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「フウ先生、こんにちは!」

「こんにちは、リリス様。本日はご機嫌麗しいようで何よりですな」


 午後になって、フレドリックが居間に入ってくるなり、リリスはご機嫌で迎えた。

 フレドリックがにやりと笑って挨拶を返すと、リリスは目を丸くする。


「あら、そんなにわかりやすい?」

「むしろ、ご自覚がないことに驚きですが……はっきりされたのですか?」

「いいえ、まだよ。でも、殿下ができるだけ早く手配してくださるって。とはいえ、私は気付くのが遅かったし最初は半信半疑だったけど、今は確信に変わっているの」

「それはようございました。そういうことは女性の神秘とでも言うべきか、私ども男にはわからないことですからなあ。では、殿下はお喜びになったのですね?」

「もちろん、とても喜んでくれているわ。まあ、初めは驚いたみたいだったから、私も思わず殴って……叩いてしまったけどね」

「はい!?」


 リリスの返答に驚きの声を上げたのはテーナとレセだった。

 起きてからずっと浮かれているリリスを見ていて、昨夜は上手くいったのだろうと、二人は勝手に思っていたのだ。

 それがまさかの殴った発言。

 表現を柔らかく「叩いた」などと言い直してはいたが、間違いなくテーナもレセも、もちろんフレドリックも「殴った」とはっきり聞いた。

 ポットを持ったままレセはぽかんと口を開け、テーナはこめかみを揉んでいる。

 ただフレドリックは楽しげに笑い、しまったといった様子のリリスに問いかけた。


「いったい何があって、そのような事態に?」

「えっと、それは言えないわ。だけど心配はいらないわよ。今はとっても幸せで、今朝だって殿下は私を心配して起きるまで待っていてくれたんだから」

「まあ、喜びも人それぞれ。驚きも人それぞれですからの。お幸せそうで何よりです。では、本題に入りましょうかの」

「ええ、もちろん」


 フレドリックの言葉を合図に二人はテーブルを挟んで座り、奉仕院についての話を進めた。

 奉仕院の建設はすでに始まっており、最近では仕事を求めてトイセンの街へとやって来ている者たちを、トイセンとコーナツの街それぞれに分けて建築作業に従事させているのだ。


 建築作業の経験者は院の建設に、経験ない大人の男性には畑にするべき場所の開墾作業、女性や子供にはその後の土を耕し、細かな石を取り除いたりと、それぞれできることを割り振っている。

 当然賃金も発生しており、その中から求職者たちには滞在費を支払わせていた。

 滞在場所には、宿屋はもちろんのこと民家にも協力してもらっている。

 多少のトラブルも発生しているようだが、今のところ街の警備兵で解決できることのようで、大きな問題にはなっていない。

 それどころか、どちらの街もかつてないほどの賑わいを見せているようだった。


「本当なら、直接様子を見に行きたいんだけどね……。帝国は広すぎるわ」

「たとえ近場だったとしても、今はお控えになるべきだとは思いますぞ」

「まあ、そうよね。それはわかっているんだけど、今までは現実夢の実現のために何かと関わっていたから、どうにも落ち着かなくて……。大丈夫か不安になるの」

「確かにおっしゃるとおり、今まではリリス様自ら動いていらっしゃいましたからのお。ですが奉仕院については夢ではなく、リリス様が現実を――コーナツの街の現状を目の当たりにされて、お考えになった案件であり、我々にとっても現実離れした内容ではありませんので、ご心配には及びません。リリス様は何でもお一人で背負い込む悪い癖がありますな。どうかもう少し、私や皆に頼ってくださるべきですぞ」

「フウ先生……」


 フレドリックの言葉に、レセも大きく頷いている。

 リリスにとっては一人で背負い込んでいたつもりはないが、自分が言い出したことを人任せにすることは無責任な気がしていたのは事実だ。

 ずっと、自分が頑張らなければと気負いすぎていたような気もする。


「何にでも首を突っ込みたがるのは私の悪い癖なんでしょうね。寝ている時以外はじっとしていられないっていうか……。テーナにもよく怒られるもの」

「大丈夫です! リリス様は眠っていらっしゃるときにもじっとなさってはいらっしゃいませんから!」

「……それもそうね」


 少し落ち込んだ様子で呟いたリリスをレセが励ましてくれたが、ちっとも大丈夫ではない。

 寝相が悪いことはリリスも敷布や上掛けがくしゃくしゃになっているのでよくわかっている。

 現実夢ではなく普通の夢を見るときでも、リリスは全力らしい。

 レセは気まずそうに口を押さえ、リリスはため息を吐き、フレドリックは楽しそうに笑う。

 そこにテーナが控室から入ってきたのだが、その表情はいつになく真剣だった。


「テーナ?」

「リリス様、実は今、薬師のベルドマがいつものようにハーブを届けに来てくれたのですが、リリス様にお会いしたいと申しております」

「ベルドマが?」

「はい。アレッジオ長官からの言伝があるそうです」

「アレッジオから……。ええ、いいわ。じゃあ、通してちょうだい」

「――かしこまりました」


 テーナが不審そうに伺いを立ててきたが、リリスはアレッジオの名前を聞いて了承することにした。

 すると、フレドリックがリリスに問いかける。


「それでは、私は失礼したほうがよろしいですね」

「いいえ、今のところはフウ先生も同席してもらって大丈夫だと思うわ」


 どうやらフレドリックも事情を把握したようだ。

 立ち上がりかけていたフレドリックは、リリスの返答を聞いてまた腰を下ろした。


 リリスが初めて薬師のベルドマに会ったのは結婚式の前日。

 ご結婚前にお体についていくつか質問をさせていただきたいとやって来たのだ。

 テーナとレセはベルドマの訪問に気色ばんだが、皇太子妃になるだけでなく病弱設定なのだから当然だと二人を宥め、リリスは受け入れた。

 そこでベルドマはリリスが覚悟していたような診察ではなく、本当にいくつか質問されただけで拍子抜けしたことをよく覚えている。


 二度目に会ったのは、リリスが二日酔いに苦しんだとき、あの苦い薬を煎じてくれたのがベルドマだと聞いて、あとでお礼を言いたいとテーナに告げた時だった。

 すると、皇宮の探検がてら部屋を訪れるつもりだったリリスの許に、ベルドマ自ら訪れてくれたのだ。

 これではお礼にならないとリリスが言うと、ベルドマは妃殿下が一介の薬師の許に訪れるほうが問題ですよと鷹揚に笑った。

 ベルドマは皇太子妃相手にでもはっきりと物を言うが、温かな人柄は滲み出ており、リリスはベルドマに好印象を抱いたのだった。


 そんなベルドマにアレッジオが関わっているのなら、おそらくリリスの予想は当たっているだろう。

 すぐに控室に戻ったテーナが再び居間に入ってきた時には、薬師のベルドマを伴っていた。

 ベルドマはフレドリックほどではないが、高齢の女性である。

 しかし、腰は真っ直ぐで姿勢もよく、瞳に濁りもない。


「皇太子妃殿下、ご機嫌麗しいようで何よりでございます。本日は急な申し出にもかかわらず、このようにお目通りをお許しいただき、誠にありがとうございます」

「ありがとう、ベルドマ。でもそんなに畏まる必要はないから、顔を上げてちょうだい。それで、今日はどういった用件なのかしら?」

「はい。実は私は、妃殿下がお輿入れなさる少し前に、アレッジオ長官にこの皇宮専属の薬師にと雇っていただいたのでございます。そのアレッジオ長官から先ほど、今からいつものようにハーブを妃殿下の許へ届けにいくようにと、そして妃殿下にお会いするようにと申し付けられ、このようにずうずうしくも参った次第でございます」

「そう……。それで、あなたの本職は何なのかしら?」


 恭しく挨拶をするベルドマにリリスは気軽に答え、それから率直に問いかけた。

 すると、ベルドマは素直に顔を上げ、真っ直ぐにリリスを見つめて事情を説明する。

 その内容に確信を得たリリスが新たな質問を口にすると、ベルドマは満足そうに微笑んだ。


「薬師ももちろん私の本職ではありますが、産婆でもございます」

「……皇太子殿下は、あなたのことを知っていたの?」

「おそらく、本日まではただの薬師だとお思いになっていらっしゃったようでございます」

「なるほどね……」


 アレッジオの用意周到さにリリスは感心した。

 ジェスアルドが知らなかったのも仕方ないだろう。

 あれほど結婚を拒絶していたのだから、ベルドマのことを知っていたら、皇宮の薬師として雇うことに反対していたかもしれず、リリスとベルドマが顔を合わせることもなかったかもしれないのだ。


「それであなたは、今まで使いを寄こすことなく、自分でハーブを届けに来てくれていたのね」


 リリスの言葉にテーナとレセも気付いたようだった。

 ベルドマは少なくとも五日に一度は「新鮮なハーブを妃殿下に」と控室に訪れていたが、それは相手が皇太子妃だから直々にということではなく、この場合を見越していたのだ。

 そのため、この訪問も周囲に怪しまれることはないだろう。

 またベルドマはたいていハーブを渡すとすぐに帰っていくが、テーナやレセの手が空いているときなどには、話し込んでいくこともあった。


「それでは、この後あなたは殿下やアレッジオにお会いするのかしら?」

「いいえ。私は当分の間、殿下や長官と接触することはございません」

「徹底しているわね……」


 リリスはベルドマを前にすると、先ほどの確信が揺らいでいた。

 どきどきしながらベルドマを見ると、優しい眼差しとぶつかる。

 その温かさに、リリスはほっと息を吐いた。

 フロイトの城でも思ったが、こういう職業の人たちは何か落ち着かせる力でも持っているのだろうかと感じてしまう。


「それじゃあ、お願いできるかしら? 寝室のほうがいいわよね?」

「さようでございますね。レセさんはお湯を少しとタオルを用意していただけるでしょうか?」

「わかりました」


 フロイトの城では、出産は女性たちみんなで力を合わせるべきことであり、位の高い貴族の若い娘でない限りはたいていの女性は手伝いの経験がある。

 さすがのリリスも本来なら経験はなかったかもしれないが、母がリーノを二年前に出産したお陰で、ある程度のことは理解していた。

 怖くないと言えばもちろん嘘だが、女は度胸なのだ。


「では、フウ先生は申し訳ないけれど、しばらく待っていてね」

「どうか私のことはお気になさらず。〝りらっくす〟ですぞ、リリス様」

「ありがとう」


 フレドリックがここで部屋を退室すれば、ベルドマの存在が際立ってしまうため、フレドリックには待っていてくれるようリリスは頼んだ。

 すると、フレドリックは以前リリスが教えた言葉を使って励ましてくれる。

 それが何だかおかしくて、くすくす笑ったリリスは本当に体から力が抜けていた。

 そしてベルドマと寝室に入ったリリスは正式に妊娠を告げられ、テーナとレセ、そしてフレドリックも交えて喜び合ったのだった。




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