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「ジェド!」
夜になって、寝室に顔を覗かせたジェスアルドを見たリリスは、嬉しそうに声を上げた。
だがすぐに不思議そうな顔になる。
「その、もう一度きちんと話をしたくて、あなたが寝てしまわないうちにと急いだんだが……大丈夫だろうか?」
「もちろんです!」
リリスの疑問を察して、ジェスアルドは昼間用の衣服の上着を脱いだだけの姿の説明をした。
当然、リリスはジェスアルドがどんな姿でも歓迎である。
「リリス、本当に大丈夫か? 休もうとしていたんだろう?」
すでにベッドに入っているリリスに、ジェスアルドは問いかけた。
その気遣いが嬉しくて、リリスはにっこり笑う。
「大丈夫ですよ。特にすることもないので、もう寝ようと思っただけですから」
そう答えてベッドから出たリリスに、ジェスアルドはサイドチェストにかけていたガウンを渡した。
「ありがとうございます」
何だかんだでやっぱりジェスアルドは優しいなと思いながら、リリスはガウンを羽織り、長椅子に座った。
その隣にジェスアルドが腰を下ろす。
「お話って何でしょう?」
「昨日、あなたが言っていた旅行のことなんだが――」
「やっぱりダメなんですか?」
「いや、いい考えだと思う。確かにトイセンの街のことは私も気になっていたし、あなたにもこの国を案内できればと、よければトイセンだけでなく、あの辺り一帯を回ってみないか?」
「いいんですか!?」
「ああ」
顔を輝かせるリリスに、ジェスアルドは目を細めて頷いた。
リリスにとっては、新婚旅行を断られたらどうするべきか、フレドリックと相談中だったのだ。
次はブンミニの町にも立ち寄るにはどう言えばいいかと考えたが、それはジェスアルドが解決してくれた。
「それで、トイセンの他にブンミニの町へも行ってみようと思っているんだ」
「え?」
「ブンミニはホッター山脈の西側の麓に位置する小さな町で、緑豊かなフロイトの地で暮らしていたあなたには、いささかショックかもしれないが――」
「知っています。岩肌だらけなんですよね?」
「知っていたのか……」
ジェスアルドの提案に嬉しくて、リリスは思わず説明を遮ってしまった。
するとジェスアルドは訝しげな、それでいてほっとしたような表情で呟いた。
そこでリリスはもっともな理由を急いで述べる。
「はい。あの……公爵夫人のお茶会で、ブンミニの町の領主でもあるエキューデ夫人ともお話をしましたから」
「そうか……」
どうやら納得してくれたらしく、リリスは小さく息を吐いた。
思いがけず第一関門突破である。
ただそれよりも、ジェスアルドが自分の意見を取り入れてくれたことが、リリスは嬉しかった。
「だが、本当に大丈夫なのか?」
「何がですか?」
「あなたの体調だ。無理をさせるつもりはないが、また馬車での移動は体に堪えるのではないか?」
「だ、大丈夫です! あの、あの時は緊張していましたし……兄は少し大げさなので……」
病弱設定がまたもや邪魔をしてくる。
そう考えると、本当にジェスアルドはリリスのことを気遣ってくれているのだなと、胸のあたりがなんだかほっこりした。
「私、調べました。通常はトイセンの街まで馬車で五日ほどだそうですね? そこからブンミニの町へは……」
「一日か、一日半というところだな」
ここではっきりブンミニの町までの時間も言ってしまうと怪しまれるかと、言いよどんだリリスの言葉をジェスアルドが補ってくれる。
感謝の笑みをリリスは浮かべて、続けた。
「今の時期ですと気候もいいですし、私は山道には慣れていますから、その通りの行程を組んでくださっても大丈夫です。でももし、ジェドのお休みがたくさん取れるなら、もう少しだけゆっくりと進んで、他の街の人たちにも挨拶できればなと思うんです。この国の人たちにジェドの妻として認めてもらえたら嬉しいですから」
にこにこしながら言うリリスの言葉に、ジェスアルドは唖然とした。
自分は呪われた皇太子として、この国の民にも恐れられている。
そんな状況で果たして、道中も受け入れられるだろうかという疑問もさることながら、自分の――呪われた皇太子の妻として、民に認められたいなどと言うリリスが信じられなかった。
しかも、考えてみれば、リリスまでもが冷たく当たられるのではないかと心配にもなってくる。
「しかし、私の評判であなたまで傷つけることになってしまうかもしれない」
「評判? ……ああ! 呪われてるとか何とかってやつですか? 大丈夫ですよ。そんなものは笑って聞き流していればいいんです。事実じゃないんですから。それよりほら、そうやって進めば、トイセンに着いた時にも警戒されませんよね? まあ、お役所の方たちはお出迎えだ何だでちょっと迷惑をかけてしまいますが……」
「……あなたはトイセンのことをどこまで知っているんだ?」
〝呪われた皇太子〟の噂を忘れていたのか、リリスの反応に少し間があったことに驚きながらも、ジェスアルドはその後の言葉に引っ掛かりを覚えた。
急ぎ頭を切り替えて問いかけると、リリスは何でもないことのようにまた笑った。
「だって、新婚旅行の行き先がトイセンだからこそ、ジェドはこの話を考えてくれたんでしょう? それにブンミニの町まで行きたいなんて、本当に視察のおつもりでいらっしゃるじゃないですか」
ずばり思惑を言い当てられて、ジェスアルドは不審げにリリスを見た。
相変わらずリリスは笑顔を浮かべたまま。
「ジェド。私は昨日も言いましたが、フロイトでは国政に関わっていたんです。もちろん表舞台に立つことはありませんでしたし、起こる問題といえば、この国に比べてとても小さなことばかりでしたけれど、それなりの知識も経験もあります。ですから、一昨日のお茶会で、コート男爵夫人が『領地の財政が苦しい。ストーンウェアが売れない』と嘆いていながら、最新のドレスを着て、立派な宝石をいくつも身に着けていることくらいには気付いていました。それっておかしいですよね?」
リリスにとって、ここまで打ち明けるのは一種の賭けだった。
このままジェスアルドに警戒され、遠ざけられては元も子もない。
だが、この先の計画のことを思うなら、ある程度は認めてもらっていないといけないのだ。
「……なるほど。私はあなたをずいぶん見くびっていたようだ。すまない」
「いいえ。たいていの方はそうですから気にしないでください。むしろ、それが武器となりますから」
狭量な男性なら、生意気だと怒ってもよさそうなものなのに、ジェスアルドは素直に自分の非を認めて謝罪してくれた。
それが嬉しくて、リリスは叫び出したいほどだった。
もちろん、それをすると台無しなので、必死に余裕を見せる。
すると、ジェスアルドはかすかに笑い、立ち上がった。
「それでは、そのあたりも含めて日程調整をしよう。決まり次第、あなたに連絡するので、もうしばらく待っていてほしい」
「え? 部屋に戻られるのですか?」
「……まだ何かあるのか?」
ドアへと向かうジェスアルドに驚いて、リリスは慌てて立ち上がり問いかけた。
ジェスアルドは足を止め、振り返って不思議そうに問い返す。
「ジェドは、まだお仕事が残っているのですか?」
「いや……」
「では、もっとゆっくりなさっていってください」
そう言って、リリスはジェスアルドとの距離を詰め、腕を掴んだ。
どころか、ベッドへと引っ張っていく。
わけがわからずされるがままのジェスアルドだったが、リリスとベッドに腰を下ろしたところで我に返った。
「リリス、あなたは……」
「もうすっかり元気です。ジェドはお疲れですか?」
「いや……そんなことはないが……」
「それはよかったです」
またまたにっこり笑うリリスの顔は期待に満ちている。
これはひょっとして、いやだがしかし。――と、男としての葛藤をしていると、リリスはジェスアルドのシャツの襟をぐいっと引っ張ってキスをした。
それから、照れくさそうに笑う。
ここまでされて引けるわけがない。
ジェスアルドはそう思ったが、やはり、とリリスに告げた。
「リリス、私はまだ湯を浴びていない。あなたに不快な思いを――」
「別に気になりませんよ?」
「いや、しかし――」
「まあまあ、いいではないですか」
「……」
結局、ジェスアルドは誘惑に負けた。
その後、服を身に付けながら、ちらりとリリスを見ると、返ってきたのは満面の笑み。
まるで間男のような自分の姿と、リリスの変わらない態度に、ジェスアルドは堪えきれず噴き出した。
「ジェド?」
「いや……あなたは本当に面白いなと思って」
「ええ……」
不本意そうな顔をするリリスに、ジェスアルドは思わずキスをして、そして立ち上がった。
「……では、しっかり休んでくれ」
「はい、ありがとうございます」
「ああ……」
「ジェド、おやすみなさい」
ジェスアルドの背中に向けて、リリスが元気よく声をかけると、彼はドアの前で立ち止まり振り向いた。
「……おやすみ」
リリスが何か言う前にドアは閉まってしまったけれど、初めて挨拶を返してくれたことが嬉しくて、リリスはベッドに突っ伏してジタバタ悶えた。
それからはっとして、暴れてはいけないとおとなしくなったが、顔のにやけは収まらない。
しかもジェスアルドの笑い声まで初めて聞けたのだ。
今日はなんてついているんだろうと思い、リリスは上機嫌のまま眠りについたのだった。




