72
あの朝、エドガーとハンスには、体調が思わしくなく、しばらく窯へは行けない旨を伝えた手紙を書いた。
少し疲れただけなので心配には及ばず、窯出しには必ず立ち会うと記して。
その後、本当に男爵から晩餐への招待状が届いた時には、リリスもさすがに驚いた。
だがすぐに気を引き締め、体調を理由に断りの返事を書いた。
それから特に男爵からの動きはなく、リリスが部屋に籠って三日目。
男爵が工場の財務担当者や販売責任者らと共に、皇帝の使者に帝都へと引き連れられていったことは、トイセンの街でも大きな話題となった。
どうやら男爵夫人が泣き喚いていたために、広くみんなの知るところとなったらしい。
そして、男爵を唆したフォンタエ王国の男——やはりサウルだったが、彼はそれから二日後に男爵の屋敷近くの宿を発ったと見張ってくれていたフレドリックの友人から報告があった。
かなり拍子抜けしたリリスだったが、それでも用心を重ね、本焼きが終わり、熱を冷まして窯から出す日までは、宿でじっとしていようと決めていた。
部屋に籠るのは嫌いではないので、朝寝や昼寝をしたり、夕寝をしたりしながら、たまに刺繍もする。
ジェスアルドに贈る予定のハンカチは、久しぶりに針を持ったために一枚目はひどく失敗し、二枚目はどうにか文字が読み取れるほどになり、三枚目はまずまずだった。
この調子で五枚目になれば、ジェスアルドに贈れるぐらいにはなるだろう。
練習用の予備も含めて、ハンカチは五枚購入済みである。
そんなリリスの許には、街の人たちから手紙や贈り物が数多く届けられるようになっていた。
どうやら、男爵たちの不正を暴いたのは皇太子であり、それも皇太子妃がストーンウェアに興味を持ったお陰だと広まっているらしい。
リリスは困惑しながらも受け取るしかなく、部屋は贈り物でいっぱいになっていた。
そしていよいよ窯出しの日。
部屋を出て、階段を下りようとしたリリスは驚いた。
階段下、宿の正面入り口へと繋がる小さな広間には、宿の主人や多くの従業員——ひょっとして全員かもしれない——が整列していたのだ。
「な、何?」
思わず洩らした疑問の声に、テーナが小さく答える。
「これからリリス様がお出かけになることは、前もって伝えていたので、お見送りでしょう」
「え? 見送りっていっても、まだ帰るわけじゃないのよ?」
「それでも皆、リリス様に感謝の気持ちを表したいのです」
「感謝って……」
全てはジェスアルドの采配であり、結局リリスはまだ何もできていないのだ。
そのため後ろめたくはあったが、いつまでも階段上でもたもたするわけにはいかず、皇太子妃としての笑顔を浮かべ、リリスは階段を下りていった。
すると、皆が頭を深く下げ、そのまま宿の主人が口を開く。
「妃殿下におかれましては、お元気になられたようで、本当によろしゅうございました。我々一同、大変喜ばしく思っております」
「ありがとう……」
「それでは、お気をつけて、いってらっしゃいませ」
「……いってきます」
宿の主人や従業員、そしてテーナに見送られて、リリスは待機していた馬車に乗り込もうとした。
が、宿の外にも多くの人たちが遠巻きではあったが馬車を囲み、リリスが出ると歓声が上がった。
リリスはぎょっとしたものの、すぐにまた妃殿下らしい笑みを浮かべて、人々に手を振る。
途端に、その場はさらに沸いた。
街の人たちからは「お元気になられてよかった」だの、「殿下と妃殿下のお陰でこの街もよくなります!」「ありがとうございます!」などと聞こえてくる。
さらには誰かが「妃殿下、万歳!」と叫んだために、その場が「万歳!」で包まれてしまった。
笑顔も少々ひきつってしまったが、リリスはどうにか手を振りながら馬車に乗り込んだ。
「嬉しいけど……すごく、疲れたわ……」
リリスの呟きに、レセはくすくす笑い、フレドリックはにまにましている。
動き出した馬車の中まで歓声はまだ聞こえていた。
「街の人たちは、それはもうリリス様のことを心配しておりましたからね。私も街へ出るたびに、『妃殿下のお体の具合はどうですか?』なんて、たくさん声をかけられましたもの」
「心配してくれるのは有り難いけれど、それも嘘だし、何もしていないのに誤解されているのは心苦しいわね」
「何をおっしゃっているのですか! 誤解などではございません! 確かに、今回のことは殿下のご指示の下で解決したと言うべきかもしれませんが、だからといって、リリス様が何もなさっていらっしゃらないなど、それこそリリス様の誤解でいらっしゃいます!」
「そ、そうかな……?」
「人気者は大変ですなあ」
レセの勢いに押されて、リリスはひとまず受け入れることにした。
からかいを含んで呟いたフレドリックを、軽く睨みつけはしたが。
こんなにみんなから好意を寄せられているのだから、それに見合うだけのものを返そう。
またリリスが決意を新たにした時、馬車は街道を外れ、山の麓にある窯へと向かう悪道に入った。
リリスは馬車に揺られながら、ため息を吞み込んだ。
今回のことも含めて、ジェスアルドに話したいことはいっぱいある。
男爵とサウルのことを書いた手紙には、とても丁寧な返事が届いた。
ストーンウェアがフォンタエ王国に横流しされていたことは掴んでいたが、官僚ぐるみで行われているのは知らなかったので、これから男爵を厳しく取り調べると。
そして、くれぐれも警戒するようにとあったのだが、返事が届くよりも先にサウルが出発したため、余計な心配をかけただけだった。
もちろんサウルが出発してからすぐに、そのことは手紙で知らせたが、入れ違いになったらしい。
その後にまた届いた返事には、何事もなくてよかったが、やはり気をつけて過ごしてほしいとあったのだった。
ジェスアルドは彼なりにリリスを心配してくれている。
それはとても嬉しいのだが、やはり距離がもどかしかった。
直接会えば、色々なことを遠慮なくたくさん話せるのだ。
何より、ジェスアルドの大きな腕に抱きしめられたかった。
「もうすぐね……」
「さようでございますね。あっ、窯の煙突が見えてまいりました」
この本焼きが上手くいっていれば、リリスは帝都へと帰る予定だった。
リリスはシヤナの作り方を知っているだけで、所詮は素人なのだ。
そのため、あとは玄人の二人に任せて、帝都で報告を待つことになっており、ジェスアルドとも再会できる。
その思いからの呟きだったが、レセは窯への到着だと思ったらしい。
しかも心なしかうきうきしているようで、リリスは笑いをかみ殺した。
窯の正面に馬車が着くと、音を聞きつけてか、すでにエドガーとハンスが待っていた。
その表情はとても明るい。
リリスは期待に胸を膨らませて、馬車から降りたのだった。




