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車内はランプの光でとても明るく、リリスは目が慣れるまでにしばらく時間を要した。
その耳に、扉が閉められるかすかな音と、勢いよく駆ける何頭もの馬の蹄の音が入ってくる。
どうやらリリスの馬車を襲った者たちは、追手をかく乱するために他の道――南東か南西に進んでいったらしい。
そして裕福な旅人を装ったこの馬車は、予想を外して北西へと進むのだ。
馬車の故障を装い、路肩に止まって待っていたことといい、やはりかなり周到に計画されている。
床に座り込んで俯いたまま、これからどうするべきか考えていたリリスの前に、誰かが膝をついた。
緊張のあまり浅い呼吸をしながら、リリスが顔を上げると、いつかの夢で見た男が優しげな笑みを浮かべていた。
「初めまして、妃殿下。私はこれからの旅に同行させていただきます、サウルと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「……旅?」
「はい。少々手荒な真似をしてしまい、申し訳ございませんでした。もうすぐ心地良い宿へと着きますゆえ、それまではしばしのご不自由をお許しください」
「私は……私は、旅なんてしません! お願い、みんなの許へ……トイセンへ、帰してください!」
椅子に座らせるためにか、挨拶のためにか差し出された手を、リリスは勢いよく払いのけた。
怒りのあまり、演技ではなく声が震える。
明るく温かな車内へと押し込まれ、サウルの顔を目にした途端、必死に冷静になろうとしていた理性が飛んでしまった。
レセは、騎士たちは大丈夫なのだろうか。
あの血生臭い場面を思い出し、リリスはさらに震え、吐き気をもよおした。
しかし、そんなリリスを誰かがぐっと引き上げ、座席に積まれたクッションへともたれかかせる。
サウルではない、第三者の登場に、リリスは驚いた。
目の前には大柄な年配の女が屈みこみ、ひやりとした手をリリスの額に当てる。
まったく気配を感じなかったことや、この女の無表情さが不気味で、リリスは再び震えだした。
「さて、先ほどの妃殿下のご希望ですが、それは申し訳ございませんが、叶えてさしあげることはできません。そしてもう一つ、謝罪しなければならないことがありました。しばしのご不自由と申しましたが、これもまた少々間違っておりましたな。重ねて、お詫び申し上げます」
いまだ車内の床に膝をついたまま、サウルは恭しく頭を下げた。
その慇懃無礼な態度に腹が立ったが、リリスは無言を通した。
目の前で屈んだ女が、荒縄ではない、絹の布を縒って太くしたものでリリスの両手首を縛っている。
(部屋に籠っている間、縄抜けの練習でもしておけばよかったわ……)
女の作業をぼんやりと見つめながら、そう考えていると、サウルのくっくといやな笑いが聞こえた。
何かと視線を向ければ、サウルは満足そうに見返してくる。
「いや、話に聞いてはおりましたが、本当に噂通りのおとなしい姫君でいらっしゃる。暴れられ、抵抗されるのも困りますが、泣き喚かれたり、いつまでもめそめそ泣かれても鬱陶しいものですからな。どれ、失礼しますぞ」
そう言って、サウルは向かいの座席に腰をかけた。
続いて女も作業を終え、サウルの隣に座る。
しかし、片時もリリスから目を離そうとはせず、そのねっとりとした視線にリリスは居心地が悪く身動いだ。——そもそも、この状況で居心地がいいはずはないが。
「この女はモラと申しまして、妃殿下のお世話をさせていただきます。お逃げになる以外のご希望があれば、何なりとお申し付けください」
「……あなたは、私をどうするつもりなのですか? 売り飛ばしても、私のような者に——」
「売り飛ばすなど、そのような愚かなことはしませんよ。どうぞ、ご安心ください」
もちろんリリスにもわかってはいたが、あまり核心を突いた質問をしても警戒されるだけだと、何も知らないふりをした。
実際、何も知らないのだ。
サウルの——フォンタエ王国の本当の目的など。
あの現実夢は何の役にも立たなかった。
たとえ夢を見ていなくても、男爵の招待は受けなかっただろうし、こうして現実に誘拐されているのだから。
自分はいつの間にか、何でもできると驕っていたのだ。
だけど、結局は何もできない。みんなに助けてもらわなければならない非力な存在なのだ。
(レセは、みんなは大丈夫かしら……。どうしよう、もし……)
最悪のことを考えて、じわりと目に涙が浮いてくる。
それを見て、サウルは意地悪く笑った。
「心配なさらずとも、妃殿下のお命をどうこうしようとは思っておりませんぞ。あなたは大切な人質なのですから」
「……人質?」
リリスが自分の身を嘆いていると思っているサウルに、誤解させたまま、意味がわからないふりをして問いかけた。
今から己の計画をぺらぺらと話してくれるのなら、大歓迎だ。
フレドリックから狡猾だと聞いていたが、名もなき一介の官僚に収まっているのは、その判断力の甘さかもしれない。
いくらリリスがか弱くおとなしいだけの娘に見えても、油断はするべきではないのだ。
「あなた様はご自分の価値をわかっていらっしゃらないのかな? フロイト王国とエアーラス帝国の同盟の証として、ジェスアルド皇太子に嫁いだ自身の価値を」
「……ですが、同盟はもう成されました。今はフロイトに帝国軍も駐屯しておりますもの。問題は何もないはずです。だって、殿下は……殿下はそれほどには、私のことを……」
演技のつもりだったが、自分で言っていて本当に悲しくなってしまったリリスの目から涙がこぼれ落ちた。
ジェスアルドは優しいから、きっと助けようと躍起になってくれるだろう。
だが、それは愛からではないのだ。
「確かに、皇太子殿下は非情な方だと有名ですからな。先のお妃様のお命を奪われたのも殿下だと聞きましたぞ。最近では、妃殿下と仲睦まじいとの噂もございましたが、毎日送られる妃殿下の手紙にも、一度しかお返事がなかったそうですな」
嘆くリリスに、サウルはさらに止めを刺した。
逃げようとする気力をくじくためかもしれない。
男爵やサウルのことを記した手紙は内密のもので、その返書もデニスからレセ宛ての封書に同封されていたので、皆は知らないのだ。
そもそも、その二通の返書はあくまでも必要あってのもの。
リリスの絵葉書に対して返ってきたのは、サウルの言う通り、本当に一通だけだった。
考えれば考えるほど、落ち込んできてしまったリリスを、サウルは楽しそうに眺めている。
その視線にも気づかず、リリスは負の考えにますます囚われてしまっていた。
追手が現れても自分の命を盾に逃げられる可能性は高い。
もしこのままフォンタエに連れていかれ、皆の重荷になるくらいなら、いっそのこと——。
そこまで考えた時、がたんと馬車が大きく揺れた。
どうやら車輪が大きな石にでも乗り上げてしまったらしい。
頭を強かに打ちつけたサウルは舌打ちし、持っていた杖で車体を叩き御者に文句を言っている。
しかし、リリスは今の衝撃で正気を取り戻せたことを感謝していた。
(ダメよ。絶対に、私は生きて逃げ出すのよ。嘆いている場合じゃないわ。しっかり状況を把握しないと!)
もしリリスの命が失われてしまったら、ジェスアルドはまたひどく嘆くだろう。
それどころか自分を責め、もう二度と立ち直れないかもしれない。
たとえ愛はなくても、情はあるはずだから。
初めて会った頃の殻に閉じこもっていたジェスアルドが、最近ではやっと笑ってくれるようになったのだ。
あの綺麗な紅い瞳が細められた笑顔を思い出し、リリスはきゅっと胸が苦しくなった。
もう一度、あの笑顔を見たい。
くすぐってでも、何をしてでも、とにかく笑わせてみせる。
そう決意したリリスは、これから何をするべきかを懸命に考え始めた。




