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「はじめまして! 俺、ハンス・リマイコって言います」
「……はじめまして、リマイコさん。アマリリス・エアーラスです。リマイコさんには、わざわざ遠くから来ていただいて、感謝しております」
「え? 堅苦しいっすよ。ハンスでいいっす。それに、あっちはどうにも古臭くて、俺には合わなかったんで、ここに呼ばれて嬉しいっす。これから、よろしく」
「ええ、よろしくお願いしますね、ハンス」
差し出された手を取ると、ハンスははっと目を見開いて、それからにやりと笑う。
何かと思ったが、その疑問はハンス自身が答えてくれた。
「やっぱりお姫様って見かけだけじゃなくて、本当に柔らかいんすね。いい匂いもするし、俺、超ついてるっす」
「そ、それはよかったわ……」
護衛騎士には危険がない限りは黙っていてくれるよう前もって言っていたために動きはないが、背後ではかなり苛ついている気配が伝わってくる。
さらに同席しているエドガーでさえも、ハンスの態度にははらはらしているようだ。
さすがにリリスも今までにない経験に、握られたままの手をどうしたものかと考えていた。
そこに、意外な声が割って入る。
「もう我慢できない! 何なの、あなた!? さっきから黙って聞いていれば、調子に乗って! リリス様に対して失礼よ! 今すぐ、その手を放しなさい!」
「いてっ!」
護衛騎士よりも後ろに控えていたはずのレセが、いつの間にかリリスの前に現れ、ハンスの手を力強く叩いた。
その勢いで手は解放されたが、リリスは初めて見るレセの様子に呆気に取られたまま。
いつもなら止めに入るだろうテーナも、静かにハンスを睨みつけている。
「ええ? ただ挨拶してただけなのに。でも君も可愛いね? 名前は何ていうの? 恋人はいるの?」
「あなたに名乗るような名前はありません!」
懲りた様子のないハンスに、レセは憤慨している。
そんな二人のやり取りを見ているうちに、リリスも冷静になってきた。
(困ったわね……。まさか、ここまでだとは思わなかったわ)
エドガーもそうだが、職人というのは無骨な性格の者が多く、礼儀作法などにあまり頓着しないようなので、騎士には黙っているようにとお願いしていたのだが、ハンスの態度は予想以上に酷かった。
立場上、このまま放置するわけにもいかない。
「ハンス、いい加減になさい。彼女はフロイトのブゾーニ卿からお預かりしている大切なお嬢さんなの。その彼女に失礼な態度を取ることは許さないわ。そして、私はこの国の皇太子妃です。心にもないお世辞を並べ立てる必要はないけれど、礼節ぐらいは守りなさい」
精いっぱい背筋を伸ばして、リリスはきっぱりと告げた。
こういう時は、もっと背が高ければと思う。
寝る子は育つと言うが、リリスには当てはまらなかったようだ。
皆がリリスの言葉に、もっと厳しくてもいいのにと思いながらも留飲を下げていると、ハンスはレセへと伸ばしていた手を下ろし、リリスへと向き直った。
それからびしっと直立して、勢いよく腰を折る。
「申し訳ありませんでした! 俺——いや、私、ちょっと興奮してしまって……こちらのお嬢さんにも、大変失礼をいたしました!」
「い、いえ、私は……」
リリスに対して謝罪したハンスは、そのままレセへも頭を下げた。
レセは困惑して、リリスへと助けを求めて視線を向ける。
「――ハンス、頭を上げなさい。レセが困っているわ。これから気をつけてくれればいいの」
「ありがとうございます!」
もう一度リリスに向かって頭を下げたハンスは、ゆっくりと体を起こした。
その顔を見て、リリスは気付いた。
このまま不敬罪で投獄どころか、この場で切り捨てられる可能性もあったのに、ハンスの今までの態度はわざとだったようだ。
(職人気質っていうより、あれね……芸術家肌ってやつ? とにかく変人だわ)
これからのことを考えて、リリスが洩れそうになるため息を飲み込んでちらりとハンスを見れば、満面の笑みが返ってきた。
おそらくリリスより十歳は年上のはずなのに、まるで少年のように見える。
(で、殿下の人選だもの。間違いはないはずよ……きっと……)
リリスはどうにか自分を納得させ、未だにぷりぷりしているレセと、呆れた様子のテーナを連れてその場を後にした。
ちなみに、同席していたはずのフレドリックが静かだったのは、笑いを堪えるのに必死だったためらしい。
フレドリックから見ても、ハンスの無礼な振る舞いはわざとらしかったようだ。
おそらくリリスの人柄を見たかったのだろうと、フレドリックは推測していた。
「それって、ずいぶん命がけの好奇心ね」
「まったくもって、その通りですな。よほど自分に自信があるのでしょう。青臭いにもほどがありますよ」
「フウ先生は、ああいうタイプは嫌いなの?」
「嫌いではありませんぞ。ただ自分の黒歴史を見ているようで恥ずかしくなるだけです」
「黒歴史?」
「年を取ると、過去の自分の振る舞いがいかに恥ずかしいことだったかと自覚し、思い出すたびに布団をかぶって悶えたくなるようなことですよ」
「ええ? 私、今でもしょっちゅうなんだけど。特に殿下に対してなんて酷いものよ」
「ほうほう、それはそれは……。リリス様は今、大人への階段を上っている途中ということですな。自覚があるだけよいではないですか」
「ええ……」
にやにや笑うフレドリックに慰められても、どうも釈然としない。
そこで、ふとリリスは先ほどのフレドリックの言葉を思い出した。
「ねえ、フウ先生はどんな黒歴史があるの?」
「それは教えられませんなあ」
「フウ先生ってば、ずるいわ。先生は今現在の私の黒歴史ならぬ馬鹿な言動を見ているんだから、一つくらい教えてくれたっていいじゃない」
「ふむ。そうですなあ。確かにリリス様にはずいぶん楽しませて頂いておりますし……。では、とっておきのを一つお教えしましょうか」
「やった! って、ちょっと今の言葉には引っかかるけど、まあいいわ。それで、どんなことがあったの?」
リリスはわくわくして身を乗り出した。
しかし、フレドリックはにやりと笑って首を横に振る。
「残念ですが、今お教えするわけではありません」
「ええ? 何、それ。酷いわ」
「黒歴史というものは、人にはそうそう教えられるものではありませんからな。だからこその黒歴史ですぞ。ですから、リリス様がシヤナを無事に完成させることができた暁には、お教えいたしましょう」
「うーん。……わかったわ。もともとシヤナは完成させるつもりだもの。それにフウ先生の黒歴史っていうおまけがついてくるなんて、俄然やる気が湧くってものだわ」
両手を固く握りしめたリリスを見て、フレドリックはまた笑った。
本当に妃殿下と一緒にいて退屈するということがない。
だからこそ、誰にも言えないような自分の秘密——黒歴史を教えようという気にもなったのだ。
その時のリリスの反応もまた見物だろう。
こうしてリリスは、新たにシヤナ完成への情熱を燃やすことになったのだった。




