始章
始章
馬車の扉を閉めようとした従者の男を振り切り、女は強引に乗り込んできた。
「お願いです! わたしに、愛しているって囁いてください!」
囁いてくれと叫ばれたところで何のことか分からず、レイは瞬きを繰り返していた。
当然だ。女は知り合いではないし、急に侵入してきて、わけのわからない頼みごとをしてくる無礼者だ。
しかし、その姿は先ほどからずっと視界に入っていた。どこか遠慮したように手を顔の前で組んでこちらを見ていた。レイが歩けばついてくる。何かを言おうとしてまた怖気づく。
その行動の繰り返しを見ていたので、何か相談事でもあるのかと思ったが、まさか勢い勇んで馬車に押しかけてくるとは思わなかった。よほど、切迫した状況にでもあるようだ。
小麦色の肌に黒い髪。赤い服の腰には白い布が二本、両足に添うように垂れ下がっていた。これを広げ、鳥のような舞を披露するのだったな。ぼんやりと、先ほどまでのことを振り返っていた。
彼女は、レイが先ほどまで招かれていた屋敷で余興を披露していた。
海を挟んだ砂漠の国、ジェジクトの数十人にも及ぶ大舞音隊『砂漠の百合』の踊り子の一人。背中が少し隠れる程度の長さの髪。その毛先には、金色のコインが編みこまれていて、動くたびに透明な音を奏でていた。年のころは、自分よりも少し年下だろうか、まだ十代半ばといった様子だ。
「なぜ、俺がお前に愛していると言わなければいけない?」
落ち着いた声で言うと、女は鬼気迫る勢いで叫ぶ。
「お願いします。お願いします。じゃないとわたし、人の姿を、保てないです!」
切羽詰る様子だが、そう簡単には信用出来ない。いくら、身元のわかる踊り子だとしても。
「俺ではなく、先ほどまで一緒にいた仲間に言ってもらえばいいだろう」
男女合わせて、数十人はいたはずだが。
「はぐれた。行くところもないです。あまり、言葉も上手くないし」
確かに、女の発音は美しいとは言えなかった。けれど、それなりに会話は出来ている。
「大丈夫だ、それくらい話せればどこでもやっていける。舞音隊なのだから、異国には慣れているだろう」
レイは笑顔を見せ、扉を閉めるよう従者に目配せする。従者もあっけに取られたような顔から一点し、ようやく女の引き剥がしにかかる。
まったく、行動の遅い。女だから安心でもしているのか。
レイは従者の変更を考え始めていたが、まだ女は馬車に上半身を突っ込んだまま。後ろから従者が引っ張っている。
根性だけは見上げたものだ。必死にしがみついて、意地でも馬車から降りてやらない、と女は歯を食いしばり、縁に手をかけていた。緑色の瞳を覆う白目は、潤んだように赤みを帯びており、レイを見つめていた。
途端、レイは先ほどの舞いをまた思い出してしまう。
その思考の中を、二人の叫び声が引き裂いた。
「降りなさい!」
「降りないー! わたし、踊り子としてまだ舞台に立ちたいの!」
ふっ、とレイは思わず笑ってしまった。それを見た女と従者は、一瞬動きを止める。その止まった時間だけを、レイが動く。
「愛しているよ」
女の耳に顔を近づけ、そう囁いてやった。この女にそう言ったらどんな顔をするのか。人の姿を保てないなどと、そんな話を信じるつもりはなかったが、興味はあった。
照れて顔を赤くするだろうか。満足するだろうか。冗談でした、ひっかかってバカみたいだと言うだろうか。
どれでもいい。変わった体験が出来たのだから。
しかし、レイの計算は大いに外れる。
女は、顔を赤らめることなく、ただ笑顔になる。そして、手を握ってきた。もう、従者は止めようともしていなかった。コイツ、ダメだな。そうレイは頭の半分で次の従者を考え、もう半分ではこの不思議な女のことを考えた。
思ってもいない自分の反応に、戸惑ってしまう。女のことで驚くなど。
「よかった。これでしばらくは大丈夫です。でも、一回じゃダメ。えーと、間隔を開けず、しばらく……うーんと、しょっちゅう言っていただかないと」
言葉を探すように目を動かしながら、女は告げる。
じゃ、そういうことで。
あつかましいことを言いながら、女は馬車に乗り込んだ。