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エアーラス帝国は三十年ほど前までは帝国と名乗るほど大きな国ではなかった。
フロイト王国と同じように北西にホッター山脈を控え、山脈から流れ出る川が肥沃な大地を作り、豊かな農業地に恵まれた農業国だった。
だが、大きく変化が訪れたのは国土の南に位置するカイ山に眠る金鉱が発見されてからだ。
そしてその地を調べれば他にも銀山など、いくつかの鉱山が発見された。
それからエアーラスは多大なる発展を遂げ、人口も増えていったのだが、ある日突然隣国へ侵攻を開始したのだ。
当然人々は驚いた。
国がどんなに富み栄えても、驕ることのなかったエアーラス国王が他国を侵略するなど、ひょっとして気でも触れたのかと噂された。
そして併合された隣国で暮らしていた人々はそれまでの貧しさから解放されたのだ。
だが他国の者がそれを知ることは少ない。
なぜなら統治者としては、そのようなことがあってはならないからだ。侵略されて民が喜ぶなど。
それからもエアーラス国王はいくつかの国へ侵攻、併合し、王国は栄え、やがて帝国と呼ばれるようになった。
だが今から二十九年前、エアーラス国王――今では皇帝と呼ばれるが――の妃が生んだ男児は世にも珍しい紅い瞳をしていた。
さらには赤い髪と相まって、いつしか呪われた王子と噂されはじめた。
今までエアーラス国王が無為に流した血の呪いを、ジェスアルド王子は受けているのだと。
もちろん夫妻は噂など気にせず、ジェスアルドを愛し育てたが、エアーラスが国土を広げるごとに噂も広まり、ジェスアルドの初陣ではその姿を目にしただけで逃げていく敵もいたほどだった。
そして十年前、ジェスアルドの妃の悲劇的な死が決定的なものとなり、今ではエアーラス皇太子は紅の死神とまで異名をとるようになっていた。
* * *
『父上! フロイト王に同盟を申し込んだとは真ですか?』
『その通りだが、何か問題でもあるのか?』
『いいえ、同盟に問題はありません。ですが、あちらの王女を私の妃にとの条件を付けているそうではありませんか!』
『仕方ないではないか。そなたの妃がいつまでも決まらぬのだから』
『私はコリーナが亡くなってから、二度と結婚はしないと申したではありませんか。跡継ぎなら従兄弟のコンラードがいる。とにかく、条件は撤回すべきです! 私はフロイトの王女など娶るつもりはありません!』
そうきっぱり言い切った赤い髪の青年は突然振り向き、紅い瞳を眇めた。
まるで目が合ったような感覚にリリスは驚き、急いで逃げようとして、そこで目が覚めた。
息が切れているのは驚いたからだ。
心臓が早鐘を打っているようでどきどきが収まらない。
今までにも察しのいい人はどの世界にもいて、何となく気配を感じているのかきょろきょろとされることはあっても、はっきり目が合ったのは初めてだった。
しかも、噂には聞いていたけれど、本当にあんなに瞳が紅いなんて。
だけど次第に動悸が収まってくると、少しずつ気持ちが沈んでいった。
力に関係なく家族はリリスを無条件で愛している。
だがそれは家族だからじゃないのか。リリスがみんなを無条件に愛しているのと同じように。
(家族以外に私を愛してくれている人はいるのかしら……?)
リリスは考え、ため息を吐いた。
きっと力に関係なく好きだと思ってくれている人はいるはずだ。
テーナやジェフや、おそらくセブも。
またアルノー以外にリリスと結婚したいと国王へ願い出ている者もいるらしいが、それはリリスが王女だからだろう。
そもそもリリスはアルノー以外の男性とちゃんと接したことがなかった。
おそらく若い貴族女性はそんなものなのだろうが、だとすればみんなどうやって恋愛しているのだろうと思う。
(でもスピリスお兄様もいわゆる政略結婚だけれど仲は良いし、お父様とお母様だってそうだわ。そう考えれば、みんな結婚してから愛を育むのかも……)
だとすれば、ダリアとアルノーがお互いを想い合っているのは奇跡かもしれないとリリスは気付いた。
それなのに二人が結ばれないなんて間違っているのではないか。
身分だって申し分ないのだから、障害といえばリリスの存在くらいだろう。
しかも出産を間近に控えてご実家に戻っている王太子妃のことを思えば、この先、戦などになって余計な心配をかけたくはない。
(あのフォンタエ王国の現実夢はおそらく最近のことよね。だとすれば、ひと月の間にこのフロイト王国に攻め入ってくるのかもしれない。やっぱり……)
どう考えてもリリスがエアーラスに嫁ぐのが最善の策である。
たとえ皇太子本人が拒否していても。
エアーラスが提示している条件を今飲めば、同盟は間違いなく成されるだろう。
その後、結婚の条件が撤回されることがあっても、こちらには落ち度がないのだから問題は何もない。
むしろラッキーである。
(私自身を望んでくれる人がいないのなら、たとえ皇太子が嫌がっていようと嫁ぐべきだわ。この婚姻が条件の同盟にはフロイトにとって益はあっても損はないわよね。まあ、現実夢の内容をすぐに伝えられないのは残念だけれど、手紙で伝えるようにすればいいし……)
ベッドの中でゴロゴロしながら思い悩んでいたリリスは、決意すると勢いよく飛び起きた。
そして片手をこぶしにして突き上げ叫ぶ。
「目指せ、押しかけ女房! 打倒、フォンタエの野望!」
その姿を目にして、控えていたテーナは呆れのため息を大きく吐いたのだった。