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この三日の間、女性がやってくる時間はだいたい一緒だったので、そろそろだろうとリリスは扉の横に隠れていた。
扉を開けて一歩足を踏み入れる場所に湯たんぽの陶器を割って置いてある。
足下に気を取られた隙に突き飛ばして、リリスが外に出るという計画だった。
一応の武器としてペンも握っている。
「もうすぐここから脱出してみせるからね。そうしたら美味しいものをいっぱい食べましょうね」
リリスはお腹を撫でながら、声をかけた。
お昼前からお腹の子はすっかりおとなしくなっていて心配だったのだ。
しかもいくらシーツを重ねているとはいえ、固い床板の上で寝るのは腰にくる。
リリスが痛む腰をさすっていると、足音が聞こえた。
それも数人のもので、急いでいるのか大きな音を立てている。
(助けに来てくれたんだわ!)
がちゃがちゃと鍵を開ける音が聞こえ、リリスは安堵して待った。
だが入ってきたのはコンラードで、割れた陶器をかまわず踏みしめて室内をさっと見回す。
リリスは気圧されてその場に立ちすくんでいた。
そして我に返ったときには遅かった。
「放して!」
「ダメだよ。これからが楽しい時間なんだから」
腕を摑まれぐっと引き寄せられたリリスは抵抗したが、すぐに従った。
抜き身の剣を目にとめたのだ。
「リリス!」
「ジェド!」
「ジェスだよ」
飛び込んできたジェスアルドとの感動の再会を、コンラードが邪魔をする。
剣をリリスの喉元に突きつけるコンラードの声は、今までになく弾んでいた。
「殿下、妃殿下は!?」
「妃殿下――っ!」
ジェスアルドに続いて入ってきたサイラスや近衛騎士たちは、拘束されているリリスを見て動きを止めた。
コンラードはまるで騎士たちを招き入れるように、リリスを捕らえたまま後ろへと後退する。
それは普通ならば逃げ場を失うだけなのだが、死ぬつもりのコンラードには関係ないのだろう。
むしろ見物人が増えて喜んでいるように思えた。
「よくここがわかったね、ジェス? 危うく妃殿下を取られちゃうところだったよ」
「ご親切にも手紙を届けてくれた者がいたからな」
「ええ? あの手紙の内容でここがわかったの? まいったなあ」
コンラードはおどけた調子で笑ったが、リリスを押さえる腕にはぐっと力が入る。
これは嫉妬なのだ。
ジェスアルドへの嫉妬ではない、ジェスアルドが愛情を向ける相手への嫉妬。
リリスはなぜか泣きたくなったが、それでも歯を食いしばってこの状況を抜け出す方法を必死に考えた。
ただの人質ならばまだ救いはある。
しかし、コンラードはリリスを殺すつもりで、自分も死ぬと決めているのだ。
声を出すと刺激するかもしれないと、リリスはジェスアルドに目で訴えた。
すると、ジェスアルドは紅の瞳を細めて微笑んだ。
途端にリリスの緊張が解けた。
大丈夫。絶対にジェスアルドは助けてくれる。
リリスが確信すると同時に、近衛騎士が部屋から三人出ていき、サイラスともう一人だけになった。
小柄なリリス一人には十分だった部屋も、ジェスアルドや近衛騎士たちがいては狭く感じてしまう。
おそらく動きやすさを優先させたのだ。
「何だ、見物人は多いほうがいいのに」
「コンラード、どうやって皇宮に入り込んだんだ?」
「親切な女性が入れてくれたのさ。女性はみんな秘密が好きだからね。そしてイケナイことが大好きなんだ。だから喜んで僕を馬車で匿ってくれたよ」
それを聞いて、リリスは納得した。
コンラードの戯れ相手の女性――その女性の身分が高ければ高いほど、門の出入りも容易くなる。
女性は遊びだと思って、座席の下に物入れがある馬車でコンラードを隠していたのだろう。
今までに何度もそうして皇宮に出入りしていたのかもしれない。
また今回はおそらく、出るのは難しくても入るにはそこまでの検めがなかったのだ。――コンラードの出奔がマチヌカンより知らされるまでは。
「お前のことはもっと早く決断すべきだったな。そして公表するべきだった。いくら非道と責められようとも」
「ジェスは優しいからねえ。だから僕は君が大好きなんだ」
「ならば、リリスを解放してくれないか?」
そう言って、ジェスアルドは一歩前に踏み出し左手を伸ばした。
その手にリリスが気を取られた瞬間、急に体を振り回されて驚く暇もないうちに甲高い金属音が耳に入る。
軽くめまいを覚えながらも音のほうへと目を向ければ、ジェスアルドが剣を落とし、右腕から血を流していた。
「ジェド!」
「妃殿下ごと僕を切ればよかったのに」
「……それほど剣を扱えるとは知らなかったな」
「切り札は最後まで隠しておかないと」
「同感だ」
ジェスアルドはリリスを盾にされたために怪我を負ったらしい。
だが、ジェスアルドもコンラードも平然としており、サイラスたちは剣を構えたまま隙を窺っていた。
どうやらコンラードがここまで剣の腕が立つとは誤算だったようだ。
リリスはジェスアルドの右腕からどんどん流れる血を呆然と見ていた。
もしこのままジェスアルドが死んでしまったら?
ひょっとして剣はもう握れないかもしれない。
せっかくアレッジオに護身術を教えてもらったのに何の役にも立たない。
様々な思いが頭の中を巡り、ふつふつと湧いてきた怒りに任せ、リリスは持っていたままのペンをコンラードの腕に勢いよく突きつけた。
「っつ!?」
「リリス!」
「この――っ!」
それは一瞬だった。
拘束していた腕が緩んだ隙に、リリスは思わぬ痛みに驚くコンラードの顎を後頭部で思いっきり突いた。
そしてそのままバランスを崩して倒れそうになったリリスを、ジェスアルドが左腕で引き寄せ右腕で抱きとめる。
そこに体勢を立て直したコンラードが剣を振りかざし、ジェスアルドは落ちていた剣を左手で器用に拾い上げ、受け止めて弾いた。
リリスの目には全てがゆっくりと映り、驚愕に見開かれたコンラードの脇から胸にジェスアルドの剣が走る。
その後はサイラスがコンラードの剣を落とし、もう一人の騎士がコンラードの足を切りつけた。
「リリス、大丈夫か?」
「わ、私よりもジェドの怪我が!」
「これくらいはかすり傷だ。それよりも――」
「リリス様!」
「ベルドマ?」
外で待機していた騎士たちが部屋に入ってくる中で、ベルドマが入ってきたことにリリスは驚いた。
ジェスアルドの傷は騎士の一人が手当てを始め、ベルドマは持っていたカップの蓋を外し、リリスに何か不思議な飲み物を渡す。
「リリス様、お疲れを癒す薬湯です」
「ありがとう、ベルドマ」
「どこかお体が痛む箇所や強く打ちつけた箇所などございませんか?」
「今のところは大丈夫よ。ちょっと腰が痛いだけで」
どうやらすぐにリリスを診られるようにとジェスアルドたちに同行したらしい。
薬湯はまだ温かくて甘く、リリスの心を少し落ち着かせてくれた。
そのとき、床に倒れたコンラードが呻いて手を振り上げた。
「っ、やめ、ろ……」
コンラードは救命措置をしようとした騎士たちを振り払おうとしていたが、その手に力はもうない。
そこに、簡単な手当てを終えたジェスアルドが歩み寄った。
「コンラード……」
「僕は……ジェスに、殺されるんだ……」
「馬鹿なことを言うな。お前は裁きを受けなければならない。だから先に手当てを受けろ」
ジェスアルドはコンラードの傍らに膝をつき、応急処置を継続しようとした。
コンラードの傷の具合はわからなかったが、周囲の様子からかなり深刻な状態ということはわかる。
それなのにコンラードはジェスアルドの手さえも振り払った。
「ちょっと! いい加減に我が儘はやめなさいよ! ジェドはね、優しいからあなたみたいな最低な人でも見捨てられないのよ!」
「……知ってるよ……ほんと…小さいのに、予想外の女だな……」
「体の大きさは関係ないでしょ!」
我慢できずにリリスが怒鳴りつけると、コンラードは息を切らしながら反論する。
それにまた負けじと言い返すと、ふっと笑いのような吐息が聞こえた。
「小さくても何でも、最高の女性だ」
「ば…か、らし……」
それきりコンラードが声を発することはなく、ジェスアルドもすでに手を止めていた。
リリスの視界を塞ぐようにベルドマが前に進み出て、手を差し伸べる。
「リリス様、ひとまずお部屋に戻りましょう。それからゆっくり診察させてくださいませ」
「……そうね」
その声に、ジェスアルドがはっと振り向く。
「私は大丈夫ですから、殿下はなすべきことをなさってください」
「わかった」
リリスを心配してくれるのはありがたいが、やはりジェスアルドは皇太子であり、皇帝が留守にしている今は君主代理としてやらなければならないことがあるのだ。
今回の事件についてもどう采配を振るうかで、ジェスアルドの評価は大きく変わるだろう。
ベルドマに支えられて部屋から出るリリスの耳に、ジェスアルドが騎士たちに指示する声が聞こえた。
「妃殿下、お足元にお気をつけください」
「ええ、ありがとう」
初めて見るこの部屋への階段はかなり急で狭く、ここまで気を失ったリリスをどうやって運んだのだろうと疑問に思うほどだった。
また世話係の女性といい、メイドに扮した人物といい、共犯者はまだいるのだ。
リリスは一歩先に下りたベルドマの手を借りながら、片手を壁について一段足を下ろした。
リリスの背後とベルドマの先には騎士がいつでも支えられるようにと待機してくれている。
そしてもう一段下りたところで、いきなりパシャンと水が弾けた音がした。
驚いてリリスが足を止めると、ベルドマが静かに告げた。
「……破水されたようですね」
「え……?」
リリスはベルドマの言葉にさらに驚き、唖然としたのだった。




