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「……リリス」
「はい?」
「花びらは次からはいらないな」
「そうですね。手引書には雰囲気を盛り上げるのに効果的と書いてあったのですが、もったいないだけでしたね」
「……手引書?」
「はい。昨日、皇宮の図書室から借りてきたんです。『これで夫婦円満! ~倦怠期を乗り越える十の方法』って本です」
「……」
倦怠期どころか、まだ始まってもいなかった結婚生活に、その手引書は必要だったのか。
そもそも、誰が借りてきたのか――いや、たとえ侍女だとしても、皇太子妃がそんな本を借りたことに司書はどう思ったのだろう。
それ以前に、皇宮の図書室になぜそんな本があるのか。
色々と突っ込みたいことはたくさんあったが、やはりジェスアルドは何も言わなかった。
そんなジェスアルドをよそに、リリスはまたごそごそと動いて夜衣をまとっている。
そして起き上がると、横たわったままのジェスアルドを見下ろして、にっこり笑った。
「明日はどちらにしますか?」
「は?」
「私の部屋と、ジェドのお部屋。どちらがいいですか?」
「……この、部屋で」
「わかりました。では、明日は花びらはなしで、お待ちしております!」
これは要するに、もう出ていけということなのだろうか。
そう思い、ジェスアルドは起き上がってガウンをまといながら、顔を赤くして目を逸らしているリリスを見つめた。
「リリス、その……体は大丈夫か?」
「え? あ、はい。ばっちりです!」
「そうか……。だが、無理はしないでくれ。あなたはあまり体が丈夫ではないのだろう?」
「あっ、……えっと、はい」
すっかり忘れていた病弱設定をジェスアルドに言われて思い出し、リリスは慌てて俯いた。
嘘を吐いている疚しさが顔に出ている気がしたのだ。
その仕草に、ジェスアルドは眉を寄せた。
「やはり、つらいのではないか? 先ほども言ったが、無理をする必要はないんだ」
「いいえ、無理はしていません。皆さん気を使ってくださるので、普段はお昼にゆっくり休めますから」
今日は思いがけない来客があったが、公式の行事以外、特にリリスに予定は入れられていないのだ。
なんて好待遇だと喜んでいたリリスだったが、ふと気付いた。
自分のことばかりで、ジェスアルドのことを考えていなかった。
「す、すみません。私のことよりも、ジェドのほうが大変ですよね? 朝早くからお仕事をなさっているのに、こうして夜遅くまで私の相手をしてくださるなんて……。もっと早くに気付くべきでした」
「いや……それは大丈夫だが……」
「ジェドこそ、無理をなさらないでください。そうですよね、やっぱり毎晩はおつらいですよね? お疲れの時はゆっくり休んでくださらないと、お体を壊してしまいますもの。ジェドがこうして妥協してくださっているのに、私の要望ばかり押し付けてしまってました。……ごめんなさい。私はかまいませんので、どうぞ遠慮なく、無理な時はおっしゃってください」
「……」
これは男として試されているのだろうかと、ジェスアルドは微妙に悩んだ。
しかも、リリスの目的が子作りであったことを、今さらながら思い出す。
そして結局は無難なことを口にした。
「私は大丈夫だが、どうしても執務等で遅くなる時がある。だからこれからは……この部屋に私が訪れることにするが、急な用事が入る場合もあるので、待たずに先に休んでほしい」
別に変なプライドを持っているつもりはなかったが、自分の言い訳がましい言葉にジェスアルドは顔をしかめた。
リリスはその表情を見逃さず、やはりジェスアルドは自分の要望に応えてくれるために無理をしているのだと思った。
「……わかりました。明日もお疲れのようならかまいませんので、ゆっくりなさってください。では、ありがとうございました。おやすみなさい」
「――ああ」
ベッドに座ったまま深々と頭を下げるリリスに、また微妙な返事をしてジェスアルドは寝室を後にした。
心配されているのか、用なし扱いされているのか、よくわからない。
ジェスアルドは自分の寝室に戻り、バラの匂いがしないことにほっとしながらベッドに横になった。
しかし、明日は約束通りリリスの部屋に訪れるべきか、それとも休めと言われた通りに避けるべきかをつい考えてしまい、目が冴えてしまった。
自分の馬鹿さ加減に呆れながらも仕方なく起き出し、執務室から持ち帰っていた書類に目を通す。
どう調べても、やはりトイセンの工場での報告はおかしいのだ。
どこかで搾取している者がいるに違いないが、再び別の査察官を派遣しても警戒されてしまうだろう。
そもそもあの査察官が本当に信用に足る人物なのかも調べなければならない。
彼自身が騙されているのか、ジェスアルドたちを騙しているのか。
(この国は大きくなりすぎたな……)
国が大きくなれば、それだけ人も増える。
人が増えれば、それだけ問題も生じる。
ジェスアルドは大きくため息を吐いて、別の書類を広げた。
ブンミニの町についても何か対策を講じなければならず、エアーラス帝国領土の西側は問題が山積みであった。
そのうえ、東のフォンタエ王国との問題もあるのだ。
帝国とフロイト王国とのこのたびの同盟によって、フォンタエ王は商業都市マチヌカンの利権を手に入れようと、さらに躍起になっているらしい。
しかも、まだ不確かな情報ではあるが、シヤナ国からの商船を海賊に扮して襲っているという。
「このままでは、戦になりかねんな……」
一人呟いたジェスアルドは、先ほどまでの悩みも忘れ、そのまま執務に没頭してしまった。
そして気がつけば夜は明けており、ここ数日続いた寝不足のせいで疲れが顔に出てしまったのか、父である皇帝や大臣たちにからかわれることになったのだった。




