148
ジェスアルドはリリスとの散策から戻ると、執務室で黙々と仕事をこなしていた。
それから昼食のためにほんの少しの休憩をとりながら、夕方の散策のことを考える。
今日はいつも以上に冷え込んでいるので、もう外には出ないほうがいいだろう。
だが皇宮内でリリスがまだ足を踏み入れていない場所は、使用人の区域以外にはもうないはずだった。
(執務棟まで隅々歩いて見て回っていたからな……)
あのちょっとした騒動を思い出してにやりと笑ったジェスアルドだったが、いきなり剣を摑んで立ち上がった。
頭の中にリリスの悲鳴が聞こえたのだ。
「殿下?」
何も変わりはない。
驚いて問いかけるフリオには答えず、気配を探っても皇宮内で何かが起こっているようには感じられない。
それでもジェスアルドは剣を握ったまま執務室から走り出た。
「殿下!?」
フリオの声を置き去りに、近衛騎士が追いかけてくるのもかまわず、居住棟の階段を駆け上がる。
途中ところどころに立つ衛兵は、持ち場を絶対に離れない者、応援を呼ぶ者、ジェスアルドの後を追う者と訓練どおりの動きをしていた。
しかし、それは今だ。
たった今、ジェスアルドが動くまで何事もなかったのだ。
ただの勘違いであってほしい。
気が触れたと言われようが、呪われていると言われようが、リリスが無事ならそれでよかった。
皇太子夫妻の部屋の前にはそれぞれ衛兵が立っていたが、ジェスアルドが起こした騒ぎを聞きつけてか、警戒して剣の柄に手をかけている。
衛兵たちは姿を現わしたのがジェスアルドだったことに一瞬ほっとしたが、次いで困惑に変わり扉へと振り返った。
ジェスアルドは衛兵たちを押しのけるようにして手前の自室に入ると、そのまま寝室に向かった。
部屋にいるはずのデニスの姿が見えないことに、さらに胸が騒ぐ。
リリスの寝室の扉にかけた手は震えていた。
何の気配もしないが、それでもジェスアルドは音を立てないようにそっと開ける。
「――リリス!」
誰もいないベッドを目にして部屋へと飛び込んだジェスアルドは、リリスの名を呼んだ。
ひょっとして起きて居間にいるのではないかと。
だが、部屋の隅で椅子に座ったままのテーナがそれを打ち消す。
「テーナ! 何があった!?」
テーナに駆け寄り呼吸を確かめ、声をかけ、揺り動かしたが反応はない。
この騒ぎに居間からレセやベルドマが駆けつけショックを受けたことから、リリスがこの場にいないことをジェスアルドは悟った。
「今すぐ門を閉じろ! 誰も何も外に出すな!」
ジェスアルドの命令に、後を追って来ていた近衛兵二人が駆け出す。
そのとき、近衛隊長のサイラスが寝室へと入ってきた。
「殿下、妃殿下は――!」
「サイラス、今すぐ皇宮内を捜せ! お前は念のためにこの部屋を、お前は私の部屋を――」
「殿下! デニスです!」
リリスが消えたことを瞬時に理解したサイラスに命じると、ジェスアルドは傍にいた衛兵たちに次々と指示を出していた。
そこに別の衛兵の声がジェスアルドの部屋から聞こえて駆けつける。
レセは動揺もあらわにテーナに声をかけ続け、ベルドマは脈を測り診察を始めた。
そしてデニスは洗面室で意識を失っていた。
「デニス、起きろ! 何があった!?」
ジェスアルドが激しくゆすぶれば、デニスは目をぎゅっと瞑り、苦しそうに呻く。
その背後でサイラスがジェスアルドの代わりに次々と指示を出していた。
「……で、んか……メイド……見たことのな、いや、……によく似て……」
目を閉じたまま、それでもデニスはかすれた声で訴えた。
それを聞いて、デニスを発見した衛兵がはっと息を呑み、次いで報告した。
「殿下、シーツ交換のメイドです! 殿下がいらっしゃる少し前に通しました! いつものメイドだと思ったのですが――いえ、とにかくメイドはカートを押しておりました。ひょっとしてそこに妃殿下が――」
「その者の外見は!?」
「女性としては平均的な身長に細身でこげ茶色の髪、年齢は二十歳前後です!」
「サイラス、その容姿に当てはまる男女の身柄をひとまず拘束してくれ」
「かしこまりました」
ジェスアルドは遅れてかけつけたフリオにデニスを任せ、再びリリスの寝室へと入った。
するとテーナはベルドマに介抱され、白湯を飲んでいる。
テーナが途切れ途切れに言う内容もデニスと同様で、メイドにいきなり襲われたらしいことがわかった。
途端にレセは部屋を飛び出していく。
その後すぐに、リネン室でカートが発見されたが、メイドの行方は依然として知れなかった。
――二日後。
未だにリリスは発見されず、ジェスアルドは焦燥と後悔に苛まれていた。
まさか二度までもリリスが攫われるなど、しかも今回はジェスアルドの目前で起こったようなものなのだ。
本当ならばジェスアルド自身も捜索に加わりたかったが、執務が重なりそれも叶わない。
この寒さの中、身重のリリスが薄い夜衣一枚でいるかもしれないと思うと、ジェスアルドは眠ることもできずに執務室で夜を明かしていた。
たった二日とはいえ一睡もしないジェスアルドに、フリオや周囲の者たちは心を痛めていた。
自分たちが不甲斐ないばかりに妃殿下は攫われ、未だに見つけることができないのだ。
もし皇帝陛下や国務長官であるアレッジオがいらっしゃれば――。
そう考えては己を叱咤し、一刻も早く妃殿下をお救いしなければと懸命に捜索を続けていた。
そしてそれは、テーナやレセも同様である。
テーナは自分の不用意さを責め、あのときせめて大声を上げることができていればと後悔し、同じ痛みを知るレセとともに嘆いていた。
だが何よりも心配なのはリリスの体なのだ。
本当は病弱でなく、妊娠経過も順調とはいえ、この寒さの中連れ去られるなど、体に負担がないわけがない。
二人もまた眠ることなどできず皇宮内を捜しまわり、その姿が皆の涙を誘い、誰もが捜索に加わっていた。
もちろんリリスの捜索は皇宮外にまで広げられ、帝都から出るにも検問を受けなければならなくなっている。
また皇宮の門は一つを除いて未だに閉じられたまま、人の往来や物資の運搬も厳しく検査されていた。
だがリリスが連れ去られた時間帯に通った人物や馬車などは徹底的に調べられたが、未だにその痕跡はなく、手掛かり一つ見つけられていない。
ただ一つだけ、捜索を開始した早い段階でいつもジェスアルドの部屋に出入りしていたメイドの死体が、彼女自身の部屋から発見されていた。
いつもありがとうございます。
活動報告にお知らせがあります。
よろしくお願いします(*´∀`*)ノ




