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「……テーナ?」
「はい、リリス様。いかがなされました?」
「体中が……痛いわ」
「それはそうでございましょう。リリス様は一日以上も眠り続けていらっしゃったのですから」
「ええ? ——っ」
テーナの言葉を聞いて、リリスは飛び起きようとした。——が、できない。
背中や腰がどうにも痛い。しかも手首も痛い。
「ほらほら、ご無理をなさらないでくださいませ」
言いながら、テーナはリリスの頭を上げて枕を足した。
そして、水を口へと運ぶ。
素直に水を飲んだリリスは、そこでようやく大切なことを思い出した。
「レセは!? 騎士たちは無事なの!?」
「——はい。幸い、フレドリック様の処置が早く、騎士たちの命に別状はないと。レセは全身の打ち身で痛みに文句を言いながらも、トイセンの街でリリス様のお帰りをお待ちしております」
「よかった……。って、あれ? ここは、どこなの?」
ほっと息を吐いたリリスは、今さらながら、自分が寝ているベッドから部屋へと視線をさまよわせた。
テーナは普段と変わらない様子のリリスに安堵しながら答える。
「ここはコーナツの街の宿屋でございます。話に聞きましたところ、リリス様が無理に連れられてお泊りになった宿屋とは別の場所だそうですから、ご安心ください」
「そっか……。そういえば私、夢を見たわ」
「夢? 現実夢でございますか?」
「ううん。あのね、攫われた私を、殿下が助けに駆けつけてくださったの! もう、これは乙女の夢そのものよね!」
「リリス様……それは、夢ではなく現実でございます。そして今も、殿下はリリス様を心配なさって、別のお部屋で執務をなさりながら、リリス様がお目覚めになるのをお待ちなっていらっしゃいます」
「それを早く言ってよ!」
今度こそ勢いよく体を起こしたリリスの肩を、テーナがそっと押さえる。
訝しげにリリスが見ると、テーナはため息を吐いた。
「リリス様、正直に申しまして、今のリリス様は残念なお姿です。御髪はくしゃくしゃで、夜衣もしわだらけ、そして顔もまだ洗っていらっしゃいません。そのお姿で、久しぶりに殿下と感動の対面をなさるのですか?」
「う……わ、わかっているわよ」
強がって答えながらも、リリスは見るからに気落ちした。
テーナは立ち上がると、励ますように笑いかける。
「殿下にはリリス様がお目覚めになったことをお伝えいたしますので、きっとすぐにお会いしたいとお申し出があるのではないでしょうか? ですから、私はお支度の準備を急ぎしてまいります。軽い食事も用意させますが、ひとまずはフレドリック様に診ていただきましょう」
「うん、……ごめんね、テーナ。ありがとう」
今回のことでかなり心配をかけただろうに、テーナはいつも通りに振る舞ってくれている。
それが嬉しくて申し訳なくて、リリスは謝罪とお礼を口にした。
あまり改めても、テーナはかえって気を使うだろうと簡単に。
テーナはそんなリリスに優しい笑みを向けたが何も言わず、ただ小さく首を振ってから出ていった。
それからすばやくリリスの支度は整えられ、ミルク粥が運ばれてくる頃には、フレドリックがやって来て枕元に座った。
そして、しげしげとリリスの顔を見つめる。
「ふむ。顔色は申し分ありませんな。お怪我も手首以外には見当たりませんが、何かおかしなことを感じたりはしておりませんかな? たとえばお腹が痛むとか、背中に痛みが走るなど?」
「いいえ、大丈夫よ。自分でもびっくりするくらい元気なの。起きたばかりの時は体がだるくて痛かったけど、支度を整えてもらっている間に少し体を動かしたのがよかったみたい」
「そうですか。それは安心いたしました。特に変なものを飲まされたりもしておりませんな?」
「ええ。普通の食事だけだったと思うわ。ほら、私ってばおとなしくて抵抗するほどの気力も体力もないから。向こうも油断していたみたい」
「ほうほう。それは見事に騙したものですな」
ようやく安心したのか、フレドリックはいつもの意地悪な笑みを浮かべた。
その表情を目にして、リリスもやっと戻ってこれたのだとの実感が湧く。
それまでは、まだどこまでが夢で現実なのか、掴み切れていなかったのだ。
同時に、これが現実ならジェスアルドが近くにいるのだと、リリスはそわそわし始めた。
「さて、では年寄りがいつまでも居座っていては、お若い二人に申し訳ないですからな。これで失礼いたしますぞ」
「え?」
フレドリックはわざとらしく「どっこらしょ」と声を出して立ち上がると、空になった食器まで持ってリリスの寝室から出ていった。
すると少し低い話し声がしてから、ジェスアルドが入ってくる。
その姿が信じられなくて、リリスは目を見開いた。
「その……怪我は、手首以外にないと聞いたが、本当に大丈夫なのか? まだ寝ていたほうがいいのでは——っ!?」
ジェスアルドの心配に滲んだ声は途切れてしまった。
ベッドで体を起こしていたリリスが上掛けをはねのけ、いきなり飛びついたのだ。
あまりの勢いに、さすがのジェスアルドも一歩後ろへよろめいたほどだった。
「……リリス?」
しがみついたまま、ぴくりとも動かなくなってしまったリリスに、ジェスアルドは戸惑いながらもそっと声をかけた。
今までリリスに驚かされたことは数あれど、これほどに心配になったことはない。
リリスの顔を覗き込もうとした時、リリスはさらにぎゅっと抱きついてようやく口を開いた。
「会いたかったんです! すごくすごく、会いたかったんです! だから……夢かと思って……」
「リリス……」
ジェスアルドの胸にうずめたまま訴えるリリスの声はくぐもっている。
しかし、その気持ちはしっかりと伝わり、ジェスアルドもまたリリスを強く抱きしめた。
「私も——」
「むふっ、ジェドの匂いがします! 本物です! やっぱり夢じゃないみたいです!」
「……そうだな」
言いかけたジェスアルドの言葉は、リリスに遮られてしまった。
さらにリリスはジェスアルドの背に回した手をぺたぺたと動かし、くんくんと匂いまでかいでいる。
「ジェドの背中、ジェドの腕、ジェドの匂い……ふっふふっ」
「リ、リリス?」
次第に暴走していくリリスに、ジェスアルドが戸惑って声をかけた。
その声に、リリスははっと我に返り顔を上げた。
「す、すみません! ずっと会いたくて禁断症状が……」
「いや……かまわない」
相変わらずわけがわからないリリスの態度に、ジェスアルドは反応に困った。——が、次第に笑いがこみ上げてくる。
自分はこの変わった妻に会いたかったのだと改めて思うと、もう笑うしかない。
「——ジェドっ!?」
突然子供のように抱き上げられて、リリスは驚きの声を上げた。
見下ろせば、すぐ間近にずっと見たかったジェスアルドの笑顔がある。
くすぐらなくても笑ってくれた。
それだけでリリスは嬉しくなり、ジェスアルド以上に満面の笑みを浮かべた。
「……ひとまず、リリスが元気になったことはわかった。このまま眠り続けたらどうしようかと、心配だった。それに、とても恐ろしい思いをしたんだ。もうこの国にはいたくないと言いだすのではないかと、不安でもあった」
「ジェド……」
初めて心の内を吐露するジェスアルドの言葉に、リリスの胸はいっぱいになってしまった。
ジェスアルドにぎゅっと腕を回し、たくましい肩に顔をうずめる。
そんなリリスを、ジェスアルドはベッドへと運んで寝かせようとした。
だが起き上がろうとしたジェスアルドをリリスは離そうとしない。
「リリス、いくら元気だとはいえ、手首に負担をかけてはダメだ」
「でも、まだ離れたくありません」
「それは……私も同じだ」
そう答えたジェスアルドは、横たわるリリスにキスをした。
リリスには気になることがたくさんある。ジェスアルドにはしなければならないことがたくさんある。
それでも今だけは、久しぶりの再会を素直に喜んだのだった。




