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「それではリリス様、私たちはこれで失礼いたしますが……」
「大丈夫。今夜こそ、殿下はいらっしゃるから。だって、連絡がなかったもの。便りがないのは元気な証拠よね?」
「……そうだと、思います。では、おやすみなさいませ」
テーナは元気いっぱいのリリスを心配するべきか、ジェスアルドに同情するべきか悩みながらも、無難な返事をして下がった。
昨日はうっかり寝てしまったリリスは、今日はベッドには入らず長椅子に座ることにした。
リリスはどんなに昼間眠っても、ベッドに横になればすぐに眠れる。
だが、この長椅子もどうにも座り心地がよく、だんだんぼうっとしてきてしまった。
(殿下はまだかしら……。だめ、このままだと眠ってしまいそう……)
夜は眠るもの。
それはリリスの体に染み込んだ習性である。
そのため、リリスは本を読んでも無駄だと悟って、立ち上がると体を動かすことにした。
とはいっても、室内。
ひとまず寝室の中を歩いてみたが、檻に閉じ込められた狼のようでやめた。
次にフロイト城で朝の仕事始めに下働きの者たちがしていた体操をしてみる。
だが、つい掛け声を上げてしまって、慌ててやめた。
何事かとテーナがやって来ては困る。
(うーん……どうしよう……)
リリスは悩み、ちらりとベッドを見た。
このベッドはリリスがフロイト城で使っていたものよりかなり大きく、初めて見た時からしたかったことがある。
しかし、絶対にしないようにと前もってテーナに言われていたため、諦めていたこと。
(でも誰も見ていないし、いいわよね。だって、ベッドが私を誘っているんだもの)
リリスはそう結論付けて、ベッドから離れた。
直線で一番距離の取れる場所に立ち、目測で基点を決める。
(うん。あそこで間違いないわ)
リリスは確信すると、勢いよく走り出した。
夜衣は柔らかくそれほど邪魔にならない。
そして基点で思いっきりジャンプ。
手足を真っすぐに伸ばし、さながら空を飛んでいるように――実際、宙に浮いて――そのままベッドにダイブした。
大きくて柔らかなベッドは、予想通りリリスをしっかり受け止めてくれる。
「ふふふ」
宙を飛ぶ解放感と、ついにやってやったという達成感で思わず笑いがもれる。
そして、そんなリリスを、ジェスアルドは唖然として見ていた。
自室でしばらく悩んでいたが、昨夜あれほど来てほしいと言っていたのだから、嫌がることはないだろうと、リリスの寝室へのドアを開けた瞬間。
目にしたのは勢いよく部屋を横切り、ベッドへと飛び込むリリスの姿だった。
(かなり変わっているところもある……得難き宝……?)
ジェスアルドは自分の常識を疑った。
見なかったことにして、そっと帰ろうとしたその時、ベッドから起き上がったリリスと目が合ってしまった。
仕方なく諦めて、その場にとどまる。
「あ、あの……」
「……何をしていたんだ?」
「それは……もちろん……」
一番、見られてはいけない人に見られてしまった。
わかっていたのに、すっかり忘れていたのだ。ジェスアルドを待っていたことを。
だが焦ったところで、今さら手遅れである。
というわけで、リリスはにっこり笑って大ぼらを吹いた。
「ベッドの安全を確認していました」
「……それで?」
「え?」
「確認できたのか?」
「はい、ばっちりです!」
「そうか……」
ジェスアルドに無表情のまま結果を訊かれて、リリスはしっかり頷いた。
どうやら誤魔化せたらしい。
そこでリリスははっとした。
せっかくジェスアルドが来てくれたというのに、未だ入り口で立たせたままだ。
ジェスアルドははっと青ざめたリリスを見て、やはり自分の姿を目にして気が変わったのだろうと思った。
そして、まだ手をかけたままだったドアノブを握りしめ、自室へ戻ろうとドアを開ける。
だが、リリスはベッドから飛び降ると、上掛けをめくりぱんぱんとベッドを軽く叩いて整え、にっこり笑った。
「さあ、どうぞ」
「……は?」
「安全ですから、どうぞ横になってください」
「……それがフロイトの流儀なのか?」
「え? 何か間違えましたか? 流儀については、初めてなので詳しくなくて……」
隣の国といえども文化の違いは多々ある。
国によっては高貴な身の令嬢も、夫を操るために房中術をなるものを教えていることもあるらしい。
しかし、ジェスアルドはたった今、確信した。
この姫は変わっているのではなく、おかしいのだ。
年齢からいっても、きっと今まで嫁ぎ先がなく、このたびの縁談による同盟の話はフロイト王にとって幸いだったのだろう。
ていよく嫁き遅れの姫をエアーラスに押しつけられたのだから。
話を持ち掛けてからの返答の速さにもこれで納得がいく。
結論を出したジェスアルドは、やはり自室へ戻ろうとした。
これ以上、彼女に関わるのはやめておこうと。
「では、殿下が教えてください」
「……は?」
「私は初めてでわからないことばかりです。ですから、殿下が教えてくださればいいんですよね? 母も申しておりましたから。殿下に全てお任せしていれば大丈夫だと」
「……」
ジェスアルドは生まれて初めて、返す言葉を失った。
それどころか、今すぐこの場から逃げ出したい。
だが、敵前逃亡はジェスアルドのプライドが許さず、仕方なくリリスへと近づいた。
そして、自分を真っすぐに見上げるリリスを抱き寄せる。
「……恐ろしくないのか?」
「えっと……それは……やっぱりちょっと怖いですね」
リリスの返答に、ふっとジェスアルドは笑った。
結局すぐに俯いてしまったリリスの様子から、母親であるフロイト王妃に我慢するように言いつけられたのだろうと。
それでこうして無理をしているのかと思うと、気の毒になってくる。
が――。
「でも、すぐに慣れるとも聞きましたし、大丈夫です。早く殿下との赤ちゃんができるといいですね!」
「……いや、ちょっと待ってくれ……」
何か少しずれている気がする。
ジェスアルドの問いは、自分が――自分の紅い瞳が恐ろしいかとのものだった。
だが、リリスの返答はどうやら初夜に対してのものだったらしい。
今再び真っ直ぐにジェスアルドを見つめるリリスの緑の瞳は、なぜか期待に満ちている。
もしかして、ひょっとして、まさか、先ほどのリリスの態度が恥じらいだったのだとしたら、それはどこへいった?
ジェスアルドは生まれて初めて、混乱のあまりめまいがしていた。




