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この会談の翌日、トイセンのストーンウェア工場の責任者が解任された。
そして当然の結果、工員たちはかなり反発した。
ほとんどの資金を国とコート男爵が出したとはいえ、自分たちも出資して建てた工場なのだ。
その上で、一番の熟練者で人望もあるエドガーを、工員たちが全員一致で責任者にと望んだ人選だった。
それを何の相談もなく、いきなり決定事項として告知されたのだ。
工場の赤字が理由なのは明白だったが、それなのに財務担当者や販売責任者には何のお咎めもない。
経営や商談などは工員たちには経験がなく、コート男爵推薦の専門家に任せるしかなかったのだから、責任を取るべきはその二人、またコート男爵ではないのかと。
だが仕事を放棄しようとした工員たちを宥めたのが当の責任者――監督官であるエドガーであった。
自分はそもそも職人であり、やはり監督官には向いていなかったのだと。
皆が仕事を放棄すれば、処罰されるのは自身だけでなく、家族にも向くかもしれないので、どうか仕事を続けて欲しいと説得したのだ。
工員たちが納得したのは、エドガーが解任されただけで、大きな処罰を受けるわけでなく、未払いになっている賃金も国がひとまず補償してくれることになったからだった。
そしてリリスは、明日のブンミニ行きを前に早寝をしたのだが、久しぶりに現実夢の中にいた。
目の前には以前夢で見た三人――コート男爵と、他二人――販売責任者と財務担当者が楽しそうに酒を酌み交わしながら話をしている。
どうやら皇太子夫妻一行がブンミニの町へと明日発つのが嬉しくて仕方ないらしい。
『やれやれ、一時はどうなることかと思いましたが、無事に乗り切れましたな。フリードリッヒは職人としては一流ですが、頭のほうはさっぱりのようで助かりました』
『工員たちの反抗も、まさかフリードリッヒ本人が押さえてくれるなど……。本当に使い勝手のいい男でしたよ。しかも、我々の説明を殿下がまさかそのまま信じられるとは。〝紅の死神〟も大したことないですなあ』
『まったくだ。活躍するのは戦場のみであるようだな。このようなことに首を突っ込まず、あの可愛らしいお妃様と一緒にフロイトに赴いて、フォンタエ王国との国境を守っていたほうがよっぽど役に立つというものだ』
大口を開けて笑う三人を見て、リリスは腹を立てていた。
やはり腐ったタマネギは必要である。
可愛いらしいと言われたぐらいで許すものかと、リリスは拳を前に突き出して殴るふりをした。
兄を見ていて、つい覚えてしまった仕草だ。
もちろん当たるわけはないのだが、今日に限っては何か違った。
(あれ? 今、何かに当たった?)
不思議に思ったものの、三人の話が気になって、リリスはそのまま部屋に留まった。
だが、本当の現実――眠っているリリスの隣では、ジェスアルドが危うく殴られそうになって、拳を受け止めていた。
明日の出発を控えて、自室へと戻るのが遅くなったのだが、寝室に入ればリリスがすでにベッドで眠っていたのだ。
その姿にやはり自然と笑みが浮かんだ。
リリスの願い通り、ジェスアルドは最近笑うことが多くなった。
ただそれは、リリスの言動に対してだけなので、その笑顔を見る者は、残念ながら他にいない。
そして眉を寄せ、ぶつぶつとまた何か呟いているリリスの隣に入り込んだ瞬間、ジェスアルド目がけて拳が繰り出されたのだった。
(今度はまた、どんな夢を見ているんだ……)
不機嫌そうなリリスにまだ油断はできず、ジェスアルドは少し離れて横たわった。
ジェスアルドも、眠る時には警戒心から枕元の明かりだけは灯して眠るので、彼女の寝顔もよく見える。
あと数日で、この奇妙な妻としばらく別れることが寂しいと感じている自分に、ジェスアルドは苦笑を洩らした。
明日のブンミニ行きにはエドガーも同行させ、ジェスアルドはそのまま帝都へ帰るが、リリスたちはまたトイセンへと戻る予定なのだ。
コート男爵たちについては、帝都に戻って皇帝たちへ報告の後に、彼らを呼び出して処分を下すことになっている。
(また、恨みを買うことになるな……)
ジェスアルドは仰向けになって、大きくため息を吐いた。
為政者として当たり前のことをしても、処罰を受ける者だけでなく、周囲の者たちまでもが、ジェスアルドを冷酷だなんだと悪し様に言う。
そんなことにはもう慣れたつもりでいたが――。
「紅の死神って……馬鹿じゃないの……」
急に耳に入った言葉に、ジェスアルドははっとして振り向いた。
が、リリスは未だに不機嫌な顔で眠っている。
たかが寝言なのだからと思いつつも、ジェスアルドはかすかに動くリリスの唇へ耳を近づけた。
今の言葉の真意を知りたい。
しかし、当然わかるわけもなく、ジェスアルドはリリスを無理に起こしてでも問いただしたくなってしまった。
(本当に俺は馬鹿だな……)
だから惹かれたくなどなかったのだ。
誰が何を言おうと今までは平気だったものが、リリスに対しては気にしてしまう。
深く息を吐いて目を閉じたジェスアルドは、ふと結婚式前日のリリスの言葉を思い出した。
『愛してくださいとは申しません。ただせめて、仲良くする努力ぐらいなさってくださってもいいのではないでしょうか?』
あの時は、リリスの本心ではないと思っていたし、どうでもよかった。
だが今、改めて思い出せば、胸に響く。
リリスの願い通り、良好な夫婦関係は築けているのではないかと思う。――尖塔のてっぺんからまだ叫ばれてはいないのだから。
ジェスアルドは再び目を開けて、リリスの寝顔を見つめた。
「……愛してくれとは言わない。ただせめて、嫌わないでくれ」
口から自然とこぼれ出たのはとても小さな願い。
だがリリスは突然ぱちりと目を開け、むくりと起き上がった。
今の言葉を聞かれてしまったのかと焦ったジェスアルドだったが、リリスはいつもサイドチェストに置いてある筆記具を取り上げ、何かを書き始めた。
どうやら自分の部屋から持ってきていたらしい。
「……リリス?」
「ちょっと待ってください。すぐ終わりますから」
ジェスアルドを見もせず答えて書き続けるリリスは、どこか鬼気迫るものがある。
そのため、ジェスアルドはおとなしく待つしかなかったのだった。




