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 目覚めたリリスは、隣にジェスアルドがいることに喜び微笑んだ。

 そして、次第に状況を思い出すと、ジェスアルドがシャツとズボンを身に着けたままであることに気付いた。


「……おはよう、リリス」

「おはようございます。あの、昨夜は強引に引き止めて、すみませんでした。服を着たままではよく眠れなかったのではないですか?」

「いや……大丈夫だ」

「ですが、服を脱いでしまえばよかったのに……」

「……本当に大丈夫だ」


 服はジェスアルドにとって理性の砦であり、己でその砦を越えるわけにはいかなかった。

 リリスは心配げに眉を寄せていたが、いきなりぱっと顔を輝かせた。

 これはもう嫌な予感しかしない。

 まだリリスと過ごした日々は短いが、色々と振り回されてきたジェスアルドは悟った。


「リリス——」

「では、今から脱ぎましょう!」

「は?」

「朝もまだ早い時間ですし、もう少しだけ眠れますよ。ですから、ね?」


 ね? と言われて素直に従えるわけがない。

 確かに今は使用人たちがようやく起き出すかという頃だが、それでもジェスアルドは抵抗しようとした。——無駄なのに。


「いや、リリス。本当に私は大丈夫だ。戦場では服を着たまま眠るのは当たり前だし、私は慣れているから——」

「ですが、ここは戦場ではありません。気持ちのいいベッドの上です。ほらほら、あまり大きな声を出してはみんなに迷惑です。テーナも来ちゃいますから、さあ」


 もちろんジェスアルドにとって、リリスから逃れることは簡単である。

 問題は、リリスにすっかり弱くなっていることだった。

 まさか為すすべもなく、小柄な女性に馬乗りになられて服を脱がされることになると、数ヶ月前に誰かに言われても鼻で笑っただろう。——いや、昨日でも。


 リリスはシャツのボタンを全部外すと、次にズボンへと手をかけ、それから止まった。

 俯いていたが、その頬は赤らんでおり、ためらいが見てとれる。

 それがまずかった。

 ジェスアルドの理性の砦はガラガラと音を立てて崩れ去り、結局はギリギリまで寝室で過ごすことになったのだった。



   * * *



「おや、殿下。ずいぶんお早いですね」

「嫌みはいい。出発の準備は?」

「嫌みではなく、羨望ですよ。私だって結婚したいんです。可愛いお嫁さんがほしいんです」


 思わぬデニスの言葉に内心で驚きながら、そういえばあまり休暇をやっていなかったなと気付いた。

 皇宮ではジェスアルド近辺に女性は近づかないので、必然的に男ばかりのむさい職場である。

 可愛いお嫁さんとやらは別として、デニスやフリオにもっと休暇を与えなければと思い、そこでまたリリスにかなり影響されていることに、ジェスアルドは一人小さく笑った。

 他の者が見たならば、恐れ戦いたであろうその笑みも、デニスにはちゃんとした笑顔に見える。


「思い出し笑いですか? ああ、羨ましい限りです」


 デニスの文句を聞き流しながら身支度を整え、ジェスアルドはリリスの準備が整うまでの間、届けられていた書類に集中した。

 そしてリリスの準備もできたとの知らせから、ジェスアルドは宿の前に馬車を止め、細かい点検をしながらわずかばかりの時間を待った。

 本来なら馬に乗って移動するところだが、今回は馬車に同乗する予定である。


 やがてリリスが妃殿下らしい笑みを浮かべて、宿屋からゆっくりと出てきたのだが、ジェスアルドはその姿を目にして唇を引き結んだ。

 でないと笑ってしまいそうだったのだ。


 しかし、見送りに集まっていた街の人たちはその表情を見逃さず、戦慄した。

 妃殿下が待たせたために、殿下が怒っていると勘違いし、妃殿下の身を心配して成り行きを見守る。

 そもそも街の人たちは、妃殿下が攫われたことにも気づかずに犯人をこの街に泊めたことに、何らかのお咎めがあると思っていた。

 サウルを泊めた宿屋の主人など今は寝こんでいる。

 そのような緊迫した中で、リリスは馬車の前に立つジェスアルドに気付くと、目に見えて顔を輝かせた。


「殿下、お待たせして申し訳ございません」

「いや、待ってはいない」


 そのやり取りに皆は自分の耳を疑った。

 少しの間とはいえ、確実に皇太子は妃殿下を待っていたのだ。

 皇太子妃はまるで駆けるようにドレスのスカートをつまみ、皇太子に向かっていく。

 さらには、その姿を皇太子は口角を上げて見ていた。


(あれ? ひょっとして、殿下は……笑っていらっしゃる?)


 街の誰もが、さらには護衛騎士までもがジェスアルドの笑顔かもしれない表情に驚いている間に、リリスはジェスアルドの隣に並んだ。

 そして、街の人たちへと向き直る。


「皆さん、今回はお騒がせしました。ですが、今はすっかり元気になりました。ありがとう。それでは――」


 笑顔を浮かべた妃殿下の言葉に、街の人たちは唖然とした。

 なぜか咎める言葉ではなく、お礼を言われているのだ。

 だが、ゆっくりと街の人たちを見回していた妃殿下の視線は、ある一点で止まり、言葉まで途切れた。


「リリス?」


 驚く皇太子の腕を引いて、急に駆けだした皇太子妃の向かう先を見て、皆は顔をしかめた。

 そこに浮浪児がいる。

 何人かの子供たちは慌てて逃げ出したが、一人の少年は気丈にもその場で唇を噛みしめて立ったまま。

 すぐ側に立っていた大人が、街の恥とばかりに慌てて浮浪児を隠そうとしたが間に合わなかった。


「あなた、ハンスに協力してくれた子よね?」

「あ、ああ……」

「ありがとう! あなたたちの存在がどれだけ心強かったか! こうして無事に殿下と再会できたのも、あなたたちのお陰よ。本当にありがとう」

「え? ……いや、俺、は……」


 リリスは屈んでくすんだ赤毛の浮浪児と目線を合わせ、その手を握ってぶんぶんと振った。

 少々勢いがよすぎて、浮浪児の細い体は揺れている。


「何かお礼をしたいのだけれど……」

「い、いやっ、俺、ぼ、僕、僕たちはもう、もらったから!」

「ハンスから?」

「あ、ああ。あの、でで、殿下からも……」


 そう言って、赤毛の浮浪児はリリスの手を離し、慌ててポケットを探った。

 そして握り締めた手をポケットから出し、開いて見せる。

 汚れて傷だらけの手には、陽を浴びて光を反射した真珠があった。


「四つ辻に落ちていた残りの真珠も、全て渡したんだ」

「殿下?」

「それで足りたか? もっと褒美が欲しいなら――」

「と、とんでもない、ません! 俺、僕たちには十分だす!」


 ただでさえ動揺していた浮浪児が、がたがた震えだしたのは、どうやらリリスの背後に立つジェスアルドの目を見てしまったためらしい。

 言葉遣いも懸命に頑張っているようだが、よけい怪しくなっている。

 さらには、その様子を見守っていた街の人たちは、わけのわからない状況に恐慌をきたしていた。


 以前、街に泊まった貴族は、浮浪児の姿を目にしてひどく腹を立てたのだ。

 あのような薄汚い連中を放置しているなど、街の責任だと街長を怒鳴りつけ、許しを乞うのに苦労した。

 それ以来、街は浮浪児駆除に力を注いだが、どこからともなくすぐに湧いてくる。

 浮浪児の存在は、街の頭痛の種だった。

 それが今、皇太子妃はその浮浪児の手を握り、微笑みかけ、お礼まで口にしているのだ。


「ねえ、あなたのお名前は?」

「……ジャン」

「ジャンだけ?」

「それは……いみ――あ、赤毛のジャン」

「赤毛のジャンね。素敵な名前だわ。だって、私の旦那様と――殿下と同じ赤い髪の毛だものね。すごくかっこいいわ」


 ジャンは大人たちから赤い髪のせいで呼ばれる〝忌み子のジャン〟と言おうとして、言い直した。

 最近、仲間たちから呼ばれる名前を告げると、皇太子妃は嬉しそうに微笑んで褒めてくれたが、誰かが「ひっ!」と息を呑んだ。

 皇太子妃が、あの〝紅の死神〟と呼ばれる皇太子と浮浪児を同じだと言ったせいだろう。

 実際には、ジャンの髪色は赤褐色なのだが。

 しかし、皇太子はただ二人を見下ろしているだけで何も言わない。


「かっこ、いい?」

「ええ、そうよ。あなたの髪を見て、殿下のことを想い、勇気をもらえたの。本当にありがとう。落としてしまった真珠でお礼ができたとは思えないけれど、今は何も思いつかないの。だから、もし困ったことがあれば、〝帝都クレリナ 皇宮 皇太子妃 アマリリス・エアーラス〟宛てに手紙を書いてくれる? できる限りのことをして、私はあなたを――あなたたちを助けるわ」

「お、僕は、字が書けない……」

「あら……。では、代筆屋さんに頼めばいいわ。この街にも配達所があるでしょう? お金のことは心配しないで。ちゃんと手を打っておくから」

「でも……」

「ね?」

「……はい」


 ジェスアルドはリリスの驚くべき言動にただ見守っていることしかできなかったが、満面の笑みで「ね?」と言われて逆らえないことだけはわかった。

 浮浪児は――赤毛のジャンとやらは、怯えながらも頷いている。

 だがその怯えはリリスの背後に立つ自分に対してであり、リリスに対してはほんのり頬を染めて答えており、喜んでいるらしい。


 本来なら、ジェスアルドも何か声をかけて安心させてやるべきなのだろうが、リリスが手を握り、微笑みかけているのが、どうにも気に入らないのだ。

 子供相手に余裕のない自分が情けないが、誰にでも明るく優しいリリスを見ていると、自分に対しても同情ではないのかと思えてくる。

 ジェスアルドは、そんな狭量な自分を押し込めるように息を吐き出した。


「リリス、もう行かなければ」

「はい、そうですね。お待たせしてすみませんでした」

「いや、それはいい」


 立ち上がり振り返ったリリスは申し訳なさそうに謝罪した。

 そんな顔をさせたかったわけではなく、ジェスアルドはどうにか微笑んだ。

 するとリリスはまたぱっと顔を輝かせると、ジェスアルドの隣に立って、その腕に遠慮がちに手を添えた。


「ジャン、本当にありがとう。他のみんなにも、私からのお礼を伝えてくれる?」

「あ、ああ……」

「それじゃあ、また会えることを願っているわ。元気でね」


 リリスはジャンに手を振ると、ジェスアルドに連れられて馬車まで戻った。

 だが乗り込む前に一度、呆然とした様子の街の人たちに向き直る。


「皆さんも、どうかお元気で。さようなら」


 にっこり微笑んで手を振り、皇太子に支えられて馬車に乗り込む皇太子妃を、街の人たちはまだ呆然として見ていた。

 馬車が走りだした音でようやく我に返った人々は、少々遅くはあったが、慌てて頭を下げる。

 それからわっと喜びと安堵に歓声が沸き、皆は馬車が見えなくなるまで大きく手を振って見送ったのだった。




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