地よくて……それなのに、胸はドキドキして頭は熱があるみたいにぼんやりするんです。これはもう重症だと思います。ジェドに恋しています。だけどそれ以上に愛なんです。ジェドが好きすぎて、愛しすぎて、耐えられません」
そう言うと、リリスはぐっとジェスアルドを引き寄せてキスをした。
しかしすぐに形勢は逆転される。
やがてジェスアルドが唇を離した時、リリスはぼうっとしてしまっていた。
「リリス」
「……はい?」
「今夜こうして、リリスが秘密を打ち明けてくれたことが、私は嬉しい。正直なところ、こんな単純な言葉では表せないほどだ。今まで秘密にしていたことも当然であって、私はそのことについて腹を立てることもない。むしろ信頼してくれたことを光栄に思う。それにリリスが健康だと知って、どれだけ安堵したか……本当によかった」
「ジェド……」
「ただ、やはり無理はしないでほしい。今まで通り、リリスのペースで過ごせばいいんだ」
「……ありがとうございます」
「いや、……それで、その〝現実夢〟についてはもっと詳しく知りたいとは思うが……他に何か、私が急ぎ知っておかなければならないことはあるのだろうか?」
「え? っと……特に急いでってことは……ない、です」
ジェスアルドの言葉にリリスは胸が詰まって苦しいほどだった。
理解してくれるだろうとは予想していたが、こんなにも優しく受け入れてくれるとは思ってもいなかったのだ。
だが続いた質問に、リリスは一瞬迷った。
それでも今、この心地よい時間を壊したくなくて、否定したリリスはぎゅっとジェスアルドに抱きついた。
すると、ジェスアルドはリリスをいきなり抱き上げる。
「ジェド!?」
「きっと私は頭がどうかしている」
「はい?」
「各国が血眼になって知りたがっている〝フロイトの謎〟を、こうして手にしたというのに、今の私にとってはそれは重要ではない。私はリリスが――リリス自身が大切なんだ。もう二度と離したくないほどに」
「そ、それなら……明日からは私、ジェドがお仕事している間も膝の上に座っていましょうか?」
「それもいいな」
「ええ!?」
困ったように笑いながら、ジェスアルドはゆっくりとリリスの寝室へと向かっていく。
リリスは嬉しいのに、どう答えればいいのかわからず馬鹿なことを口走ってしまった。
それなのに、ジェスアルドは生真面目に頷いた。
ずっと悩んでいた何もかもが馬鹿らしくなるほど、今夜のジェスアルドの反応はリリスの予想を超えている。
それは寝室に入ってからも続き、眠りに落ちる間際に見たジェスアルドの表情に、リリスは泣きたくなったのだった。




