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ジェスアルドが居間に入ってすぐ、寝室に人の気配を感じた。
だが、もうそれがリリスだとわかるほどには親しくなっている。
かすかに戸惑いながらも、急ぎやるべきことを終わらせている自分に気付いて、ジェスアルドは思わず笑みを浮かべていた。
ジェスアルドはあの日、馬車からの悲痛なリリスの叫びを聞いて、浮かれていた自分がどれほどに馬鹿だったのかを思い知らされた。
ここ最近のリリスの態度ですっかり忘れていたのだ。――これが政略結婚だったことを。
初めにリリスに言われたではないか。『愛情はいらない。ただ子供が欲しい』と。
馬を走らせながら思わず自嘲したジェスアルドは、頭の中に入っているフロイト王国の人物名鑑をめくった。
するとすぐに出てきたアルノー・ボットという男の名前。
フロイト王国宰相の嫡子であり、今はダリア王女の婚約者。
しかし、皇帝である父が同盟に際し無茶な条件――王女のどちらかを皇太子の花嫁にと望むまでは公にされていなかった婚約だ。
さらには、アルノーは本来第一王女であるアマリリス――リリスの婚約者候補だったと聞いた。
そこでジェスアルドの頭に疑問が浮かんだ。
リリスがそのアルノーを好きだったのなら、なぜ早々に婚約を――結婚をしなかったのだろうか。
正式にリリスが嫁いでくることが決まってから、調べさせたところによると、アルノーとの婚約話は数年前から上っていたらしい。
病弱なリリスが国外に嫁してまで、ダリア王女に急ごしらえの婚約を用意したのは、何か理由があるのではないかと、かなり探らせたものだった。
結局、明確な理由も突き止められないまま、リリスと婚姻を結ぶことになったのだが。
再びあの時の疑念が湧いてきて、気がつけば近づいてこようとするリリスを避けてしまっていた。
そのたびに、リリスは一瞬悲しげな表情になり、すぐに皇太子妃としての顔を取り戻す。
そんなリリスを目にして、胸が締め付けられないわけがなかった。
また夜になってもリリスに――フロイト王国に対しての疑惑は消えることなく、それ以上にアルノーという会ったこともない男に対して腹を立てていた。
リリスはアルノーという男が好きだったのに、何があったのかそいつは妹姫と婚約したのだ。
それがどれほどにつらいことか……そこまで考えて、リリスのあの悲しげな表情が頭に浮かんだ。
今、リリスを悲しませているのは、アルノーという男ではなく、自分なのだ。
そして二日目の朝になり、その日一日はリリスを器用に避けながら観察してしまっていた。
当然、それがどれほどに卑怯で男らしくないことかはわかっていたが、自分を律することができなかった。
リリスは宿から馬車に乗り込む前、休憩のために馬車から降りるたびに、ジェスアルドを――自分を捜している。
そのことに気付いた時、再びジェスアルドの心は浮上した。
確かにリリスは、アルノーという男を好きなのかもしれない。
だが現実に夫となったのはジェスアルドで、リリスは少なからず自分を想ってくれているはずだ。
今はそれでいいのではないか。
これからゆっくりと、リリスの心からアルノーという男を取り除いて、自分をその場に納めてしまえばいいのだから。
そう結論を出したジェスアルドは、久々に心が晴れていた。
さっそく今夜、リリスに求愛しよう。
もちろん一晩で上手くいくわけがない。
しかし、これから続けていけば、いつかは叶うかもしれない。
これまでの人生で、ここまで前向きになったことはジェスアルドにはなかった。
いつもすぐに諦めていたのだ。それが人の心に関することならば特に。
だから、リリスが寝室にやって来たことが、どれほどに嬉しかったか。
逸る気持ちを抑えてデニスに手伝わせて寝支度を整え終えた時、リリスが寝室から出ていったことに気付いた。
一瞬混乱したジェスアルドだったが、またすぐに戻ってくるだろうと、寝室に入ってしばらく待った。
それなのにリリスは戻ってこない。
ひょっとして気持ちを変えたのだろうかと諦めかけたジェスアルドだったが、昼間の決意を思い出し、自分から動くことにした。
もしリリスがもう眠ってしまっていたら、その寝顔を見るだけでいい。
できれば、少しだけでも話をしたい。
許してくれるなら、一緒に朝まで眠りたい。
リリスの寝室へのドアを開けるのに、今までにも何度もためらいはしたが、ここまで緊張したのは初めてだった。
そのせいでノックをするのも忘れ、知らず忍び足で音も立てずにドアを開けると、リリスはカーテンを開け、窓の外を見ていた。
月もない暗い夜だったが、だからこそ星は綺麗に瞬いている。
薄手の白いふわりとした寝衣をまとっているリリスは、とても儚げで今にも消えてしまいそうに見えた。
「――リリス」
恐る恐る声をかけると、リリスはびくりとしてぱっと振り向いた。
その目は驚きに見開かれている。
「ジェド……?」
自分の名を呼ぶリリスの声には、どこか怯えた響きがあり、この訪問が間違いだったとジェスアルドが悟るには十分だった。
明日になったら、改めて話をしよう。
馬車に一緒に乗るのもいいかもしれない。
そう考えながら、ジェスアルドはゆっくりと口を開いた。
「リリス、驚かせてしまってすまない。邪魔はしないから、どうかゆっくり休ん――」
「ジェドっ!」
苦笑を浮かべてお休みの挨拶を口にしかけたジェスアルドに、リリスは飛びついた。
何が何だかわからないうちに、リリスはぎゅっとジェスアルドを締め付ける。
「ジェド! ジェド! 本物です! 本物ですぅぅ」
「リ、リリス……?」
リリスの奇怪な行動には慣れたつもりだったが、先ほどとのギャップがあまりにひどすぎる。
戸惑うジェスアルドにかまわず、リリスは小さな体を離そうとしない。
ただジェスアルドにとってはもうどうでもよかった。
少々強引にリリスを抱き上げると、そのままベッドへと腰を下ろし、自分の膝に座らせた。
そして今度はジェスアルドがリリスを抱きしめる。
「……ジェド?」
「好きだ」
「へ?」
「私はリリスが好きだ」
失敗だった。
本当はもっと時間をかけて、リリスの心を少しずつ自分に向けてから言うつもりだったのに、感情が昂って止めることなどできなかったのだ。
言ってしまったのだから、はっきりしてしまえばいいと、半ばやけくそでもう一度きっぱりと自分の想いを口にした。
しかし、腕の中のリリスからは何の反応もない。
やはり迷惑だったのだろうかと、恐る恐る腕を緩めてリリスの顔を覗き見る。
「リリス?」
「……ううぇ」
不思議な声を発するのは自分がきつく抱きしめすぎたからだろうかと、急ぎ離れようとしたが、リリスはジェスアルドに回した腕の力を強めた。
そのまま大きな肩に顔をうずめてしまう。
「リリス、すまない。いきなりこんなことを言って混乱させるつもりじゃなかったんだ」
「にゃんべあみゃ…んで…しゅか。…ひょん…すか」
「……え?」
リリスの声はくぐもっていて、ジェスアルドには上手く聞き取れなかった。
それどころか、華奢な肩が小さく震えていて、呼吸が頼りないのは泣いているらしい。
「リリス、すまない。私が――」
「だきゃら! ぬぁ、なんで、謝るんですか! う、嘘なんで、すか……」
どうしたらいいのかわからず、ただ謝るしかないジェスアルドを、リリスは勢いよく顔を上げて遮った。
ぎっと睨みつけるその顔は涙に濡れている。――というか、ぐちゃぐちゃである。
ただジェスアルドにはそんなひどい姿のリリスは目に入らず、涙が溢れて輝きを増した緑色の瞳だけが映った。
この涙の原因は自分なのだと罪悪感が襲う。
だが、しゃくりあげながらリリスが発した言葉が頭にようやく染みたジェスアルドは、慌てて首を振った。
「ち、違う! 嘘などではない! 私はっ、――私はリリスが好きだ」
口から飛び出したジェスアルドの言葉に、リリスの緑色の瞳からまた大量の涙が溢れる。
そんなリリスの涙に、ジェスアルドはうろたえるばかりでなすすべがなかった。
笑っているか、怒っているかの印象しかないリリスの涙をどうすれば止められるのかがわからない。
「ううぇ……うえっ、う、うれ、うれじい、でうぅ……」
「……え?」
「うえ、うれじい……わだ、わだじも、ずぎな、でずぅぅ」
「……リリス、あなたがなぜ泣いているのか、何を言っているのかが私にはわからない。どうすればいい? どうすればあなたから悲しみを取り除くことができる?」
「ぢ、ぢがい、ます。わだじ、嬉じいんですぅ」
「嬉しい?」
「……あい」
リリスは何度も深呼吸をして呼吸を整え、涙をベッドカバーで拭いた。
それからジェスアルドの寝衣まで濡らしていることに気付いて、そのままベッドカバーで拭こうとする。
その手を掴んでジェスアルドは困ったように笑った。
「私は大丈夫だ。リリスが泣き止んでくれたのなら、それでいい。あなたが悲しんでなければ、それでいいんだ」
「私は……悲しんでなんて、いません。ジェドの言葉が…嬉しくて……嬉しすぎて泣いてしまったんです。ごめんなさい」
「謝ることなんてない。いきなり私の気持ちを押しつけて、驚かせたのは私なんだ。だからリリスが……嬉しいと感じてくれるなら、私も嬉しい」
そう言って、ジェスアルドは再びリリスを抱きしめた。
リリスは温かな胸に包まれて、濡れてしまった肩に頭をもたせかける。
「ジェドは馬鹿です」
「……え?」
ほんのりと優しい時間が流れる中で、突然のリリスの言葉に、ジェスアルドは何度目かわからない疑問の声を返した。
するとリリスは頭を起こし、ジェスアルドを睨みつける。
「ジェドは馬鹿です。どうして私が悲しむと思うんですか。どうして私が喜ばないと思うんですか。私は、すごく、すごく、すごく、ジェドが好きなのに」
「……リリスが?」
「だから、どうしてそこで驚くんですか! ジェドを好きじゃなかったら、私はただの変態じゃないですか!」
「リリスが変態?」
「私は変態じゃないです! たぶん。そ、そりゃ、最初は少々強引だったと思いますし、あの時はジェドの気持ちとか自分の気持ちとかよりも、何て言うか……義務とかプライドに縛られていましたけど、でも……好きでもない相手を何度も押し倒したりなんてしません!」
好きだと自覚してしまえば、いつから好きだったのかわからないくらい前から好きだったのだと、リリスは気付いた。
一応リリスにも、普通の姫より少し変わっているという自覚はあったが、いくらなんでも好きでもない相手の寝室に強引に押しかけたりしない。
コリーナ妃のことをこんなにも気にしたりなんてしない。
そこまで考えて、リリスははっとした。
「ジェドは……本当に、私が好きなんですか?」
「なぜ疑う? 私も、好きでもない相手に何度も押し倒されたり、おとなしく服を脱がされたりなどはしない」
「あ、あれは……」
コーナツの街での出発の朝のことを言っているのだと気付いて、リリスの顔は真っ赤になった。
よく寝る自分は、寝起きはいいほうだと思っていたが、あれについては寝ぼけていたと思うしかない。そういうことにしておいてほしい。
自分の涙で少しひんやりとした逞しい肩に顔を再びうずめたリリスに、ジェスアルドは顔を寄せた。
「リリス、好きだ」
「ひゃっ!?」
耳元で囁かれた甘い言葉にリリスは驚いて小さく飛び跳ねた。
ジェスアルドに抱かれていなければ後ろにひっくり返っていただろう。
そんなリリスをジェスアルドはさらにぐっと抱き寄せる。
星明りしかない薄暗い部屋の中で、リリスにはジェスアルドの紅の瞳だけが輝いているように見えた。
「もう一度言ってほしい」
「え?」
「リリスの気持ちをもう一度聞かせてくれ」
「あ、あの……私は、ジェドが……」
「ん?」
「もう! 私はジェドが大好きなんです!」
今までにないほど甘く優しいジェスアルドに耐えられず、恥ずかしくなったリリスは、なぜか怒ってジェスアルドを突き放すと、急いでベッドに潜り込んだ。
濡れてしまったベッドカバーは床にくしゃくしゃになって落ちている。
ジェスアルドは少々驚いたものの、ベッドの中の真ん丸な塊を優しく見つめて微笑み、それから濡れてしまった寝衣の上着を脱ぎ捨てると、上掛けを少々強引に引っ張り上げて、その塊を抱きしめた。
それからの時間は、本当に本当に蕩けるように甘いものになったのだった。




