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「大失敗だわ……」
「そうですか? なかなかよかったと思いますがの」
自室に戻った途端、リリスがソファにぐったりと腰を下ろして嘆くと、向かいに座ったフレドリックがけろりとした様子で答えた。
テーナは何も言わずに道具を持ってきて、きつく結い上げていた髪を解いてくれている。
すぐに程よく結い直してくれるだろう。
レセはリリスの大好きなハーブティーを淹れてくれているようだ。
「どこをどう聞いていたら、なかなかよかったと思えるの? マリスのことを交渉するつもりだったのに、コリーナ妃のことに触れてしまったのよ? しかも、あんな形で……もう最悪よ」
リリスの言葉に、テーナもレセも一瞬ぴたりと動きを止めた。
だがすぐに何事もなかったかのように動き始める。
こういう時には二人とも、リリスが落ち着くまでそっとしていてくれるのだ。
リリスはレセが淹れてくれたハーブティーを一口飲んで、深く息を吐いた。
今まで一度もコリーナ妃のことに触れたことがなかったジェスアルドに対して、不躾に質問してしまうなど、どうかしていたとしか思えない。
ずっと抱えていた秘密を皇帝に打ち明ける緊張感や、はっきりと明言されていなかった命を狙われていることに対する恐怖。
それらが混じり合って思考能力が低下していたのかもしれない。
(できれば、ジェドから教えてほしかったな……)
ジェスアルドの気持ちを疑ったりは絶対にない。
一緒にいて楽しんでくれていることもわかる。
リリスに向ける微笑みも言葉も、触れる手も、今では全てが愛に満ちている。
だが時折、距離を感じてしまう。
そんな時はコリーナ妃のことを考えているのだろうかと、不安になってしまうのだ。
(今夜、あの場で話題にしてしまったことをきちんと謝罪しよう。夢で見たのにずっと黙っていたことも……)
毎日楽しみだった、眠る前のジェスアルドとのひと時も、今日は重たい気分になってしまっている。
それも自業自得としか言いようがない。
(まあ、今さら後悔しても仕方ない。覚悟を決めて、這いつくばって謝罪しよう)
ぐっとお茶を飲み干すと、リリスはカップをソーサーに置いた。
少々勢いがついて、甲高い音がする。
慌ててカップを持ち上げ、茶器が傷ついていないか確認したリリスはほっとしながら、今度はそっとテーブルにカップとソーサーを戻した。
「落ち着かれましたかな?」
「そうね。やっちゃったものは仕方ないし、過去は過去。問題はこれからなんだから、前向きにいかないとね」
「それでこそ、リリス様ですな。実に単純明快ですぞ」
「……褒められてる気がしないわ」
「何をおっしゃるか。絶賛中でございます」
いつもと変わらないフレドリックの態度に、リリスは本当に気持ちが落ち着いてきた。
焼き物のマリスについては失敗してしまったが、ずっと心に引っかかっていたことを口にできたのだから、かえってよかったのだろう。
「とにかく、次に面会できるのがいつになるのかわからないけど、マリスに集中できるから有り難いと思わなくてはね」
「さようでございますな。まあ、陛下のご様子からして、本当に明日か明後日になりかねませんから、心しておかれたほうがよろしいでしょう。陛下はどこまでも油断ならぬ相手ですからなあ」
「だけど、敵じゃないわ。とすれば、これほどに頼もしい相手もいないってことでしょう?」
「前向きですな」
「まあ、フウ先生ってば! さっき私は前向きにいくって言ったばかりじゃない。もう忘れちゃったの? 大丈夫?」
ここぞとばかりにリリスは嫌味で返し、そこからいつもの応酬が始まる。
そんな二人をテーナとレセは呆れながらも安堵して夕食の用意に取りかかった。
* * *
その夜遅く、すっかり待ちくたびれたリリスは、がくっと首が傾いたことではっと目が覚めた。
眠ってしまわないようにと、肘掛け椅子に座って本を読んでいたはずだが、いつのまにかうとうとしていたらしい。
いつもならベッドに入って待っていないと、ジェスアルドが心配するのだが、今日ばかりは起きて待っていたかった。
謝罪は早いほうがいい。
そのため、ベッドに入れば間違いなく眠ってしまう自信のあるリリスは椅子に座っていたのだが、やはり無駄な努力のようだった。
そもそも一度眠れば朝まで起きない自信もある。
ジェスアルドはリリスが眠っていると、まず起こすこともないので、どうにかして起きていなければならないのだ。
(やっぱり今日の話し合いが、ジェドのお仕事を長引かせてる理由だよね……)
自分の存在がジェスアルドに負担をかけている。
それはリリスの本意でない。
同盟の条件が提示された時、自分の気持ちを優先させず、ダリアと婚約してもらえばよかったのではないかとふと思ってしまった。
おとなしいダリアが相手ならば、こんなにもジェスアルドに苦労をかけることはなかっただろう。
(って、それはいやー! たとえ形だけでもジェドが他の人と――ダリアと結婚だなんて……。そもそも、それじゃ私と結婚できないじゃない!)
当たり前の結論にたどり着いて、リリスは頭を抱えて心の中で叫んだ。
思わず足までばたつかせて悶える。
そこに突然ジェスアルドの声がかかり、リリスは驚いた。
「リリス、どうした? 何かあったのか?」
「ジェド! い、いえ。……何でもありません」
「そうか……。今日は疲れたんじゃないか? 起きて待っていなくてもよかったのに」
「いえ、そういう訳にはいきません」
相変わらず気配を感じさせないジェスアルドに感心しながらリリスは立ち上がると、深く頭を下げた。
「ジェド、今日は大変申し訳ありませんでした」
「リリス? 何を謝ることがある?」
「それは……コリーナ妃のことを夢で見ていたのに黙っていたばかりか、あのような場で持ち出してしまったからです」
「まさか! リリス、それは違う。本来ならば、私がもっと早くに話しておくべきだったんだ」
言いながら、ジェスアルドはリリスに近づき、触れるのを恐れているかのように一瞬ためらい、それからそっと抱き寄せた。
リリスが顔を上げれば、ジェスアルドの紅い瞳には後悔が滲んでいる。
「謝罪しなければならないのは私のほうだ。私には内側にも敵がいる。だが、できればリリスを怯えさせたくないと思い、黙っていた。護衛を増やせばいいだろうと勝手に判断して、リリスに警告することもせずにいた私は卑怯だ」
「卑怯? ジェドが?」
「ああ。リリスを怯えさせたくないと言いながら、本当に怯えていたのは私のほうだ。命を脅かす者が身内にもいると知れば、リリスが私から逃げ出してしまうのではないかと怖かった。私の妃になったばかりに、先日は攫われてしまい、怖い思いをさせてしまっただろう? もう嫌だと言われれば、私は引き止めることができない」
「……」
ジェスアルドの告白を、リリスは目を丸くして聞いていたが、徐々にその顔に不機嫌さが表れてくる。
そんなリリスの表情の変化を、ジェスアルドは諦めた様子で見ていた。
リリスを危険にさらしているとわかっているのに、それを黙っていたばかりか自分の弱さを露呈してしまったのだ。
ジェスアルドはリリスが自分から離れようとしても、止めることはなかった。
すると、ますますリリスは顔をしかめ、ジェスアルドを睨みつける。
「どうして離すんですか?」
「……は?」
「どうして引き止めないんですか?」
「それは……」
「わたしが離れようとしても離さないでください。逃げようとしたら引き止めてください」
「リリス……」
「でも私はジェドが大好きなので、逃げるなんてことはしませんけどね。むしろ立ち向かっていくので、覚悟してください」
その言葉に驚くジェスアルドに、リリスは勢いよく抱きついた。
慌てて受け止めたジェスアルドだったが、すぐに体勢を立て直すと、今度はしっかりと抱きしめる。
「……私は本当に愚かだな。いつも一人で答えを出して、間違ってしまう」
独り言のように呟いて、ジェスアルドはリリスをぐっと抱き上げた。
そして柔らかな頬に片手で触れ、まっすぐにリリスを見つめる。
「リリス、あなたはとても賢く強い。そしてとても変わっている」
「ええ……」
「私はそんなリリスが好きだ。だが、我慢はしないでくれ。不安なことがあるなら、打ち明けてほしい。無理に笑う必要もない。私は愚かだが、それでもリリスを守りたい。守らせてほしい」
「ジェド……」
褒められたのかと思えば違うようで、リリスは不満の声を漏らした。
しかし、続いた言葉はリリスの心に強く響き、たまらなくなってジェスアルドにぎゅっと抱きつく。
「私は……私も卑怯です。ジェドが好きで、大好きで、独り占めしたいって思うんです。だからとても大切なことなのに、コリーナ妃のことを口にすることができませんでした。ジェドから話してくれる気になるまで待っていようと考えながら、本当は話題にしたくなかったんです。ジェドにコリーナ妃のことを思い出してほしくなくて……」
「リリス……」
今の今まで、自分でさえも気付いていなかった本心。
ジェスアルドから打ち明けてほしいと思いながら、それがただの言い訳だったのだと気付いて、リリスは続けられなくなってしまった。
そんなリリスを優しく抱えたまま、ジェスアルドは歩き始める。
「ジェ、ジェド?」
「今夜は私の部屋で寝よう」
驚くリリスをジェスアルドは自分の部屋へ連れていくと、そっとベッドへ下ろした。
何が何だかわからないまま、リリスはおとなしくジェスアルドに従ってベッドに座る。
「何年か前には私の命を狙い、この部屋へ侵入を果たした者も数名いたが、今では警備も行き届き、すっかりいなくなってしまった。だがつい最近、侵入してきた者は私の命を脅かしている」
「そんな! 聞いていません!」
突然の告白に、リリスは血相を変えて抗議した。
だがジェスアルドは気にした様子もなく、リリスの両頬を大きな手で挟んで微笑んだ。
「心配しなくても、侵入者はここにいる」
「え?」
「結婚式の翌朝、この部屋に乗り込んできたリリスに私は心を奪われてしまった。それどころか、私はもうリリスがいなければ生きていけない。だから私の命をかけてリリスを守ると約束する」
リリスの緑色の瞳をしっかり捉えて告げたジェスアルドの言葉は、とても恐ろしい殺し文句だった。
コリーナ妃のことで嫉妬する自分が馬鹿に思えるほどに。
ぽかんと開いたリリスの口を一度キスで塞ぎ、ジェスアルドは真っ赤になったリリスの手を優しく握った。
「あの部屋は……コリーナが亡くなってしばらくしてから、父が全てを改装させた。正直なところ、私はどうでもよかったんだが……リリスにもっと配慮するべきだったと今では後悔している」
「そんな、ジェドが気にする必要は――」
「いや、私が鈍かったんだ。ただコリーナに関しては、罪悪感から逃れたくて考えないようにしていた」
コリーナ妃のことを告白するジェスアルドはとても苦しげで、リリスの手を握る手に力が入る。
それでもリリスは何も言わず、その手を握り返した。
「彼女を追い詰めたのは私だ。彼女のことを思うならば早々に解放するべきだった。それなのに私は彼女に皇太子妃としてあるべきだと無理強いをしてしまった。そのためにコリーナは心を病んでしまったんだ。その罪悪感から、本来ならコリーナが亡くなった時、もっと調べるべきだったのに怠ってしまった。侍女などは怪しまれずに控え室から出入りできたというのに。今さらではあるが、アレッジオが当時の関係者を洗い直す予定だ」
「そうなんですね……」
「同時に、もう一度あの部屋を徹底的に調べ直すことになった。まさかとは思うが、侵入可能な箇所があっては大変だからな。よって、リリスは明日から別の部屋で過ごしてもらうことになる。もちろん警護はしっかりつけるから安心してくれ」
「別の部屋、ですか……?」
「ああ。ただし、夜は必ず私も一緒に過ごす。しかも毎晩だから、覚悟しておいてほしい」
「は、はい!」
別の部屋と聞いて不服そうに答えたリリスだったが、わざとらしく脅すように続いたジェスアルドの言葉には喜んで返事をした。
こんなに自分への好意を表してくれるリリスが、ジェスアルドは愛しくてたまらずもう我慢できなかった。
再びキスをすれば素直に応えてくれ、さらに先へと心も体も望んでしまう。
結局、この夜の話し合いはこれでひとまず終了し、二人の愛をさらに深める時間へと移ったのだった。




