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「……どうしてあなたがここにいるの?」
「やあ、妃殿下。ご機嫌麗しいようで何より」
「麗しくなんてないわ。私は怒っているの。だから早く質問に答えて、コンラード」
厚手の綿の上着を着て、陶器製の湯たんぽを抱いたリリスは座ったまま、入ってきたばかりのコンラードを睨みつけた。
暖炉のないこの部屋では、小さな天窓から射し込む光と湯たんぽ、そしてすり切れた数枚のシーツと用意された衣服でしか暖を取れない。
それなのにコンラードが冷気を連れてきたのだ。
とはいえ、使用人の姿をした薄着のコンラードも寒そうに見える。
「ご自分のことよりも、私のことを気にしてくださるなんて嬉しいですね。ですが、ご心配には及びません。私は自分からここへやってきたのですよ。もうずっと、使われていなかったこの部屋を見つけたのは私ですから」
「……公爵邸の地下倉庫の通路を見つけたように?」
「ああ、ご存じでしたか。あれは私が七歳のときに見つけたのです。あそこで過ごすのにも退屈していましたからね」
リリスの質問に答えるコンラードはとらえどころがなく、笑顔には底知れぬ恐ろしさが感じられた。
それでも怯むものかと、リリスは質問を続ける。
「あそこで過ごすって……地下倉庫で? 遊び場にしていたの?」
「遊び場? そうですね。その言い方もなかなかいい。幼いときから何度も、何日も、あそこに閉じ込められていましたからね。そのお陰か、私は夜目がきくのですよ」
「閉じ込められて……? でもあなたは体が弱かったと聞いたわ」
「それを妃殿下は信じるのですか? あなたも本当は健康なのに?」
「え……」
確信を持った言葉に驚き、リリスは否定することができなかった。
そんなリリスを見てコンラードは楽しそうに笑う。
「トイセンやブンミニで元気に歩き回り、灰が舞う窯へ何度も出向いていたとか? それにここ最近はその大きなお腹を抱え、この寒さの中で元気にお散歩とはね」
「……あなたはいたずらっ子だったの? それで地下に閉じ込められたとか?」
「これはまたずいぶん可愛らしい発想ですね。残念ながらそうではありません。あの男は私が目障りだった。いや、殺してしまいたかったのですよ」
「まさか公爵が?」
「そう、そのまさかです。なぜなら私はあの女の当時の愛人に似ていたからです。この髪も瞳の色も幼い頃はもっと淡い色でしたのでね」
そう言って、コンラードは自分の髪の毛をさらりと梳いた。
すると、夕暮れ時の柔らかな光に薄い茶色の髪が紅く輝く。
「あの女は生まれたばかりの私を見ると、さっさと領地に隠れてしまったんですよ。それで私一人があの男の怒りを受け止めなければならなかった。ずうっとね。ですがある日突然、皇后様が屋敷に訪ねていらっしゃったのです。ルータス王国との戦で公爵は留守にしていて、私が寂しい思いをしていると勘違いされてね」
「皇后様が……」
「公爵が留守にしている間、ちょっとした自由を満喫していた私を目にした途端、あの方はラゼフ一世にそっくりだとおっしゃった。皇宮に飾ってある初代王の――ラゼフ一世の肖像画はかなり年を取ったものでしょう? 若かりし頃のものが物置に仕舞われていたらしく、皇后様はそれをご覧になっていたのですよ。そしてせっかくだからと私に贈ってくださった。お見せできないのが残念です。ちょうど以前来訪したフロイトの使節団の代表――アルノー・ボットによく似ていたのに」
「――では、ぜひ見てみたいわ。私がお屋敷にお邪魔できないのなら、持ってきてくださればいいのに」
「肖像画はなかなかに大きいものですからね。今の私は人目を忍んで行動しなければならないので、残念ながらご希望には添えないのですよ」
コンラードがずっと病弱だという理由で公爵邸に閉じ込められていたのは、公爵夫人と愛人の子供だと思われていたからなのだ。
その後、皇后がコンラードに強引に面会したことによって、公爵は実子だと認めたのだろう。
今さら否定できなかったのかもしれない。
リリスはコンラードの生い立ちに興味が湧いたが、それ以上にこの場所から逃げなくてはと何か方法はないか考えた。
だが簡単にはいかない。
ここが皇宮内にある一番古い尖塔だということは、あのメイドとは違う世話係の女性から聞き出していた。
本当ならばリリスは皇宮の外に連れ出されるはずだったが、あまりに早く露見したために諦め、用意された代案に従ったのだと、悔しそうに言っていたのだ。
どうやら女性はフォンタエに雇われた傭兵のようなもので、リリスには懸賞金がかけられているらしい。
ちなみにジェスアルドや皇帝の暗殺になると、リリス誘拐の倍額になるそうだ。
しかし、多くの者が過去に何度も挑戦したが誰も成し遂げられず、リリス誘拐も皆が諦めていた。
それが新婚旅行のときはリリス一人で地方の街に滞在するというチャンスが巡ってきたことで、サウルは実行したのだ。
結局は失敗に終わり、さらに〝紅の死神〟の名は恐れられるようになったと聞いて、リリスは名前を訂正したい衝動を抑えた。
今はそれどころではない。
ジェスアルドもテーナもレセも他の皆もリリスを心配し、ずっと捜してくれているはずなのだ。
「皇宮内は今、とても警戒しているんでしょう? それなのによく入って来られたわね」
入ってくることができたのなら、出ることもできるかと思い話を振ると、コンラードはとても嬉しそうに微笑んだ。
「ずっとこんな機会を待っていたんですよ。皇帝もですが、何より厄介なのはアレッジオでしたからね。彼がルータス王国の残党を追って皇宮を留守にしている今だからこそ、私は動けるのです。秘密の通路を使ってね」
「……秘密の通路なら殿下もご存じのはずだわ」
「ジェスが知っているのは主に外へ繋がる道です。こちらの古い棟にはすぐに行き止まりになる無意味な通路が多いですからね。全部把握しているのは、僕とアレッジオくらいなんだ。でもほら、隠れるにはもってこいでしょ? もう何年も使っていなかったけど、アレッジオがいない今なら使い放題だよ」
「楽しそうね?」
「楽しいよ! 探検は僕の唯一の遊びだったんだ。新しい発見はわくわくするよね!」
コンラードの話し方がいつの間にかずいぶん幼いものになっている。
その無邪気さが気味悪く思え、リリスはお腹を守るように湯たんぽごと抱えた。
「僕の遊びに付き合ってくれる人に秘密の通路を教えてあげたんだけど、大切な通路の一つを埋めてしまったんだ。酷いよね?」
「……ポリーに星の薬を渡したのは、その人なの?」
「え? 違うよ。僕に決まってるじゃないか。女って馬鹿だよね。愛って言葉にすぐ騙されるんだから」
「ど、どうしてそんな……ポリーに薬を渡したの?」
「楽しいからさ。ぞくぞくするんだよ。あなたが苦しめばジェスが苦しむからね」
「そう……」
本当はもっといろいろと訊きたかったが、リリスは簡単な返事だけで済ませた。
どう見てもコンラードは異常で、何をきっかけに敵意を向けられるかわからなかったのだ。
今はお腹の子を守ることに全力を尽くす。
リリスは一番に優先すべきことを考え、これ以上コンラードを刺激することをやめた。
そんなリリスを前に、コンラードはかすかに首を傾げてふっと笑う。
「さて。予定は狂ってしまったけど、他にどうやって楽しむか考えてくるよ。それじゃあね」
コンラードは楽しげに告げると、手を振って扉から出ていってしまった。
そしてガチャリと鍵がかかる音がする。
リリスはコンラードの言う「他」を考えないようにして、温くなった湯たんぽを強く抱きしめた。




