健全たる秘め事
第二章・健全たる秘め事
「アミナ様ですか」
コルニール語のなまり方がジェジクト特有で、語尾が跳ね上がる話し方だが、発音は綺麗だった。振り返り、その男がジェフであることを確信する。肌の色も、髪の毛も黒い。瞳も同じ緑色。
「あなたが、ジェジクト出身だというジェフさん?」
念のため尋ねると、ジェフははい、とうなずいた。
「お待たせいたしました。アミナ様のお世話をするよう仰せ使いました、ジェフと申します」
敬われすぎてむずがゆくなりながらも、アミナは笑顔で応えた。
「よろしくお願いします」
ジェフの先導で、屋敷の中を歩く。途切れることなく飾ってある壷や絵画などに触れないように注意する。音舞隊として、興業に行った屋敷内ではくれぐれも問題は起こすな、という教えが体に染みついていた。そう考えると、この屋敷はとても歩きにくい。
「ジェフさんって」
「ジェフ、で構いません」
幼い笑顔で、呟くように言う。あまり通る声ではないが、人の良さがにじみ出るような柔らかい声だ。
「で、でも、初対面ですし、わたしのような者の相手……じゃなくてお世話をしていただくわけですから」
焦って言うと、ジェフは微笑みを残したまま「構いませんから」と言った。
呼び捨てにするまで許してくれないのだろうな、と思った。言葉は少ないから確信はないけれど、アミナがどんな経緯でここに来たことはさておき、主人の客人という扱いに変わりはないようだ。
そんな大層な人間でもないのに。話を変えて紛らわす。
「ジェフって、いくつですか?」
自分よりも年下だろうな、と思って尋ねてみた。
「十六になります」
「じゃあ、わたしのひとつ下ですね。あの、レイ様っておいくつ?」
本当に聞きたいことを尋ねる。レイのこと、たくさん知りたいから。
「レイ様は、十九才です」
まぁ、それくらいだろうという予想をはずれていなかったので、安堵した。これで、アミナより年下です、なんて聞かされたらちょっと落ち込む。レイはとてもしっかりしているが、アミナはまだ子供気分が抜け切れていない。仕事の時は年下の団員の面倒も見るが、そうでないとつい気が抜けてしまう。
とはいえ、二つしか違わないけれど。
三人とも、ほぼ同世代なんだ、と少し気が楽になった。初老執事が世話係だったら、恐縮しまくりで気が休まらなさそう。
そう思っているうち、ジェフが立ち止まる。そして、扉を手で示した。
「こちら、アミナ様のお部屋となります」
その言葉に、思わず顔を赤らめる。
「あの……。様なんて、やめてくださいよ。そんな器じゃありませんから」
「いえ、お客様なので」
言い方は柔らかいが、絶対に譲らないという意思が伝わってきた。でも、そうはいかない。
「本当に、やめてください。今日だけならともかく、しばらくお世話になるつもりですし」
食い下がると、ジェフは一瞬の沈黙の後、微笑んで言った。
「では、私に対してもっとくだけた口調になったら、さん付けにします」
それ以外は譲らない、と言わんばかりに、返事を待つことなく、部屋の扉を開けた。
あまり言葉数は多くないけれど、どこか余裕のあるような口ぶりが気になる。年も若い上、外国であるジェジクトの人間。普通だったら萎縮してしまうような名家での仕事だというのに。
ジェフという人間に、興味が沸いてきた。
「じゃあ、わたしの考え……質問に答えてもらえる?」
勇気を出して、砕けた口調で話しかける。先に部屋に入っていたジェフは、ちょっと首を動かしただけで振り向くことも、返事をすることもしなかった。
「お荷物は?」
まったく別のことを聞かれ、戸惑う。
「え、ええと。仲間が、全部持って行っちゃったみたいで、手ぶらなの」
「では、お着替えをご用意しますね。しばらくは、こちらでくつろいでください。生活のことなどは、追ってお知らせします」
あさましい女だと勘違いされている、とアミナは困惑した。きっと、レイのことを聞き出そうとしているのだと。だが、弁解の言葉を捜しているうちにきびきびとした足取りで出ていってしまった。
柔らかいじゅうたんに吸収されているからか、足音をたてることもない。
何か、聞いてはいけないことでもあるのだろうか。すっと伸びた後ろ姿を見ながら、アミナは首を捻った。気分を害したかどうかもわからない。
同郷なのだから、もっと親しくなれると思ったのに。ふぅ、と椅子深くに座り、息を吐く。
はぐらかされて、気持ちがもやもやした。いろいろなことを聞けるくらい、親しくなってみたい。
ひとりになったところで、通された部屋を見渡す。まさに、見渡す、という言葉が合うくらい広い部屋だった。ベッドと、ローテーブルと、ソファ。それだけの家具が、ぽつんぽつんと置いてあるだけ。何もない場所では踊りの練習も出来そう。だけど、足元のじゅうたんはふかふかしすぎていて、足をとられて捻ってしまいそうだ。
こんなにもいい部屋を与えられてよいものなのだろうか、と幾分緊張してしまう。何せ、旅興行をしていると、まともなベッドで休めることもない。この好待遇に、どうしたものかと落ち着かない。ぼすぼすと、座った椅子の赤い布地を叩く。二人は座れる、背もたれまで柔らかい椅子だ。まるで痛みを感じない柔らかさだった。
もしかしたら、部屋が間違えられているのかもしれない。だとしたら納得だ。次にジェフが来たときに、言ってあげなくては。落ち着かなくて、ソファに座ることも出来ず、またうろうろしていた。
こんこん、とノックの音がした。ジェフだ、と思ったけれど、それにしては叩き方が軽い調子な気がして警戒する。
「は、はい」
びくびくしながら返事をすると、勢いよく扉が開かれた。
知らない人だ。レイと同じ白い肌だが、髪の色は金で、瞳は青という、コルニール人に多い風貌だった。年は、レイと同じくらいだろうか。友達か? だとしたら、勝手に入り込んで何をしている、とでも怒られてしまうのかもしれない。
よくわからないが謝ろうと口を開きかけると、相手の男は笑顔を見せた。仮面のような微笑ではなく、心からの笑顔に見えた。
「君が、アミナちゃん?」
男は、ノック通りの印象の話し方をしている。どこか警戒心を解かせるような声と顔に、アミナはついうなずいてしまった。多分、悪い人ではない。この屋敷に普通にいるということは。侵入者じゃなければ、の話だけど。
「へー、ほんとにジェフと同じ雰囲気だね。なんだかちっちゃくって可愛い」
そう言うと、部屋に入ってきてアミナの頭をぐりぐりした。しゃらしゃらと、髪の毛先に編みこんだ金貨が触れ合う。
「綺麗な音だね」
わけのわからないまま頭を振らされ、アミナは何も言えない状態だった。
「あ……のっ、どなたで、す、か」
どうにか声を絞り出すと、男は手を離した。
「あー、ごめん」
男は一歩下がる。そして、うやうやしく頭を垂れた。
「失礼。わたくしエイルマー・アドキンスと申します。気軽にエル、と呼んでください、お嬢様」
手をとり、甲にキスした。いろいろな国の文化に触れてきているので、驚きはしないが慣れない。
照れ隠しに、早口で質問をする。
「あの、ここの人……お屋敷の方ですか?」
エイルマーは笑顔のまま首を横に振った。
「いいえ。向こうに森があったのは知っている?」
アミナはうなずく。馬車から見えた風景だ。
「その森の向こうに、僕の家はある。統主ではないけれど、ご近所さん、ってことでレイとは腐れ縁なのだ」
レイにはない軽さは、統主ではない、けれどお金のありそうなこの男にはぴったりな気がした。
まったく、次から次へと人が湧き出てくるものだ、とアミナは頭が絡まりそうだった。肝心のレイとは、ほとんど話せていないというのに。
『顔がむずむずしたら、危ないのだったか? そうなったら、遠慮なく来いよ』
そう言ってくれた。でも、今はきっと休んでいたいんだろう。顔もむずむずしていない。
でも、そう言えばきっと起きてくれる。レイはそういう男だと思う。まだ確信などないけれど、とアミナは自分の過剰な期待にため息をつく。
「アミナちゃん、何考えているの?」
エイルマーの声で我に返り、首を振る。
顔を近づけて聞いてくるので、アミナはつい及び腰になる。細身で身長も高いので、木の棒みたいだ、と思ってしまった。
「いい男が近くにいるのに気が散る?」
「すみません」
確かにいい男ではあるが、別にそれで興味を抱くわけでもない。けれど、レイの友達だと言うならあまり無碍にも出来ない。どうせからかわれているだけなのだろうし、なんとかいなしておこう。
「近すぎて、見えませんよ」
微笑みを作りながら言うと、気分を害した様子もなく少し体を離す。
「エル、客人を困らせるな」
突如聞こえてきた不機嫌な声。思わず、笑顔でその声の方向を見る。
髪の毛がぼさぼさの、寝起きとわかる重たいまぶたのレイが部屋の入り口に立っていた。エイルマーに比べると、ちょっと肉付きがいいような気がする。
レイの出現により、エイルマーはアミナから離れた。ふぅ、と安堵のため息をつく。
「なんだよ、邪魔するなって」
言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうに言う。
「久し振りに顔を見せに来たかと思えば、まったく」
口を小さく開け、吐息のようにあくびをした。無防備で可愛らしい。
「お前が忙しい、って全然会ってくれないだけじゃないか」
すねたような様子に、レイはちょっと笑って肩にこぶしをあてた。
「悪いな、今日も相手は出来そうもない」
アミナを見て、指で招く。
「これから、アミナと出掛ける」
どちらに言うでもなくこれからの行動を宣言した。
「え、で、出掛けるって。レイ様、お休みなのに」
申し訳なく言うと、レイは鼻で笑う。
「ちょっと横になれば十分だ。いつまで寝ていられるほど暇じゃない」
「だったら、わたしに時間を割くなんて」
「うるさい。いいから黙ってついて来い」
面倒くさそうに伸びをしながら、部屋から出て行ってしまった。
本当に、いいのかな。レイに無理させてしまっていることに、罪悪感があった。困らせているのはアミナだけど、無理しないで欲しい。
そのことを、ちゃんと言葉にして伝えたいのに。もどかしくて、思わず顔に手をやる。
伝えたいことはたくさんある。だけど、それは出来なかった。せめて感謝の気持ちくらいは口にしたいのに、言葉を捜しているとすぐに人は離れてしまう。
「レイがああ言っているんだから、いいんだよ」
エイルマーの言葉で、手を顔から離す。すがるように見ると、照れたように頬をかいていた。
「付き合いが長いから分かるけど、あいつは本当に嫌なことは、自分の時間を割いてまではしない」
「本当ですか?」
それなら、心も軽くなるというもの。アミナは少しほっとする。
エイルマーは、でも、と言葉を続けた。
「これも仕事だと、思っていなければの話だけどね」
意地悪にも少し舌を出す。
どっち? と混乱するアミナを呼ぶ声がした。レイが痺れをきらしているようだ。
「せっかちだからな、アイツ」
早く行きなよ、と廊下を親指で指す。荷物もないので、アミナはそのまま廊下に飛び出た。少し身なりを整えたレイが立っている。その姿に飛び込むように、アミナは走っていった。
屋敷の外に出たアミナとレイは、翳り始めた日差しの中を歩いていた。
「あの、どこへ?」
「しばらく屋敷にいるのだろう。だったら、散歩がてら少し案内してもよいかと思った」
ちょこちょこと後をついて歩くアミナに、レイははっきりとした口調で答える。もう、眠気は残っていないようだ。その切り替えの早さには舌を巻く。
案内するほど、広い庭。屋敷を出てすぐに池があり、魚が数匹泳いでいた。アミナは見たことがないような美しい模様のついたものだ。
「このお魚、美味しいのですか?」
その問いに、大いに呆れた顔をされた。
「これは観賞用だ」
魚とはつまり、食べるものという認識しかなかった。いろんな国を旅していても、こんな風に細かく案内されることなどない。無知すぎる自分が恥ずかしい。
「そう、ですよね。すみません」
めまいがするくらい、頭が熱い。顔に手をあててみるものの、手も熱かった。
「アミナの国では、魚を鑑賞しないのか?」
無知を責めるわけでもなく、世間話は続いた。
「ええ」
少なくとも、アミナのような立場の人間には縁遠いことだ。
「俺はアミナのことを何も知らないのだな。まずは、色々聞かせてくれないか?」
池から離れ、歩きながら会話する。それがとても贅沢な時間に思えて、アミナは何も答えたくなくなった。そうすれば、ずっと二人でいられるのかもしれない、なんて思ってしまったから。
もっとも、寝る時間もあまりないレイにこれ以上迷惑はかけられない。
「わたしの家、ちょっと……というか、おもいっきり貧乏なのです。わたしひとりの食事さえ用意出来ないくらい。なのに、妹まで出来ちゃって」
言っても、レイのような人間には本当の意味で理解は出来ないだろう。「大変だな」とか、表面上のことで、分かったような気になれるものだ。
だが、レイは同情する様子もなく、続きを促すようにアミナを見つめた。最初から、理解などするつもりはなさそうだ。それを、不思議と冷たいとは感じなかった。どうしてだろう、と考えたが、答えが分からない。
「それで、舞音隊へ。住み込みになるから家に負担がかからない上、お給料も貰えます。それが七才くらいのことでした」
「両親が、捨てたということか」
淡々と、酷いことを言う。アミナは首を振った。その時、視界には白い花畑が見えた。池の次は花畑か。
「とんでもない。両親は止めました。舞音隊に入ってしまえば、家には帰れません」
事実、家を出て十年、一度も帰っていない。里心がつくのはいけない、と最初の数年は時間があっても帰ることを許されなかった。だが、許しが出てからも帰ることはなかった。ほとんど興業に出ていたし、家に帰る暇があったら踊りを磨かないといけない。踊り子の代わりなどいくらでもいるのだから。ここで職を失うわけにはいかなかった。
おかげで、今ではアミナがいつも中心に立って、砂漠の百合を牽引する存在になれた。
苦しいこと、寂しいことはあったけれど、砂漠の百合のみんなは、アミナにとって第二の家族になれた。本当の家族は、きっと幸せに暮らしていると、みんな信じている。お金がたまったら仕送りもしていた。砂漠の百合には同じような境遇の子はたくさんいるので、仕送りを任せている隊員がいる。その時、少し様子を聞くだけで、顔を合わせることのない十年だった。顔も、住んでいた風景の記憶も十年前のまま。
つい懐かしさがこみ上げて、涙が出そうになる。本当の家族も、砂漠の百合のみんなも、元気だろうか。
「そうか。問題はこれからだな」
変わらず冷静な口調だった。確かに、問題はこれからだ。人の家庭事情に同情している場合ではない。
『仕事だと思っていなければ、の話』
そう言うエイルマーの顔が頭をよぎる。
それでも、いい。
白い花が風に揺れる花畑を過ぎると、向こうに森が見えた。
「あの向こうに、エイルマー様のご自宅があるんですよね」
「あいつ、そこまで話していたのか」
まったく、と呆れたように肩をすくめる。
「お二人とも、仲がいいんですね」
「ジェフを連れてきたのもエルだしな。俺にとっては唯一心許せる人間だ」
そこまで言って、レイは首を捻る。そして耳を赤くした。
「こんなこと言わせるな」
思わず、アミナはクスリと笑ってしまう。微笑ましいが、二人の仲に嫉妬すらしてしまう。自分もそんな風に信頼されたい。絶対に無理だと分かっているけれど、そんな欲望が湧いてきてしまう。
「それより、大事な話があるだろう」
「はい、そうですね」
「我が敷地で起きたことなのだから、不可思議な出来事でもきちんと対処しなくてはな」
「敷地?」
この庭だけじゃない、というのか。アミナが問い返すと、レイは面倒な顔でぐるりと空を見上げた。青い空ではなく、夕暮れの赤みがかった空だ。
「だいたいだが、先ほどの屋敷も含めこのあたり一帯は、統主であるアリンガム家が統括している」
想像以上の権力だ。名前だけだ、なんて噂は、爵位のないものの僻みだったのか。
仕事なんだ、と分かっていても、それを突きつけられると心が重くなった。
レイに親切心があって屋敷に止めてもらえるわけではない。ただ、不可思議な事件を解決したいという統主の責任。
かゆい。顔がむずむずする。
「レイ様、顔が」
今にも泣きそうな声で、自分でも驚く。口元が震えて上手く言葉が出ない。無意識に、顔を爪で引っかいてしまう。
「わかった」
レイはアミナの後頭部に手をやり、自分の胸に優しく押し付けた。しゃら、と髪が音をたてる。夕焼けが広がりつつある中、ぬくもりと、少しの汗臭さに緊張する。
「顔に爪をたてるな。傷つく」
ひとつ呼吸をした。なんだか、レイも強張った声をいる。そう分かって、逆に安心してしまった。レイにも、緊張することがあるんだ。アミナにたった一言言うだけなのに。
「愛している」
思わず目を閉じて、その言葉を胸に刻みつけた。一気に、顔のかゆみは引いていく。あたりの空気が止まったかのように、アミナは他のことに意識がいかなかった。
咳払いのような音がした。気のせいか、と思ったら、離れたところに老執事が立っていて、とても気まずい状態だ。二人して、咳払いをしてしまう。
「レイ様、警備部の会食のお時間が迫っております」
遠くても、通る声で告げた。それと同時に、アミナは体を離される。
「わかった」
うなずいたレイは、アミナの顔を見る。
「悪いな、話はまた今度だ。会食と言っても、ここで行われるから、何かあったらジェフに頼んで呼んでもらえよ」
屋敷内に戻ろうとするので、アミナも後ろをついて歩いた。しかし、レイは振り向くと呆れたような顔を見せた。
「ついてこなくてもいい。もう少しこのあたりを歩いてからでも構わない」
老執事と一緒に、屋敷に戻って行っていく。今の言葉で、先ほど冷たいと感じなかった理由がわかった。無駄に優しくもなければ、無駄に厳しくもない。いつだって平坦で、その中に思いやりがあるからだ。
一人残されたアミナは、耳に残る言葉を逃したくない。そんな意識だからか、つい手で耳を塞いでしまった。
庭を一回りして戻ると、ジェフが着替えの服を用意してくれていた。聞くと、レイの母が買うだけ買って着ていないものらしい。勝手にいいのか、と恐縮したが、レイ様がよいと言っておりますので、と押し切られる形で着ることになった。
桃色で、白色の襞がついている部屋着だ。質のいい布なのに、もったいない。
お風呂で汗を流されては、と言ってくれたので、アミナは服と共にお言葉に甘えることにした。
そこでも、統主の地位を見せ付けられたような気分になる。居心地が悪くて、せっかちに体を洗って部屋に戻った。
扉を開けるとジェフがいたので、つい本音を漏らしてしまう。
「あの浴室、ウチより広い」
夕食の準備をしていたジェフは吹き出した。
「それが、感想でいらっしゃいますか。確かに、ジェジクトでは考えられませんね」
仮面のような笑顔ではない。それで、アミナも笑顔を見せる。髪に編みこんだ金貨も取り外していたので、布にくるんであったそれをベッドの脇の小さな机に置く。
そして、濡れた髪のままアミナはソファに座った。
「ジェフも、そういう風に笑えるんだ」
先ほどまでの『お客様扱い』の笑顔ではない。嬉しくなって、ついジェジクトの言葉で気軽に言ってしまった。
それ以上ジェフの顔を見ることなく、アミナは机の上の料理に目を輝かせる。湯気がふんわりと立ち、おなかを刺激する匂いに空腹を覚える。最近、温かい食べ物など食べていなかったから、味はどうであれそれだけで嬉しい。
「そういえばちらっと聞いたんだけど、ジェフってエイルマー様のところにいたの? 連れてきた、ってレイ様は仰っていたけど」
反応がなく、不思議に思ったところでようやくジェフの顔を見る。
心許した顔はもうなく、また表情が硬くなっていた。
「それでは、お食事をどうぞ」
コルニールの言葉だった。盆を持って立ち上がる。どうして急に、と思ったアミナだが二カ国の単語がとっさに混ざり合い、口には出来なかった。
どうしよう、きっと傷つけてしまった。理由はわからないけれど、そうなんだ。
その様子を見ていたからか、ジェフは部屋から出ることなく、アミナの顔をじっと見ていた。
「そんなにシュンとしないでください。ありがとうございます」
笑いを含むような、落ち着いた声だった。突き放したり、呆れたりというような声色ではない。それに、ジェジクトの言葉だった。
「ジェフ……」
「アミナ様が、私を気にかけてくださっていることはわかります。ただ……」
口ごもる姿を見て、ようやく聞いてはいけないことを聞いたのだとわかった。
秘密くらいあるだろう。誰にだって。
「ところで、こちらのお台所はどこ?」
その反応に安心し、コルニールの言葉に戻して尋ねた。この話は終わり。その変化にジェフは戸惑った顔も見せなかったが、発言の内容をいぶかしむ。
「なぜです? お食事が足りないなら、私がお持ちします」
「いいえ。食べたら、お皿洗いをしなくては」
当然、という口ぶりに、ジェフは目を丸くする。
「やめてください。それはこちらでしますから」
「でも、タダでお世話になるわけにはいかないもの」
負けじと、食らいつく。それまでは、食べることを我慢しているのだから。
「レイ様に叱られます。やめてください」
あまりに必死に言われ、アミナは肩をすくめた。
「レイ様、そんなに怖い方?」
すると、ジェフは首を振る。
「仕事に関しては厳しい方ですが、それ以外は特に」
現在の統主の仕事は、警備部の統括だ。警備部とは、統主の管轄下にある組織。犯罪者を捕らえ、治安維持のために働いている。それもまた、名前だけの地位に追い討ちをかけるように別のところで統括する、という話が出ているが。
「でも、何かさせてよ」
食い下がるが、ジェフは「では、冷めてしまいますから」と言いながら、苦笑いをして部屋を出て行ってしまった。
明日から、何をしていればいいのやら。それより、おなかがすいた。口論するのも諦めて、アミナは並べられた食事に、片っ端から手をつけていった。
食事も済み、やはりじっとしていられなかったアミナは食器を持って屋敷内をうろついていた。
だいたい、台所がある場所というものは、どの家も決まっているものだ。
だが、歩いても歩いても部屋が続くこの屋敷では迷路のようで見当もつかない。途中、奥まった場所にある白く大きな扉には目を見張った。
今は家を留守にしているレイの母の部屋かな、まさか台所ではないだろうと扉を開けることなく立ち去った。それにしても、この屋敷には人が少ない。斜陽の統主の屋敷とは、こんなにも寂しいものなのだろうか。もちろん、仕事で出ているという両親についていった者も多いだろうけれど。
再び歩き始めると、廊下の先にレイの姿を見つける。
向こうも、当然アミナの姿を認める。しかし、その顔は途端険しくなった。
「何をしている」
不機嫌に問われ、アミナはすぐに返事が出来なかった。
「えっと、その、片付けをしようかなって」
「しなくていい、そんなこと」
手にしていた皿を奪うように取られた。ガラス音がぶつかる音に、思わず顔をしかめる。
「どうしてですか?」
荒っぽい行為に、アミナは悲しくなる。レイはどこか馬鹿にしたように、一言だけ返した。
「踊り子が、いちいちやらなくてもいい」
返事を待たず、レイは背を向けて歩いていってしまった。
踊り子を、馬鹿にした?
今の発言はそう取れた。たかだか踊り子が、うちの食器を持つなと。
わかっている、自分の立場など。そうは言いながら、アミナは足の震えが止まらなかった。
態度は厳しく、いつも不機嫌そうではあるけれど、心根は優しい人だと思っていた。
それは、間違えだったのだろうか。
最初からすべて、アミナのしていることは間違えだったのかもしれない。
「アミナ様、どうしました」
ジェフの声に振り返ると、その姿がぼやけて見えた。
人に見られたくない。
そう思ったアミナは、無理に笑顔を見せ、何も言わずに歩く。柔らかいじゅうたんに雫を落としながら、アミナは自室に戻った。