――第 1 幕 王様のベンチと忖度する風――
大学三回生の冬。私は黒髪の美しい後輩に、言葉にできぬ想いを寄せていた。 彼女の不器用な文字さえ愛おしい。 だが、騒がしい学友や現実は、その淡い距離を許してはくれなかった。
ある雨の夜、彼女がふいに姿を消した時。 私は懐のスープ缶だけを頼りに、夜の底へと走り出す。
吸い込んだ空気が、肺胞の内側を紙やすりで擦るように焼く。
一月の夜気。湿度を完全に失った風が、アスファルトの表面を舐め、巻き上げた砂塵を大学の正門へと叩きつけている。生物の生存を拒絶するかのような、絶対的な低温。
だが、私は紺色のダッフルコートのポケットから両手を抜き、ゆっくりとそこへ腰を下ろした。
正門横に設置された、削り出しの木製ベンチ。本来ならば、外気に晒され続けたその表面は、触れた瞬間に体温を根こそぎ奪い取る冷却板と化しているはずだ。
しかし。
私が座面へ体重を預けた瞬間、世界が変質した。
ゴウゴウと鼓膜を圧迫していた風切り音が、スイッチを切ったように消失する。頬を切り裂いていた冷気は、私の皮膚から半径二メートルの境界線でピタリと止まり、透明な断熱材に阻まれたように渦を巻いて散った。
真空。あるいは、深海の底のような、圧力のある静寂。
ベンチの座面からは、人肌のような微温い熱が伝わってくる。尻の形に合わせて木材が軟化し、優しく包み込むような錯覚。
当然だ。世界が、私に忖度している。
口元が勝手に歪む。笑おうとしたわけではない。顔面の筋肉が、この快適すぎる環境に対して弛緩しただけだ。
私は膝の上で、文庫本を開く。夏目漱石、『こゝろ』。
新品同様のページからは、インクとパルプの乾いた匂いが立ち上る。視線を落とす。活字の列が網膜に映る。だが、脳はその意味を処理しない。
「先生」がどうしたとか、「遺書」がどうしたとか、そんな情報は今の私にはただのノイズだ。重要なのは、私がこの寒空の下、背筋を伸ばして文学書を開いているという「物理的形状」のみ。
ページをめくる。
カサリ。
乾いた指先と紙が擦れる音が、無音の空間に鋭く響く。その音は、実際のデシベル数よりも遥かに大きく、コンサートホールの最前列で聞く弦楽器の不協和音のように、世界の隅々まで染み渡っていく。
完璧だ。
頭上の水銀灯が、チカチカと不規則な明滅を繰り返している。そのリズムに合わせて、アスファルトに落ちた私の影が、伸びたり縮んだりしながら痙攣している。
まるで、私という存在の質量に耐えきれず、空間そのものが軋みを上げているようだ。
本来なら不快なはずのその光景も、今夜ばかりは心地よい舞台演出に過ぎない。私はこの世界の観測者であり、中心であり、そして王だ。
コートの袖口から覗く腕時計へ視線を落とす。秒針が、機械的な規則正しさで目盛りを刻んでいる。
カチ、カチ、カチ。
あと数分。その時が来れば、この静寂な舞台に、唯一の「特異点」が現れる。
私は再びページへ視線を戻す。読んでいない。ただ、行間にある余白の白さを凝視する。
ふと、ベンチの背もたれに塗られたニスが劣化し、ささくれ立っている箇所が、コートの繊維に引っかかる感触があった。チクリとした微細な抵抗。
指先でその凸凹をなぞる。劣化した塗装の破片が、皮膚の溝に黒い粉となって入り込む。
汚い。だが、その汚れすらも、今は私の所有物の一部だ。
喉の奥で、空気が湿り気を帯びて重くなるのを感じた。
来る。
気圧が変わる。遠くの道路を走る車の走行音が、急激に遠のいていく。
世界が全てのチャンネルを閉じ、たった一つの周波数だけを受信しようと待ち構えている。
私は深く息を吸い、肺を満たした酸素を、ゆっくりと吐き出した。白い呼気が、風のない空間にまっすぐな柱となって立ち昇り、そして消えた。
準備は完了した。さあ、現れろ。
私の完璧な世界に刻まれる、たった一つの愛すべき傷跡。黒髪の少女よ。




