35
ジェスアルドは執務室に戻ったものの、仕事には手を付けず、先ほどのリリスの〝お願い〟を考えていた。
確かにリリスの言う通り、今のところ二十日ほどなら留守にしても政務に大きな影響はないだろう。
最近、気になっていたトイセンに関して、リリスとともにあの辺り一帯を周遊すれば、そこまで警戒されることもないはずだ。
だが本当に、リリスはトイセンのことを――この国のためを思っての提案なのだろうか。
(コリーナはこの国のことには、何の関心も持っていなかったがな……)
そう考えて、ジェスアルドは顔をしかめた。
もう彼女のことは忘れなければならないのに、ふとした時にこうして思い出してしまう。
それでは、リリスに対しても失礼だ。
わかってはいるのだが、なかなか切り替えられない。
ジェスアルドは大きくため息を吐いて、側近のフリオに声をかけた。
「フリオ、もし私が二十日ほど留守をするとして、いつぐらいなら政務に差し支えないだろうか?」
「殿下が二十日もですか? それは少々……いえ、もちろん可能ですが、どちらへいらっしゃるかによるかと……。ご視察ですか?」
「いや……新婚旅行に行こうと思っている」
「……はい?」
いつも生真面目で冷静なフリオの驚いた顔が見たくて発した言葉は、成功だったらしい。
ジェスアルドはにやりと笑った。
ここ最近は驚かされてばかりだから、たまにはいいだろう。
そんなジェスアルドを呆然と見ているフリオに簡単に説明する。
「妃がその〝新婚旅行〟とやらに行きたいと言っているんだ。正直なところ、興味はなかったが、トイセンに行きたいと言っている。コート男爵夫人と話をしたらしくてな……。確かに妃を連れて行けば、そこまで勘ぐられることはないだろう」
「なるほど……それは名案ですね。その〝新婚旅行〟というのはよくわかりませんが、妃殿下にこの国を案内するという名目でトイセン周辺を……できればブンミニの町へもいらっしゃってはどうですか? あの町のことも、殿下はお気になさっていらっしゃったでしょう? 直接ご覧になればまた、何か打開策が見つかるかもしれませんし、彼らも見捨てられていないと心強く感じるのではないでしょうか?」
「ブンミニか……」
フリオは驚きから立ち直ると、水を得た魚のように意見を述べた。
それを聞いたジェスアルドは黙り込んで、しばらく考えた。
緑豊かなフロイト王国で育ったリリスにとって、無骨な岩肌と坑道だらけの山を――その麓の町ブンミニを目にしてどう思うだろうか。
ジェスアルドはどうしてか、リリスのがっかりした顔を見たくなかった。
「フリオ、誰か使いをやって、妃にこの後もう一度会えないか訊いてきてくれ」
「はい、かしこまりました」
ジェスアルドの態度はリリスに指摘された通り、無礼だったかもしれない。
リリスにもう一度会ってきちんと訪問場所を決めれば、日程調整も早くできるだろう。
そう思ったが、残念ながらリリスは午睡のために会えないとの返答だった。
かなり疲れている様子だったので、いつ起きるかもわからないと侍女は使者に告げたらしい。
先ほどは元気そうに見えたが、昨日の今日で無理をしていたのかもしれない。
そう思うと、ジェスアルドは罪悪感に襲われた。
ブルーメの街からこの都までも、あまり無理はできないと言われ、ジェスアルドはいつもよりかなり行程を遅らせたくらいなのだ。
だがそれならば、本当にリリスは〝新婚旅行〟などに行けるのだろうか。
やはりリリスとはもう一度話をしなければと考え、明日の夜にでもまた部屋に訪れてみようと決意した。
* * *
一方のリリスはお昼寝から目覚め、ジェスアルドからの面会の申し込みがあったと知らされてショックを受けていた。
「ええ? それで断っちゃったの?」
「はい。リリス様はぐっすりおやすみになっていらっしゃいましたので。残念なお気持ちはわかりますが、本当にお疲れのようでしたから、お声をかけることもしませんでした」
「そっか……わかったわ。ありがとう。またきっと向こうから何か言ってくるだろうし、仕方ないわね」
夢は見なかったが、どうにも体が重い。
おそらく昼間のジェスアルドとの昼食で神経を使ったせいだろう。
よく能天気だ何だと言われるが――実際そうだが――リリスだって、ここぞという時には気を遣うのだ。
いつもなら夜にジェスアルドの部屋へ突撃することだって考えるのに、その気力さえない。
もう一度ベッドに横になってごろごろしながら、リリスはぼんやり考えた。
(赤ちゃんは当分、お預けかな……)
そこではっとする。
ひょっとして、今までの三夜で授かっているかもしれないのだ。
そう思った途端、どうしたらいいのかわからず、リリスはがばりと起き上がった。
(え? でも、まだまだわからないんだよね? 月のものがこなくなって、それから……って、次の予定っていつだっけ? ああ、どうしよう。もしできてたら、あんなにお酒飲んじゃった! ベッドにダイブしたのもいけなかったかも! ああ……)
フレドリックも言っていた通り、子供は天からの授かりものらしい。
いつできるかなどはわからないと皇后様の元侍女も言っていたし、十四年も音沙汰なかったのに、母はリーノを授かったのだ。
リリスはじっとしていられず、ベッドから起き出した。
そして何をするでもなく、寝室の中をウロウロと歩き回り始めたのだった。




