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春の訪れはまだひと月ほど先の頃。
エアーラス帝国皇太子ジェスアルドと皇太子妃アマリリスの間に、第一皇子が無事に誕生した。
それはここのところ続いていた暗い出来事を全て吹き飛ばすほどの吉報であり、国中が喜びに沸いた。
そのため、一連の事件の首謀者がコンラードであったことは皆を驚愕させはしたが、無事に解決したとの知らせに安堵し、素直に信じたのだ。
帝位継承者であるコンラードが欲を出し、フォンタエ王国と手を組んで皇太子妃を亡き者にしようとした、との単純な話は誰もが受け入れやすい。
特に国民に人気の高い皇太子妃の命が脅かされたとなれば、フォンタエ憎しの風潮は当然であり、皇太子は英雄として讃えられ始めていた。
そして人気者だったコンラードは一転して、フォンタエに利用された愚か者の烙印が押されたのだ。
またバーティン公爵は自ら責任を取って極刑を望んだが、皇帝が戻るまでひとまず夫人とともに屋敷での謹慎を命じられたのだった。
「――ねえ、ちょっと待って。それだけなの?」
「はい。今のところは殿下が粛々と反皇太子派の者たちを処断されておりますが、非難する声もいっさい聞こえませんでした」
ここ最近――リリスが出産してから二十日余り過ぎたのだが、レセから世間の噂を仕入れていたリリスは眉を寄せた。
それを受けてレセは何か聞き漏らしたこと、言い忘れたことがないかと考えながら答えると、リリスはため息を吐いた。
「あれだけばっちりのタイミングで殿下の二つ名を口にしたのに、広まっていないなんておかしいわね」
リリスが不満そうに愚痴ると、レセの反応よりも早く、けぽっと小さな音が聞こえた。
「大変! リオが吐いたわ!」
リリスの肩に小さな頭を預けて背中を撫でられていた皇子のエミリオがお乳を戻したのだ。
途端に部屋は騒がしくなり、着替えだの寝かしつけだのやっぱりおむつ替えだのとしている間に、またお乳の時間になっていた。
エミリオは元気な産声を上げたものの、やはり月足らずで生まれたので体はかなり小さい。
だが今のところ特に問題はないと、その後の医師の診察でも保証された。
それでもひと月は母であるリリスとできるだけ一緒に過ごしたほうがいいとのベルドマのアドバイスもあり、皆の手を借りながらリリスが育てているのだ。
もちろん乳母もいるが、リリスは人生初の寝不足の日々を頑張って過ごしていた。
「だって、一晩休んだ後に尖塔から出たときは夜が明けたばかりで星が綺麗に輝いていたのよ? その星を見上げながら『まるで殿下の美しい瞳のように〝暁の星辰〟が輝いていますね!』ってこれみよがしに大きな声で呟いたのに、皆スルーなの?」
「私はたった今、聞き流してしまいたいですけどね」
「まだ続いていたんですね、そのお話」
ようやく眠ったエミリオを抱いたまま、ソファに座ったリリスが先ほどの話の続きを口にすると、テーナからは冷たい言葉が、レセからは驚きを含んだ言葉が返ってきた。
「大事なことだもの。でもまあ、いいわ。諦めないから」
いらない決意をしたリリスは、腕の中の小さな息子を見下ろした。
あと少しすればベッドに寝かせられるだろう。
リリスは赤みがかった金色の柔らかなエミリオの髪を優しく撫でながら、幸せに満ちた吐息を漏らした。
「この子の髪は、これから濃くなるのかしら。それとも淡くなるのかしらね? 瞳の色は青色だけど緑になったりするのかしら……。皇后様がいらっしゃらなくて残念だわ」
「リリス様……」
ジェスアルドの小さな頃の話を聞きたい。
できればエミリオの誕生を一緒に喜んでほしかった。
ないものねだりでしかないとわかってはいるが、親になって初めて気付くこともあるのだ。
「また……この子がしっかりして色々と落ち着いたら、フロイトに里帰りしたいわね」
「さようでございますね」
「でもまずは陛下のご帰還をお待ちしなくちゃね」
「今年は雪が少なかったようですから、それほどにお時間はかからないのではないでしょうか?」
「……そうね」
今回の事件で確実にフォンタエ王国の関与の証拠が見つかったことで、急きょマチヌカンでフォンタエ国王と皇帝との会談が開かれることになったのだ。
皇太子妃誘拐の実行犯はコンラードと対峙する少し前に捕縛することができたのだが、実は中性的な顔立ちをした小柄な男であった。
その男からの供述と、何よりコンラードの皇宮内の部屋からフォンタエ国王の印が押された直筆の手紙が――コンラードが皇帝になるための後見となることを約束した手紙が発見されたのだった。
しかも、その手紙は数々のフォンタエ側とのやり取りの手紙と同様に、机の上に置かれていたらしい。
どうやらコンラードは初めからそのつもりでフォンタエ国王に文書での確約を要求していたようだ。
当然、フォンタエ国王は偽造されたものだと最初は突っぱねたらしいが、元ルータス王家の者たちからも供述を得たことで誰の目にも明らかになっていた。
全てはコンラードの暴走から露見したことではある。
しかし、ジェスアルドの心に重い枷を残したまま逝ったコンラードのことを、リリスは許せなかった。
だからコンラードの本当の目的――ジェスアルドへの歪んだ愛情については一生口にするつもりはない。
(絶対に、ジェドは幸せになるんだから!)
心ひそかにリリスは誓ったものの、ふんっと荒い鼻息が出てしまった。
途端に腕の中のエミリオがびくっとする。
「リリス様……」
「大丈夫よ。また眠ったみたい」
「交代いたしましょうか?」
「ううん。このまま寝かせるわ」
初めはどうなることかと思った育児も、ずいぶん慣れてきた。
驚くべきことに、エミリオが少しでも泣き声を上げると、リリスは夜中でも目を覚ますのだ。
またジェスアルドも起きてきてエミリオの世話を手伝ってくれる。
多忙を極めているジェスアルドを起こすのは忍びなく、別の部屋で眠ることを提案したのだが断られてしまった。
そして二人で夜中に授乳やおむつ替えに四苦八苦している話はレセたちによって広められ、ジェスアルドに対して皆はかなり親近感を抱くようになっているのだ。
リリスがそっとエミリオをベッドに寝かせたとき、フレドリックとベルドマが静かに部屋に入ってきた。
「おや、リオ殿下は眠ってしまわれたのですか?」
「ええ、たった今ね」
「では出直しましょうかの」
「あら、どうして? 私だけじゃ不満かしら?」
「リリス様もお休みになったほうがよろしいでしょう?」
「それが不思議と大丈夫なのよね。だからお茶にしましょうよ。ベルドマも一緒に」
小声で話すフレドリックはすっかり曾孫に甘い曾祖父のようである。
そして孫のように可愛がっているリリスの体を気遣う。
だがリリスは久しぶりにゆっくりお茶を飲みたくて、フレドリックとベルドマを誘った。
「ふむ。では、いただきましょうかな」
「ちょうどリリス様のお体にいい甘味を持ってきたのですよ」
「やった! ベルドマ、ありがとう!」
「幸せそうですなあ」
「だって、幸せだもの。それにこれからずっとそうあるように努力を続けるから、もっと幸せになるのよ。そして皆も幸せになってもらうの」
「さすがは慈愛の女神ですな」
「やーめーてー」
リリスの二つ名をフレドリックが口にすると、リリスは恥ずかしそうに耳を塞いだ。
ジェスアルドの新しい二つ名はちっとも広まらないのに、リリスの新しい二つ名はすっかり広まり浸透してしまったのだ。
こうしてリリスはフレドリックたちとエミリオを起こさない程度の声で会話を楽しみ、笑い合ったのだった。
その夜――。
寝室に入ったジェスアルドは、一人でぼんやり座ってるリリスを心配して駆け寄った。
そこでエミリオがいないことに気付く。
「リリス、どうした? リオに何かあったのか?」
「い、いいえ。エミリオは元気です。まだ小さいですけど順調に成長していると、今日の午後にベルドマがもう大丈夫だと言ってくれたんです。リオはいい子だから、きっと小さい私に合わせて小さく生まれてくれたんだって」
「そうか……。リオはリリスに似ていい子だからな」
「私も〝いい子〟ですか?」
「訂正する。最高の女性だ」
リリスの隣に腰を下ろしたジェスアルドは華奢な肩を抱き寄せた。
すると、リリスはジェスアルドに両腕を回して温かな胸に顔をうずめる。
「リリス?」
「ベルドマが……リオはもう大丈夫だから、今夜からは子供部屋で眠らせるって……」
「それはリリスがしっかり休めるようにだろう?」
「はい。わかっているんですけど、ジェドのためにも必要なんですけど……寂しいです」
「そうだな」
ジェスアルドにとって夜中に何度も起きるのは苦ではなかったが、リリスにとってはかなりの負担ではないかと心配していたので内心では安堵していた。
だが確かに、赤ん坊の独特の匂いがないのは寂しい。
あのか細い泣き声も、ちょっと力を入れただけで壊れてしまいそうな小さな体も。
「これから朝が待ち遠しくなるな」
「そうですね。私、今までにないほど早起きしますよ」
「それはすごいな」
「リオと一緒に過ごすためですから。そのためにも、早く寝ないとダメですね!」
そう言うが早いか、リリスはジェスアルドを押し倒した。
ジェスアルドもされるがまま倒れると、リリスを抱き上げる。
リリスは声を出して笑い、それからジェスアルドの胸に頭を乗せた。
「きっと、あっという間にリオは大きくなって、私たちの手を必要としなくなるんです」
「それは少し気が早くないか?」
「そんなことはないです。あっという間ですよ。すぐです。すぐ巣立っちゃうんです、子供は」
リリスが本気でぼやくと、ジェスアルドの笑いを抑えた振動が伝わってくる。
まだ片付いていないことはたくさんある。
これからしなければならないこともたくさんある。
それでもたった今、リリスは幸せに満たされていた。
「子供たちはあっという間に巣立っていきますけど、私たちはずっと末長く仲良く一緒にいましょうね」
「ああ、そうだな」
「それと、早く陛下も戻られるといいですね。リオのお爺ちゃんですから。それにアレッジオも。ジェドの子供の頃の話を聞きたいです」
「……今日、陛下から会談の出席を代われと手紙が届いた。孫に会いたいからと」
「ええ? マチヌカンにいらっしゃるんですか?」
「いや。もちろん嫌だと返事を書いた。それなら早く交渉を終わらせてください、と」
「陛下なら、本当に早く終わらせそうです」
「確かにな」
そう言って、リリスとジェスアルドは笑ったのだが、本当に皇帝は交渉を二日で終わらせてしまったのだ。
同じ舞台に立ってしまえば、皇帝とフォンタエ国王とでは役者が違いすぎた。
結果、フォンタエ国王は王太子に王の座を譲り、国政には関わらないことになったのだった。
* * *
あの事件から十数年後――。
エアーラス帝国はフロイト王国とともに、さらに豊かに発展していた。
新しい政策に、新しい特産品、新しい資源開発。
それらは二国だけでなく、隣国のフォンタエ王国までもを豊かにしたのだ。
そんなエアーラス帝国の皇帝には〝紅の死神〟という異名がある。
ただし、それは恐怖の対象ではなく、敬愛の対象である名前。
〝紅の死神〟は家族を愛し、民を守り、国を繁栄させてくれる誇り高きお方なのだと。
そして傍らにはいつも小さな〝慈愛の女神〟が寄り添い、弱き者にも手を差しのべ、世界中に笑顔を届けてくれるのだ。
だが人々は知らない。
紅の死神が慈愛の女神の蹴りで毎朝起こされ、急に目覚めてからの奇怪な行動に心配させられていることを。
こうして今日もまた、紅の死神は眠り姫の寝起きに悩まされるのだった。
これにて『紅の死神は眠り姫の寝起きに悩まされる』は完結です。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
また8月31日(金)に主婦と生活社様のPASH!ブックスより最終巻である3巻が発売されます。
よろしくお願いいたします(*´∀`*)ノ




