133
まだリリスがフロイト王城で過ごしていた頃。
ときどき部屋からこっそり抜け出して外で日向ぼっこをしていると聞こえてきた、下働きの女性たちの会話で〝星の薬〟という名前は訊いたことがあった。
だがリリスは、女性たちの雰囲気からあまりいいことではないのだと察し、テーナたちに訊ねることはなかったのだ。
それが今回〝星の薬〟の内容を詳しく知って、リリスはショックを受けていた。
そんなリリスの耳に、ジェスアルドの鋭い声が聞こえる。
「堕胎薬だと?」
「さようでございます。ただし、私ども産婆も薬師も本来は薬などとは呼びたくもない代物でございます。ときには母体の命さえ脅かすものですから、まともな薬師は手元にさえ置いておりません。しかし、どうしても必要とする女性がいるのも事実ですので……。一部の女性たちの間でだけ密かに伝えられているのです」
怒りを含んだジェスアルドの声にも、ベルドマが怯んだ様子はない。
ジェスアルドはわずかに考えてから再び問いかけた。
「……では、それを私が飲んだらどうなる? 大量に飲んだとして」
「健康な男性でしたら、運悪くお腹を壊す程度でございます」
「健康な……子を身籠っていない女性なら?」
リリスはジェスアルドとベルドマの問答を黙って聞いていた。
これは非常に重要なことなのだ。
怖くはあるが、逃げるわけにはいかない。
リリスがぎゅっと膝の上で手を握りしめ、ベルドマの答えを待っていると、ジェスアルドの温かな手がそっと重ねられた。
それだけで、リリスは勇気が湧いてくる。
「同様にお腹を壊す程度かと……」
「運が悪くてか?」
「はい」
「それでは、体の弱い……よく寝込む女性なら?」
「体にはかなりの負担になるでしょうが、的確な処置を行えば命を脅かすほどではございません」
「そうか……」
そのままジェスアルドは黙り込んでしまったが、考えていることはリリスにもはっきりわかった。
おそらく答えはもう出ているが、リリスを気遣って口にできないだけなのだ。
それならばリリス自身がはっきりさせるべきだろう。
「要するに、スープにそれを混入した人物は――少なくとも指示した人物は、私が妊娠していることを知っているんですね。しかも……」
リリスはそこまで言って、ふっと息を吐いた。
これまでにないほど心配に顔を曇らせるジェスアルドに、リリスは微笑んで安心させる代わりに真剣なまなざしを向ける。
途端にジェスアルドも表情を改めた。
「殿下、これは警告ですよね? 今回、私を殺そうと思えば殺せたはずです」
「――そのとおりだ」
「無味無臭の毒だってあるのに、わざわざにおいのするものを私が慣れ親しんでいるセブの料理に混入するなんて……。警告の意味がわかりません。私を怖がらせてこの国から追い出しても、今はもう殿下の御子を身籠っています。犯人はそのことさえ知っているのに……。目的は何でしょうか?」
「それは――」
リリスの問いに答えかけたジェスアルドを遮ったのは、控室からのノックの音だった。
ジェスアルドはリリスから手を離して剣を手にすると立ち上がったが、それほどに警戒はしていない。
レセが誰何すれば答えたのはメイドのアニータで、ジェスアルドが入室を許可する。
「失礼いたします」
入ってきたアニータはリリスの無事を確認して一瞬ほっとしたように顔をほころばせたが、すぐに表情を引き締めると用件を述べた。
「その……皇帝陛下が今すぐ妃殿下にお会いしたいと――こちらへのご訪問をご希望なさっておられますが……?」
アニータの声にはかすかに困惑が滲んでいる。
それも当然だろう。
このような時間に皇帝が皇太子妃の部屋に訪れるなど、大事が起きたと皆に知らせるようなものだ。
そのため、ジェスアルドは皇帝のあり得ない要望に顔をしかめた。
アニータもこの反応がわかっていたのか、居心地悪そうにしている。
リリスはそんなジェスアルドに、今度こそ安心させるように笑いかけた。
「殿下、私は大丈夫ですから、陛下のご希望にお応えしましょう」
「だが……」
「陛下はこの子のお爺ちゃんなんですもの。心配してくださるのは当然です」
「お爺ちゃん……」
ジェスアルドはまるで初めて聞いた単語のように、目を丸くしてリリスの言葉を繰り返した。
アニータが驚いているのは、おそらくジェスアルドの少々気の抜けた表情のせいだろう。
それとも、ジェスアルドに対するリリスの物怖じしない態度のせいかもしれない。
すっかり慣れているテーナとレセは、皇帝がこの部屋に訪れるための準備を始めた。
ベルドマはスープ以外の料理に毒などが混入されていないか調べている。
「本当にいいのか?」
「はい」
すぐに気を取り直したジェスアルドの表情は厳しい。
ジェスアルドの問いは皇帝を呼ぶことではなく、これからリリスを取り巻く状況が変わることに対しての問いなのだ。
それでもリリスは微笑んだまま、はっきりと頷いた。
「……では、陛下をお呼びしてくれ」
「かしこまりました」
アニータが出ていくと、ベルドマが振り返りリリスをじっと見つめた。
何か他にもあるのかと不安になったリリスだったが、ベルドマは穏やかな笑みを浮かべる。
「妃殿下、私が調べた限りでは他にはもう何も混入されてはいないようです。お顔の色も戻っていらっしゃいますので、特にお体に違和感がないようでしたら、今夜はこのまま様子をみられるのがよろしいかと思います。もちろん何か異変がございましたら、いつでもお呼びください。また、明日も念のために参りますので」
「ええ、そうね。そのようにお願いするわ」
ジェスアルドが素早く駆けつけてくれたお陰で気持ちも落ち着いた今、リリスは体のどこにも不調がないように思えた。
そのため、ベルドマの提案に素直に頷く。
こういうことは初めて妊娠したリリスよりも、ベルドマのほうが詳しいのだから任せるべきだ。
ベルドマはリリスが了承したことを受けて、今度はジェスアルドに向き直った。
「殿下、私はこのまま陛下とのご面会にも立ち会わせていただいたほうがよろしいでしょうか?」
「ああ、そうだな。おそらく陛下は専門家も連れてくるだろうから、詳しくは頼む」
ジェスアルドとベルドマの会話を、リリスはテーナに身なりを整えてもらいながら聞いていた。
だが、その内容にリリスが首を傾げると、ジェスアルドも気付いて説明してくれる。
「特に公にはしていないが、陛下の従僕の一人は毒の専門家なんだ。彼は誰よりも毒に詳しく、そして毒に強い」
「毒に、強い?」
「彼の体はかなり毒に耐性があるんだ。どうやら幼い頃から多くの毒を飲んできたからだそうだが……。それも誰に強制されたわけではない、ただの趣味らしい」
「え……」
ただの趣味で幼い頃から毒を飲むなど、いったいどんな人物なのかとリリスは驚いた。
そんなリリスの反応にジェスアルドは苦笑を漏らし、苦々しげな表情になる。
「我々の食事はまず彼が毒見をしている。それから陛下には彼自身が、我々には信用できるメイドや従僕が食事を運んでくるのだが……今回は……」
「まさか……」
ジェスアルドは言葉を濁したが、意味することはリリスにもしっかり伝わった。
テーナやレセもはっと息を呑む。
室内に重い沈黙が垂れこめたところに、派手なノックの音が響き、応える間もなく開かれた。
「アマリリス! 可愛い我が義娘よ! 大丈夫なのか!?」
遠慮も何もなく部屋へと入ってきたのは皇帝だった。
この方を止められる者は誰もいないものね、と思ったリリスの耳に、ジェスアルドの大きなため息が聞こえたのだった。




