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「終わった……」
「おや、リリス様。これからでしょう?」
「今のは、ひとまず交渉が終わったってこと。もう、フウ先生だってわかってるでしょう? 意地悪だわ。今日くらい褒めてくれてもいいじゃない」
「ふむ……。今日のリリス様はお見事でしたぞ! 皇帝陛下をはじめ、皇太子殿下にアレッジオ長官を唸らせるほどの案を考え出し、なおかつ認められたのですからな! それはもう素晴らしい手腕でありますれば、私などの助言も必要なく、最後までお一人で成し遂げられたのです! もう私は感激のあまり涙で前が見えず――」
「もういいわ。フウ先生が助言をくださらなかったのは、私への厳しい愛情だと思っているから。それに、前が見えないほどの涙は笑いすぎたせいね」
「褒めてくだされとおっしゃったのは、リリス様ですぞ」
「うん、私が馬鹿だった」
ジェスアルドや皇帝が退室した後。
ソファに座ってほっとしたリリスが呟いた途端に始まったいつものやり取り。
テーナもレセも、どうなることかと控室で緊張していたのだが、この調子だと上手くいったようだと安堵していた。
「フレドリック様、お食事はこちらでなさいますか?」
「あら、テーナ。わざわざ訊く必要はないわよ。フウ先生はまだ私を虐め足りないでしょうから、一緒に食事をしたいに決まっているわ」
「そうですな。では、これから反省会という名の祝賀会をいたしましょうかの」
「かしこまりました」
普段は勝手にフレドリックへの――他人への質問に答えたりしないリリスだが、今日はまだフレドリックに傍にいてほしかった。
憎まれ口を叩いてはいるが、やはり本当にあれでよかったのか不安なのだ。
そこでフレドリックは〝祝賀会〟と言うことで、リリスに上出来だったと伝えた。
すると、リリスの顔がぱっと明るくなる。
「フウ先生、お祝いにはまだ早いわよ。これは激励会ね。これからは私よりも、フウ先生のほうが忙しくなるんだもの。マリスに奉仕院にその他諸々……フウ先生のところには、たくさんの仕事が舞い込んでくるわよ」
「なんと! リリス様はこの老体に鞭を打って働けとおっしゃるのですか!」
「頼りにしているわ、先生。私も頑張って、奉仕活動に尽力する慈悲深い妃殿下を演じてみせるから」
「リリス様はわざわざ演じられなくても、とても慈悲深い方でいらっしゃいます!」
リリスが自嘲めいたことを口にすると、レセが勢いよく訴えた。
いつも自己評価が低いリリスに耐えられず、つい口を挟んでしまったらしい。
レセはしまったといった表情になり頭を下げた。
「出過ぎた物言いをしてしまいました。申し訳ございません」
「ううん。ありがとう、レセ。すごく嬉しい。……私ね、今とっても幸せなの。もちろん今までだって幸せだったわ。だけど何て言えばいいのか……とにかく、みんなのお陰なの。いつもありがとう」
リリスは頭を下げるレセにお礼を言うと、テーナやフレドリックにも改めてお礼を言った。
こうして無条件で自分を信頼してくれる人たちに囲まれて、これ以上の幸せがあるだろうか。
愛する人に愛され、新しい家族――皇帝や、アレッジオにも受け入れられ、助けの手を差し伸べてくれるのだ。
しみじみと言うリリスに、今度はテーナが口を開いた。
「リリス様はご自分の価値をわかっていらっしゃいません。それは妃殿下だからでも、現実夢を見ることがおできになるからでもなく、リリス様ご自身のお人柄でございます。私たちはリリス様に惹かれずにはいられないのです」
「テーナ……」
「本当にその通りですぞ。何せリリス様は健気に尽くされるお方ですからな」
しんみりとしたその場に、またフレドリックの横やりが入る。
そこからはまたまたいつものやり取りが始まり、テーナとレセは呆れながらも笑顔でリリスとフレドリックの言い合いを見ていた。
そして食事も終わり寝支度を整え、寝室に一人になったリリスは大きく息を吐いて、ばたりとベッドに倒れ込んだ。
本当に今日は疲れた。
自分の提案に自信はあった。
ただ上手く説明できるかの自信がなかったのだ。
しかし、どうにか乗り越えることができた。
細かく詰めなければならないことはまだまだあるが、それは官僚の仕事であり、リリスは最終決定をすればいいらしい。
リリスは起き上がろうとして体を動かそうとした。
だが、もう目を開けていられそうにない。
今夜もジェスアルドを起きて待っていたいのに、疲れのせいで無理そうだ。
(明日の朝……も、起きられる自信がない……)
ジェスアルドの朝はとても早く、リリスも一緒に起きることはめったにない。
もうダメだとリリスが意識を手放そうとした時、そっと頬に温かな手が触れた。
うっすら目を開けると、ぼんやりした視界に入ったのは大好きな赤い髪。
「ジェド!」
一気に覚醒したリリスはがばりと起き上がった。
先ほどの疲れが嘘のように体も軽い。
「すまない、起こしてしまったな」
「大歓迎です!」
申し訳なさそうに言うジェスアルドに、リリスは満面の笑みで答えた。
本当に眠気も疲れも吹き飛んでしまっていて、ひょっとしてかなり眠ったのだろうかと時計をちらりと見る。
しかし、驚くほどに時間は経っていない。
「今夜のジェドは早いですね? 嬉しいですけど!」
「ああ。今日のリリスはとても頑張っただろう? それもとても素晴らしい案だった。それなのに私はまだきちんと礼を言っていない。だからリリスに早く伝えたかったんだ」
「お礼をですか?」
「それだけではないがな」
ジェスアルドはベッドに腰を下ろし、ぺたりと座るリリスの頬にかかった艶やかな髪を耳にかけた。
無意識の行動ではあったが、それだけでリリスの頬は赤く染まる。
大胆かと思えば純真でいじらしく、ジェスアルドは翻弄されてばかりだ。
思わず口づけてしまったものの、これ以上はダメだと強く己を律し、ジェスアルドは唇を離した。
今のキスが予想外だったのか、リリスはさらに真っ赤になって、驚きに見開かれた緑色の瞳をジェスアルドに向けている。
「……まだ、リリスが私の許に――この国に嫁いできて数ヶ月にしかならない。それなのに、あなたはこの国を想い、この国のために力を尽くしてくれる。何より、私を愛してくれる。だから、お礼を言いたかったんだ。リリス、ありがとう」
「ジェド……」
リリスはジェスアルドの温かな言葉に、胸がいっぱいになって喉を詰まらせた。
それでも一つだけ不満がある。
そこでリリスはぐっと両手を握り、ジェスアルドを押し倒すのを我慢した。
「もうっ! 前にも言いましたけど、私はこの国が好きなんです! そしてジェドが大好きなんです!」
強い口調で訴えたリリスは勢いよくジェスアルドに飛びついた。
ジェスアルドはそんなリリスを器用に抱きとめ、後ろに倒れる。
結局、押し倒した形になったリリスはジェスアルドの両脇に手をついて、睨むように見下ろした。
「ジェドは自己評価が低すぎます。ジェドは優しくて、かっこよくて、強くて、頭もよくて、素敵なんですから、好きにならずにはいられません! 愛さずにはいられないんです!」
「そうか……」
「そうです!」
困ったように笑いながら見上げるジェスアルドを見て、はっきり言い切ったリリスは怒っていたはずなのに噴き出した。
「と、偉そうに言いましたが、私も先ほどテーナやレセに注意されてしまいました」
「あの二人に?」
「はい。私は自分の価値をわかっていないと」
「そうだな」
リリスを信奉していると言ってもいいほどの侍女二人に注意されたと聞いて、ジェスアルドは驚いたが、その内容には納得した。
確かにリリスは自分の価値をわかっていない。
今日の提案がどれほど素晴らしく、どれほどにリリスの人柄を表しているものだったのか。
あの後、皇帝もアレッジオも手放しでリリスを褒めていた。
もちろん甘い箇所はまだまだある。
それでも全てはリリスから始まるのだ。
「というわけで、私たちは似た者同士ということで、お似合いってことですね」
「……そうだな」
「私はジェドを愛してます」
「私もリリスを愛している」
リリスの真っ直ぐな告白に、今ならジェスアルドも真っ直ぐに答えることができた。
すると、リリスはにっこり笑う。
「意見も一致しましたね」
「だが、私はもっとリリスのことを知りたい」
「私も、もっとジェドのことを知りたいです」
「では、そうしよう」
「はい、賛成です」
自分の提案がこの先どうなるのか気にはなったが、リリスはひとまず忘れることにした。
今はこの時間を何より大切にしたい。
明日になったらまた頑張ろう。
リリスはジェスアルドの温もりに包まれて、新たな力が湧いてくるのを感じながら、眠りに落ちたのだった。




