131
「リリス様!?」
レセだけでなく、テーナさえも悲鳴じみた声を上げてリリスに駆け寄ってきた。
しかし、リリスは二人にはかまわず、再び水を口に含んでナプキンに吐き出す。
「レセ、洗面器を!」
「は、はい!」
「リリス様、お気になさらず全て吐き出してください!」
テーナの言葉に、リリスはさらにもう一度水を口に含んでから首を振り、スープを指さした。
途端に、テーナははっとしてスープ皿を手に取ると鼻がつくほどに近づけ、青ざめる。
そのときレセが洗面器を持って戻り、リリスはそこへ水を吐き出した。
「……つわり、じゃないわ。そのスープが……。でも、飲んではいないと……思う」
「お早めに気付いてくださってよろしゅうございました。レセ、リリス様をひとまず長椅子へ運んでちょうだい」
「は、はい」
どうにか説明したリリスを、レセはテーナに指示されたままに椅子から抱き上げる。
テーナは新たに水を注いだグラスと洗面器を持って後を追い、レセがそっとリリスを下ろすとすぐ傍に跪いた。
「リリス様、ご気分は?」
「大丈夫よ。口の中の違和感ももうないし……」
「では、念のためにもう一度お口をゆすいでください」
「……わかった」
リリスは心配するテーナを安心させるために、言うとおりに差し出されたグラスを口へ運んだ。
そこにレセが新たな洗面器とタオルを数枚持ってやって来る。
どうやら洗面器にはお湯が入れられているようだ。
「レセ、今すぐメイドのアニータに、殿下をお呼びするように言って。そのままベルドマを急いで呼んできてちょうだい。できる限りの毒消しを持ってくるようにと。でもおそらく、星の薬だと伝えて」
「わかりました!」
レセは洗面器を床に置き、タオルをテーナに渡すと急ぎ控室へ戻っていった。
普段、リリスの身の回りの世話はテーナとレセが担っているが、部屋の掃除などの細々としたことはメイドが担当している。
リリスのメイドたちは特に身元のしっかりしている者ばかりだが、中でもアニータはアレッジオが派遣してきた護衛でもあるのだ。
そのため、この状況を騒ぎにせずに速やかにジェスアルドに伝えるにはもってこいの人物だった。
内密に事を運ぶためというよりは、騒ぎのせいでややこしくなり、対応が後手にならないための処置である。
しかし、テーナにとってはどちらにしろ心配で仕方なかった。
その心情を読み取ったように、リリスはテーナの頬に片手を当て、顔色が悪いながらも微笑んだ。
「私は大丈夫、テーナ。ちょっと驚いて元気が出ないだけだから。さっきも言ったとおり、喉を通してはいないし、今のところどこにも異変はないわ。テーナも知っているでしょう? 私は少々傷んだものだって食べても平気なこと」
「リリス様……」
リリスが慰めようとしていることがわかり、テーナは笑おうとしたが、笑うことはできなかった。
自分の不甲斐なさに涙が込み上げてくる。
「申し訳ございません、リリス様。本来なら、先に私が気付くべきでしたのに……。本当になんて愚かな……申し訳ございません」
「ううん、テーナが悪いんじゃないわ。普通なら気付かないもの。あのスープは香草も入っているし、鼻で飲むくらいに近づかないと、いつもの匂いじゃないってわからないわ」
「ですが——」
否定しても納得しないテーナの頬をリリスはつねった。
先ほどはかなり落ち着いて対処していたが、どうやらテーナは動揺しているらしい。
リリスは驚くテーナに微笑みかけて、体を起こして座り直した。
「食事に何か入れられるなんて話、聞いてはいたけど初めてで、私の対応が悪かったの。飲む前にいつもと匂いが違うって思ったのに、きっと妊娠しているせいだって考えてしまったから。ちゃんとテーナに確認するべきだったわ」
「それでも、私の認識の甘さが招いたことです」
「じゃあ、それならそれで、これからは気をつけましょう?」
「……はい」
テーナが自分を責めるのはやはり仕方ないことで、リリスは折れることにした。
フロイトでは一応リリスも兄たちと一緒に、毒に慣れることはしていた。
ただ他国に嫁ぐ予定のなかったリリスは――ダリアもだが、兄たちとは違ってそこまで本格的ではなく、またリリス自身の考えも甘かったのだ。
テーナもどうやらこれ以上はリリスの負担になるだけだと気付いたらしく、素直に頷いた。
そこに、勢いよく扉が開かれ、寝室に繫がる小部屋からジェスアルドが駆け込んでくる。
「リリス! 大丈夫なのか!?」
「殿下……」
ジェスアルドは何事かが起きたのだとわかるほどに、血相を変えている。
これでは内密に伝えたことも、わざわざジェスアルドの部屋を通って入ってきた意味もないのではないかと思いつつ、リリスはどうにか微笑んだ。
しかし、大丈夫だと思っていたのに、ジェスアルドの顔を見ると急に涙が込み上げてくる。
「気分が悪いのか? 腹が痛いのか?」
どうやらジェスアルドは詳しく聞かされていないらしい。
とにかくリリスの一大事だとだけ、レセがアニータに伝えたのだろう。
そして、長椅子の周囲に置かれた洗面器やタオルを目にして、ジェスアルドなりに答えを出したようだ。
「ジェド……スープが……」
「――毒を盛られたのか!?」
長椅子に座るリリスの足元に跪いて顔を覗き込んでいたジェスアルドは、リリスが指さす先に視線を向け結論付けた。
それからリリスの顔色をじっと観察し、体温を計るように頬に手を触れ、もう一方の手で脈をとる。
テーナはジェスアルドが現れてから、数歩下がってじっと指示を待っているようだ。
ジェスアルドはリリスの顔色や体温、脈拍からひとまず大丈夫だと判断したのか、わずかに緊張を緩めた。
「リリス、スープをどれくらい飲んだんだ?」
「味がおかしいと思ってすぐに吐き出したので、一滴ほども飲んでいないと思います。何度も口をゆすぎましたし……」
「そうか……」
ほっと息を吐いたジェスアルドは立ち上がると、テーブルに歩み寄り、スープ皿ごと持ち上げて鼻に近づけた。
「あの、口に入れる直前で匂いがおかしいとも本当は気付いたんですけど、妊娠しているせいかと思って……ごめんなさい」
顔をしかめるジェスアルドを目にして、リリスは自分の迂闊さを謝罪した。
すると、後にテーナも続く。
「殿下、大変申し訳ございません。私どもが先に気付くべきでした。確かに鼻を近づければ、いつもと匂いが違うと気付きましたのに。どのような処分でもお受けする覚悟でございます」
「テーナ! 何を言ってるの!? ダメよ!」
テーナの言葉を聞いて、リリスは今日一番に衝撃を受けた。
そんなことは許さないとばかりに声を上げたリリスだったが、ジェスアルドはスープ皿を置くと首を振る。
「殿下、テーナもレセも、何も悪くありません! だって――」
「心配しなくても、二人に処罰を与えようなどとは思っていない。それよりも、リリス……」
「は、はい」
テーナを庇おうとしたリリスは、ジェスアルドの冷静な言葉に安堵したものの、次に何を言われるのだろうと思わず身構えた。
しかし、告げられた内容は予想外のもの。
「あなたもテーナも、匂いが違うことに気付いたと言うが、私には香草の匂いが強くてわからない。これはセブが作ったものだろう? だとすれば、リリスもテーナもすっかり慣れ親しんでいるからこそ気付いたんだ」
「……では、他の人では気付かないということですか? ですが口に含めばさすがに――テーナ!?」
ジェスアルドの言うとおりスープには香草がふんだんに使われているので、普通なら匂いではわからなかったかもしれない。
だが味ではさすがに気付くのではないかと言おうとしたリリスは、テーナがスープ用のポットから別のスプーンでスープをすくって口に入れたことで驚きの声を上げた。
テーナはナプキンで口を拭い、心配するリリスに笑ってみせる。
「驚かせてしまって申し訳ございません、リリス様。味を確認したかったものですから」
「やはり違うのか?」
「はい。私たちほどではなくても、この味ですと誰でも違和感を覚えるかと思います。それにおそらくこれは――」
焦るリリスとは違って、ジェスアルドは冷静にテーナに問いかけた。
答えてテーナは頷き、自分の見解を述べていたのだが、そこに新たな人物が入ってきたことによって途切れてしまった。
「リリス様! ベルドマを連れて参りました!」
どうやらレセは内密に事を運ぶよりも、素早い対応を選んだらしい。
心配に青ざめたレセに腕を摑まれたベルドマは、今にも倒れそうだった。




