126
翌朝、とても幸せな気分で目が覚めたリリスは、なぜここまで幸せなのだろうと不思議に思った。
美味しいものを食べた夢を見たわけではないのだが、と考える。
そこで自分が寝ている部屋が目に入り、ようやくリリスは完全に覚醒した。
隣にジェスアルドがいるのだ。
「……ジェド?」
「おはよう、リリス」
「お、おはようございます……?」
外ではもうすっかり太陽が昇り、鳥たちはちゅんちゅんと賑やかに鳴いている。
リリスが早起きをしたわけではなく、いつもならとっくにジェスアルドは執務についている時間だ。
「ジェド、朝ですよ?」
「そうだな」
「寝坊したんですか?」
「いや――」
「まさか、どこか体調でも悪いんですか!?」
はっとしたリリスは慌ててジェスアルドの額に手を当てた。
しかし、熱はないようだ。
「熱は……ありませんね? でも、体がだるかったり頭が痛むとか
……まさか私が昨日叩いたせいで!?」
「リリス、私はいたって健康だ。それよりもリリスは大丈夫か? 気分が悪かったりしないか?」
「……ないです」
「そうか……。それはよかった」
ジェスアルドは焦るリリスの言葉を穏やかに否定すると、そのままリリスの右手を握ってキスをした。
リリスは顔を赤くしながらも、朝から幸せに満たされて思わず微笑み、ふと気付く。
ひょっとしてジェスアルドは心配して、リリスが起きるまで待っていたのかもしれない。
そう考えたリリスは申し訳なくなってきた。
「ジェド、心配をかけてしまったようですが、私は元気ですよ? 起き抜けに気分が悪くなったりもしませんし、食欲もあって、ただ眠いだけで……って、それはいつものことなので、気付くのが遅くなってしまったくらいなのですから」
「リリスが元気なら、それでいい。私がまだここにいるのはリリスと一緒にいたいからであって、リリスが気にする必要はないんだ」
「そ、それは……嬉しいです。けど……ジェドは早起きですから、退屈だったでしょう?」
「いや……なかなか楽しかった」
リリスがジェスアルドに心配する必要はないと伝えると、嬉しい言葉が返ってきた。
喜びと照れくささでリリスらしくなく、もじもじと答えたのだが、続いたジェスアルドの言葉は予想外で目を丸くする。
「楽しかった? 何がですか?」
今日は現実夢を見てはいない。
そして自分の寝相の悪さには自信がある。
焦るリリスとは逆に、ジェスアルドは楽しそうに小さく声を出して笑った。
その笑い声を聞くだけで、恥ずかしさなどどうでもよくなってしまったリリスは、わざと不満げな顔をした。
「そんなに私の寝顔とか寝相は面白かったですか?」
「面白かったのではなく、楽しかったんだ。……いや、正確には幸せになれたというべきかな」
「幸せに?」
「ああ。リリスの寝息を聞いているだけで幸せになれる。それなのにリリスは寝言でまで私を好きだと言ってくれた。そして抱きしめてくれた」
「それは……起きてもですよ。ジェド、大好きです!」
そう言ってリリスはジェスアルドにぎゅっとしがみついた。
すると、ジェスアルドの笑い声が大きくなる。
昨夜は色々とあったが、今はこんなにも幸せな気分でいられることがリリスは嬉しかった。
「ありがとう、リリス。私はリリスを愛している」
「あい、愛……」
ジェスアルドはリリスを抱き返し、その愛らしい顔をじっと覗き込んで告げた。
途端にリリスの顔が真っ赤になっていく。
ジェスアルドは目が覚めてからずっと、この幸せを守るためにどうするべきかを考えていた。
未来に進むためには、ずっと避けていた過去に向き合わなければならないのだ。
そして、ある疑念をはっきりさせなければならない。
「リリス……」
「はい?」
「今日の予定は決まっているのか?」
「予定は……午後の適当な時間にフウ先生と奉仕院についての話をしようかと思っていますが、何かありますか?」
「なるべく早く、産婆に診てもらったほうがいいと思ってな。できれば、今日はあまり体調が優れず休むことにしてくれるとありがたい」
「それはもちろんかまいませんけど……産婆さんを呼ぶと騒ぎになりませんか?」
ジェスアルドの提案にリリスは少々驚いて問いかけた。
リリスが――皇太子妃が身籠ったとなると、皇宮内の情勢は大きく変わる。
通常でも皇太子妃の懐妊は大事ではあるが、今現在この皇宮にははっきりとコンラード派が存在するのだ。
もちろん、いつまでも隠してはいられないが、こんなに早く事を進めるとはリリスも思ってもいなかった。
とはいえ、早く知りたいのが本音ではある。
「そうか……そうだったな。やはり私は冷静さを失っているらしい。だが、とにかく早く診てもらったほうがいい。アレッジオと相談して、できるだけ早く手配しよう」
「はい、よろしくお願いします」
自分に呆れたように小さくため息を吐いたジェスアルドは、リリスの上掛けをはねないようにそっと起き上がった。
しかし、リリスも一緒に起き上がり、ジェスアルドの手を握る。
「ジェド、大丈夫ですよ。私は実際に出産したことはありませんが、母がリーノを妊娠した時のことはよく覚えていますし、出産にも立ち会いました。そして、こういう時に男性はおろおろするものだということも知っています。兄のスピリスも義姉が妊娠したとわかった時なんて、三日はぼんやりしていたんですよ」
「そうか……」
リリスの言葉にジェスアルドは笑うことなく真剣な表情で頷いた。
そして、リリスの手を強く握り返して続ける。
「すまない、リリス。本来ならとても喜ばしいことなのに、あなたには余計な負担をかけてしまう」
リリスの母であるフロイト王妃も、王太子妃も皆から祝福されて幸せな妊娠生活を送ったのだろう。
もちろん様々な憂いはあっただろうが、それでもリリスのようにまずは妊娠したことを隠し、自分と子を守るために常に気を張らなければならないことなどなかったはずだ。
ジェスアルドはいっそのことリリスを連れて、どこか誰も知らない場所で二人だけで暮らしたいとも思ったが、当然許されるわけがない。
そもそもリリスが納得しないのは目に見えている。
ジェスアルドが考えたとおり、リリスからは力強い声が返ってきた。
「謝罪は必要ありません。私はジェドが大好きで、ジェドの子供をいっぱい生んで、いっぱい可愛がって育てたいんです。そのためなら、私はどんな障害も乗り越えてみせますし、この幸せを守るために戦います!」
ジェドの両手をぶんぶんと振り、勇ましい言葉を口にするリリスの顔は決意に満ちている。
リリスと出会ってからまだ一年と経っていないが、ジェスアルドの人生は――人生観は大きく変わった。
今まで諦めていたものを、手に入れた幸せを守るために、ジェスアルドこそ戦う覚悟を決めたのだ。
まるでその決意が伝わったかのように、リリスはジェスアルドの紅の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ジェド、一つだけ確認したいことがあります」
「何だ?」
「コンラードのことは……どのようにお考えですか?」
リリスの核心を突いた質問にジェスアルドは驚いた。
だが迷いは一瞬であり、今まで誰にも――自分にさえ隠していた本音を口にする。
「コンラードは、信用できない」
きっぱり言い切ったジェスアルドの返答に、リリスはちょっとした衝撃を受けた。
リリスにとってコンラードは当初の軽薄な人物という印象から、どこか掴めない信用ならない人物に変わっていた。
しかし、ジェスアルドにとってのコンラードは、困った従弟ぐらいにしか考えていないと思っていたのだ。
「すまない、リリス。私の今までの中途半端な態度のせいで混乱させてしまったのはわかっている。コンラードについては……私もまだ全てを整理できているわけではないんだ。正直、何と言えばいいのか……。だが近いうちにきちんと説明する。だからそれまで、待ってくれるだろうか?」
「は、はい」
「リリス、私はあなたをこれ以上の危険には曝したくない。そのためにどうするか、アレッジオとも改めて相談し、あなたを守る」
かすかに震える声でジェスアルドは約束すると、リリスを抱きしめた。
本当はリリスも不安だったが、それでもできるだけ明るい声で答える。
「ジェド、私は大丈夫ですよ」
「……ありがとう」
リリスの気持ちが痛いほどに伝わり、ジェスアルドは感謝せずにはいられなかった。
ジェスアルドにとってリリスは幸せの使者でしかないが、リリスにとっての自分は厄介な存在としか、ジェスアルドは思えないのだ。
それでもこうして受け入れ、好意を――愛を与えてくれるリリスを手放すことなど、もうできない。
だが皇太子としての義務はある。
「リリス、もし何かあればいつでも呼んでくれ」
「はい。遠慮はしません」
軽くキスをしてから渋々リリスを離したジェスアルドは、がらりと雰囲気を変えて告げた。
するとリリスも真剣な表情で頷く。
「ではまた夜に」
「ええ、また夜に」
お互い不安だったが、お互い微笑んで、お互いベッドから起き出した。
そして、リリスとジェスアルドは名残惜しげに手を離し、それぞれ別の扉に向かったのだった。




