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「フウ先生! どうしよぉぉ!」
「殿下に不満を訴えられたそうですが……なんじゃ、後悔しておられるのですか」
「……まさか、もう聞いたの? ブンミニの町であったことを? まだ五日しかたってないのに?」
トイセンの街に戻ると、ブンミニには同行せずに宿屋で留守番をしていたフレドリックにリリスは泣きついた。
すると、説明するまでもなく返ってきた言葉に、思わず込み上げていた涙も止まる。
「五日もあれば、帝国中に広まりますぞ。噂とはそんなものですからな」
「やーめーてー。今まで頑張ってお淑やかにしていたのに、全て無駄になってしまったわ。……ちなみに、何て聞いたの?」
「妃殿下はこの国に馴染もうと懸命に努力なされ、皇太子殿下にもどうにか歩み寄ろうと無理をなさっていらっしゃるのに、殿下は冷たくあしらうばかり。ついには妃殿下も不満を訴えられたが、殿下の怒りを買ってしまい、妃殿下は涙ながらに許しを乞われ、命拾いされた――そうですな」
「はあ!? 全然違うわよ!」
「でしょうなあ。リリス様が涙ながらに許しを乞われるなど……そう聞いた時には、思わず噴き出しましたよ」
にやにや笑いながら言うフレドリックを、リリスは睨みつけた。
あれからジェスアルドとは何となく気まずい雰囲気になってしまって、それから次の日の別れまできちんと話し合うこともできなかったのだ。
このまま何日になるかわからない離れ離れの日々に、二人の心も離れてしまったら――もともと近くもないのに――どうしようと不安でいっぱいだった。
すでにもう四日も会っていない。それなのに世間は勝手すぎる。
「ですが、リリス様の体面は保たれたではないですか。お淑やかなふりとやらも、無駄にならずによかったですのお」
「それはそうかもしれないけど……。それじゃ、この街に戻ってきた時の皆の反応も、引いてたんじゃなくて、同情的なものだったのね。あの腫れ物に触るような態度……。ああ、また殿下が酷く思われてしまうわ」
あの時は、焦りからパニックになってしまって、最終的にリリスは怒ってしまったけれど、ジェスアルドは噂のような冷酷な人物ではない。
ジェスアルドが鈍感なのは間違いないが、本当にただ不器用なだけなのだ。
それがどうも皆を誤解させてしまう要因になってしまっているのだろう。
もちろん、自らそのように思わせてもいるようだが。
「でも、おかしいわ」
「ふむ。気付かれましたか?」
「ってことは、フウ先生はとっくに気付いていたのね」
「年を取ると、視力は悪くなりますが、視野は広がりますからなあ」
「そうかしら? 逆に狭くなる人もいると思うわ」
「おお、確かにそういう者もおりますな」
納得してフレドリックは笑うが、話が逸れてしまっている。
リリスはこほんと一つ咳払いをして話を戻した。
「とにかく、問題は殿下の噂よ。このトイセンでは、殿下は街の人たちからすごく恐れられていたわ。今もまたかなりゆがんだ噂になっているし。それはあの〝紅の死神〟の呼び名のせいでもあるから仕方ないとは思うのよね。でもブンミニの町や、道中の小さな村などでは、驚かれてはいたけれど、そこまで恐れられていなかったみたい。それって、あまり噂が届いていなかったってことかしら……」
今まで皇宮で過ごしていたせいで、ジェスアルドが国民にどう思われているのかは実際のところはわからなかった。
今回の視察で感じたのは、大きな街ではジェスアルドはかなり恐れられ、小さな村ではそれほどではないということだ。
やはり噂の影響は大きいようだが、今回のゆがんだ噂は作為的なものを感じる。
「もし今回のコート男爵たちの不正が公になって裁かれたとして、殿下の評判はよくなるのかしら?」
「おそらく、そう上手くはいかないでしょうなあ」
「やっぱり? ……なんだか腹が立つわね」
むうっと唇を尖らせたリリスだったが、〝皇太子は実はいい人説〟の流布は長期的なものになるのも覚悟している。
というわけで、リリスは一度大きくため息を吐いて気持ちを切り替えた。
「それで、この八日間で何か変化はあった?」
「私が知り得る限りでは、工場は通常通り運営されているようですし、街も皇太子ご夫妻滞在の興奮が冷めた今は、いつも通りの生活に戻ったようです。そして、エドガー監視の下に、使われていなかった窯の再生も無事に終わり、一昨日には、皇太子殿下が別の窯元から呼び寄せてくださった釉薬の専門家が到着いたしました。どうやら、その者はエドガーと意気投合したらしく、昨夜は用意された宿舎ではなく、エドガーの自宅に泊まったようですな」
「そうなの!? 私も早く会ってみたいわ! それに、再生した窯も見たいし、さっそく――」
「リリス様、今日はもう諦めてくだされ。もうすぐ日も暮れますし、皆が疲れておりましょう」
「……そうね。ちょっと気が急いてしまったわ。私の悪い癖ね」
立ち上がりかけていたリリスは、フレドリックにたしなめられて冷静になった。
目の前のことに集中して周りが見えなくなるのは、自分の悪い癖だと自覚はしている。
リリスの旅にずっと付き従ってくれていたテーナやレセ、それに他のみんなも街へ戻ったばかりなのだからゆっくり休みたいはずだ。
反省したリリスはソファに座り直して、大きく息を吐いた。
明日はお昼までしっかり休んでから、エドガーに会いに行こうと決める。
「もう一つ、昨日から新たに流れている噂がありますぞ」
「新しい噂?」
リリスが落ち着いたところを見計らって、フレドリックが再び口を開いた。
しかし、リリスには嫌な予感しかしない。
「もともと、リリス様は無理ができないという理由で、この街に戻っていらっしゃる予定でしたから、この宿を押さえておりましたが……」
「何? 何か、手違いでもあったの?」
「それが、宿屋の者たちは別として、リリス様がお戻りになると知った街の者たちは、どうやら先に流れていた噂で誤解したようですな。殿下の仕打ちのせいで、リリス様は体調を崩され、帝都に戻られることができなくなったと思ったようです」
「ええ!?」
「これもまた、すぐにでも帝国中に流れるでしょうなあ」
「……何、それ」
「噂とはそんなものですからな。殿下のためにも、リリス様はシヤナを無事に完成させて、誤解を解かなければなりませんのお」
「当たり前よ! そもそもそんなまどろっこしいことよりも、明日朝一番にこの街で一番高い尖塔の上から叫んだっていいわ!」
「それはおやめください、リリス様」
夕食の用意をカートに載せて入ってきたテーナが冷ややかに止める。
どこから聞いていたのかはわからないが、憤っていたリリスはテーナの存在に気付かなかった。
「い、今のは冗談よ」
「……」
苦しい言い訳をしたリリスに、一緒に入ってきていたレセも他の二人も何も言わなかった。
そしてリリスは、トイセンの人たちのためだけでなく、ジェスアルドの新たな汚名をそそぐべく、翌日からシヤナ作りに邁進することになるのだった。




