第二幕 この子達は絶対売れないわ!
大学三年の一月、期末試験期間。
その夜もせっせと簿記の授業の試験勉強をしていたら、友人の増田から通話が来た。
ヒドいガラガラ声で、インフルエンザになってしまったと言う。
俺はてっきり自分の代わりに教授にレポートの提出期限を延ばすお願いをして欲しいとでも言ってくるかと思ったが、そうではなかった。
自分の代わりに舞台を観に行って欲しい、との事だった。
「舞台?何の?俺詳しくないよ?」
「いや、ダイジョウブだって・・・オレのカノジョがカイセツするから・・・」
聞けば増田の彼女は他大学で演劇を学んでいるらしく、二人はしょっちゅうデートで舞台を観に行っているらしい。
いつもは小劇場とか学生団体の割と規模の小さく安く観る事ができる舞台を観ているらしいのだが、明日のその舞台は多くの人気俳優が出演するプロのものらしく、チケットは全日程で完売する程のものだとか。
「カネいらね・・・から、タノむ・・・アミがタノシミにしてて・・・」
彼女はアミって言うのか、まあそんな事はどうでもいい。
俺は正直芸術方面はからっきし詳しくないから舞台は興味ないし、今は試験準備期間としてバイトを休んでいるのだが、行かないとか言ってしまうと増田もアミちゃんもチケットもかわいそうだ。
「わかった、代わりに行ってやるよ」
「オオ・・・ココロのトモよ・・・」
電話を切ってしばらくすると、今度は増田の彼女の亜実ちゃんから電話が来て明日の待ち合わせを決めた。
亜実ちゃんは電話口で興奮気味に謝罪と喜びを伝えてくれ、直接会った時もすごい勢いでひとしきり謝った後、これから見る舞台がいかに素晴らしいものかを語ってくれた。
「優生君、超ー運がいいよ!前日に観ようと思っても絶対チケット手に入らないんだから!トシもツいてないよねー、よりによってこのタイミングでインフルなんて」
「そんなに凄い舞台なの?」
「もうヤバイって!」
亜実ちゃんは有料のパンフレットまで買って、出演する役者一人一人について細かく説明してくれただけでなく、照明や音響の担当まで詳しく解説してくれる。
「あ、始まるよ。優生君、スマホの電源切ってね」
客席の明かりが完全に暗くなる寸前で慌てて携帯の電源を落とし、カバンに入れて顔を上げると緞帳がゆっくりと上がって行く。
それに呼応するかのように俺の胸は加速しながら弾み始めた。
なんだろう、この高揚感は。
暗闇で何も見えないのに、何かが起きることを察している両目は瞬きさえ忘れている。
そして仄暗い明かりが一筋差し、照らされた舞台。
そこには別世界が広がっていた。
十九世紀・パリ。
クラシカルで華美な衣装に身を包んだ大勢の役者達。
初めて観るプロの役者の生の演技。
俺は瞬く間に現実も自分が誰であるかも忘れ、その世界の一部になっていた。
そしてあの瞬間。
一人の少女が、不安げな、緊張した面持ちで舞台の中央に進み出て歌い始めた。
その歌声は繊細で、可憐で、人間の声とは思えない程に高く、それなのに力強く、水面を駆け抜ける波のように広がり劇場を覆い尽くし、その少女が歌い終わると呆然とする俺を除く全ての観客が一斉に立ち上がって盛大な拍手を送った。
さっきまでの自信のなさが嘘の様に、満面の笑みを浮かべた少女は新人のオペラ歌手の役で、戸惑いながら歌い始め、歌い終わって観客の拍手の中で明るい笑顔を見せるのは、彼女の歌手としての突然のデビューが成功した事を我々観客の反応を交えて示した演出で、俺は出だしのその場面でもう魂を抜かれた。
ライバルの歌手達、貴族、ヒロインであるオペラ歌手の少女に執念を燃やす怪しい男が入り乱れ、舞台は何度も明るくなったり不気味に薄暗くなったりを繰り返し、観る者の感情を掻き立てる音楽が激しく、切なく、物語の世界を際立たせる。
あっという間に時間は経ちカーテンコールとなり、最後から二番目にあの少女が登場し客席に向かって深くお辞儀をすると割れんばかりの歓声が挙がった。
俺も気付いたら周りの観客同様立ち上がって、掌の痛みなど気にせず最大の拍手を送っていた。
両手を精一杯伸ばしながら、この感動は、こんな拍手なんかじゃ伝わらないと思いながら。
言うまでもないが、この時のオペラ歌手の少女役が真優莉であり、この舞台を観た事がきっかけで俺はあっという間に演劇の素晴らしさにハマってしまったのである。
以来、亜実ちゃんと増田が舞台を観に行く時は俺も一緒に行くようになり、大学の演劇サークルの公演も必ず観るようになった。
この事務所でのバイトの話も亜実ちゃん経由で来たものであり、綾辻社長は亜実ちゃんの大学の演劇学科で非常勤講師も務めていて亜実ちゃんとも顔なじみで、今年に入ってバイト募集しているから誰か興味ないかと声を掛けられた亜実ちゃんが俺に連絡してきたのだ。
その時俺は上京してからずっとバイトしていた居酒屋から正社員にならないかと誘われていて、就職活動もしたがどうもサラリーマンになることがピンと来ず、それもアリかなあとぼんやり思っていた所だった。
そこに舞い込んだ演劇の世界への招待状。
古巣の居酒屋の社員と未知の世界のバイト。天秤に掛けた結果、やや不安ではあったが好奇心が勝り今に至る。
実際、この仕事は実に楽しい。
やっている事は雑用だが、こんな事もするのかという驚きが溢れている。
パーカーとジーパンという自由な服装でいいというのもありがたい。
何よりこの世界の表も裏も知る事ができる。
おまけに関係者というだけでこれまでにタダで三度も舞台を観させてもらった。
一緒に仕事する綾辻社長は穏やかで優しい初老の紳士で、三崎さんもクールでちょっと毒舌だけどキホン親切だ。
所属している役者の多くはみんな俺よりずっと年上だが良い人達で、何も知らない俺を可愛がって色々と教えてくれる。
しかし!
どうにもこうにも真優莉だけが俺を敵視する。
綾辻社長に初めて真優莉を紹介された時、同い年だから友達になってあげてと言われ、俺は仲良くしようとしたのだ。
できれば仕事の話とか聞きたいなと思っていたのだが、しかしこの調子である。
でも辞めるわけにはいかない。
俺はもっと舞台を観てみたいし、演劇の事を知りたい。
真優莉の事は俺だって嫌いだけど、でもそれとは別に真優莉の舞台だってもっと観たいのだ。
魂を抜かれた弱みである。
部屋の中には俺が叩くパソコンのキーボードの音だけが響き、しばらく居心地の悪い沈黙が続いていたが、そこに天の使い達が賑やかに事務所のドアを開け現れた。
「ゆーうせーいさん!」
「あれ?時ちゃん!」
ぱっちりとした目が可愛い時ちゃんが、明るい笑顔で靴を脱ぎ近寄ってくる。
「優生さーん、久し振り!」
「優生さん、会いたかったー!」
時ちゃんの後に四人、女の子が続いて入ってくる。
「モアちゃん、李衣ちゃん、宇美ちゃん、咲ちゃん!どうしたの?」
「優生さんに会いたくて来ちゃったー!」
李衣ちゃんはそう言って俺の腕にぶらさがるように、自分の腕を絡ませてくる。
「優生さん、この前の約束まだだよ!」
「この前の約束って?」
「もーう!」
時ちゃんがふくれっ面で俺を睨む。
「オーディション受かったからお祝いしてくれるって言ってたじゃん!」
「あ、そっか、ごめん!」
「いつにするー?」
「俺は仕事終わりならいつでもいいよ」
女の子達はきゃあきゃあ賑やかにスマホのスケジュールアプリを開いている。
真優莉と二人っきりの監獄から抜け出せた俺は神に感謝した。
この女の子達はウチの事務所所属の演劇ユニット「東京・百花繚乱花絵巻」のメンバーである。
一番人気は宗田時子ちゃん、十九歳。
ちょっと気の強い目が印象的な美少女で、高校生の時からエキストラ事務所に入っていた女優志望の女の子。
父親はプロ野球選手の宗田ゴンゾー。
時ちゃんの次に人気があるのはハワイ出身の伊藤モアナちゃん、十八歳。
ダンスが得意で健康的に日焼けしたサーフガールのモアちゃんはいるだけで場が華やかになる。
元アイドルの市川李衣菜ちゃんは二十歳。
三年間劇場アイドルをやっていたから誰よりも舞台に立つ事に慣れている。
鈴原宇美ちゃんは現役高校三年生。
ミスコンでファイナリストになった経歴がある。
藤岡咲ちゃんはメンバーの中で最年長の二十一歳で、そこはやはりみんなのお姉さん、一番しっかりしていて落ち着いている。
ボブカットの髪型がよく似合っていて、女性らしい柔らかさがあり、他の子達とはちょっと雰囲気が異なる。
グループアイドルの中に一人モデルが混ざって良い意味でちょっと浮いているような感じがすると思うのは俺だけだろうか。
咲ちゃんを除くこの四人、なんとこの秋にドラマ化される平成の歌姫・山咲あゆみのデビュー秘話を描いたドラマの出演者オーディションに合格したのだ。
主人公のライバルアイドル役という、まさに四人にうってつけの役である。
「やばーい、超嬉しい!マサ役の五浦さんに早く会いたいー!」
「CDデビューとかできちゃったらどうしよー!」
「えーそれいい!ヴィーベックスからCD出したーい!」
「優生さん、うちら頑張ったんだからね!」
みんな嬉しそうだから俺まで嬉しくなる。
「みんな、お祝いだからケーキも用意しよう」
「やったぁー!」
「メッセージも入れて欲しい!」
メッセージか、何がいいかな。
祝・ドラマ出演決定!とか?いや、花絵巻全国進出記念!の方がいいかな。
そんな事を考えながら、みんなでどこのケーキ屋がいいか検索しようとした時だった。
パアン!という音が部屋中に響いた。
音がした方へ反射的に顔を向けると、読んでいた本を持つ手をソファ前のテーブルに置いている真優莉が、冷ややかで、それでいて怒りの炎を宿した瞳でこちらを見ていた。
あの音は、真優莉が本をテーブルに叩きつけた音だ。
「え、なに?」
「室町さん怖いんだけど・・・」
女の子達が怯えているにも関わらず、むしろ真優莉はその形相を崩さず、そしてよく通る声で発したその一声で、この場の空気を完全に凍らせた。
「・・・たかだかオーディション一つ合格したくらいでこの浮かれようだなんて、どこの田舎者よ、アンタ達。その程度のオツムだからヴィーベックスからCDデビューとか言えるのかしら。この業界も舐められたものだわ」
あまりの暴言にあっけにとられる俺達の中から、我に返り噛み付いたのは時ちゃんだった。
「ちょっと!今なんて言った!」
「記憶力も悪いだなんて悪夢だわ。それでよく台本を覚える仕事をしようとしているわね」
まるで、しているのは他愛もない世間話ですと言わんばかりにバッグを引き寄せ本を入れながら、しかし獲物に確実にとどめを刺す毒の籠った言葉を放つ。
「頭が悪すぎて自分の向き不向きについてさえ考える事もできないのかしら」
火が上がった天ぷら鍋に水をかけると、水蒸気爆発を起こす。
俺は直接その光景を見た事はないが、今、目の前でそれに近しい事は起こった。
真優莉の言葉で花絵巻の四人が爆発したのだ。
「はあ?!あんた何様なのよ!」
「ちょっと売れてるからっていい気になってんじゃねーよ!」
「うちらの事バカにしてんの?!」
「社長にチクるよ!」
その反撃を聞いた真優莉はため息をつき、頭を小さく振った。
「バカは相手にできないわ」
バッグを持って立ち上がろうとする真優莉の前に、時ちゃんが躍り出る。
「あんた何なの?!ケンカ売るだけ売ってさっさと帰るつもり?!偉そうな事言ってるけど昼間っから事務所で本読んでる暇があるんだから、本当はあんただって仕事減ってるんじゃないの?!」
時ちゃんのその言葉に、モアちゃんと李衣ちゃんと宇美ちゃんがクスクス笑う。
「ちょっと時子、止めなよ、先輩にそういう事言うの・・・」
咲ちゃんが宥めようとするが時ちゃんは止まらない。
「今まであんたがどれだけ稼いできたかは知らないけど、後輩に無駄に当たり散らすような事して、この先同じ様に仕事できると思わない方がいいわよ!私達だって綾辻社長や現場で会う人に、あんたに暴言吐かれたって言う事くらいできるんだから!」
「そうよ!SNSに書き込まれてもいいの!」
「ネットの時代ナメんじゃないわよ!」
「ちょっと、止めろみんな!落ち着け!」
今にも真優莉に飛び掛かりそうになる四人の前に立ちはだかってはみたが、女子四人分の殺気は凄まじい。
修羅場に遭遇したのが初めての俺は、どうすればいいのか分からずオタついてしまう。
取りあえずさっさと真優莉が帰ってくれさえすればみんなは落ち着くだろうから、それを期待したがモンスターはさらに火柱の上がる天ぷら鍋に水をぶっ掛ける。
「何がネットの時代よ、バカバカしい」
頭を左右に振って、遠心力で長く艶やかな黒髪を後ろに払う。
美しい仕草というのは、女性にとって臨戦態勢が整った合図らしい。
「あんた達みたいな下っ端役者はねえ、やるべき事が山の様にあるのよ。役を貰えたんなら撮影に入るまでに死ぬほど準備しなきゃならないのに、浮かれてお祝いしてケーキ食べようだなんて言ってるんじゃ大した演技は出来ないわよ。美意識のカケラもないくせにご大層な夢を持ってるんだからわざわざ忠告してあげたんだけど、そんな事も分からないの?」
「ちょっと待て!」
俺は思わず割って入ってしまった。
「ケーキ食べようって言ったのは俺なんだから、俺を責めろよ!女優を太らせるなって!それにみんなはまだ新人なんだから分からない事はいっぱいあって当然だろ?!真優莉の方が経験が長いんだから、わざわざ喧嘩腰じゃなくて冷静なアドバイスとして話してやれよ!」
「へえ~・・・、ずいぶんお優しいのねえ、マネージャーでもないくせに」
真優莉の表情に、一層深い毒気が現れる。
「べ、別に俺はそういう立場じゃないけど、日頃頑張っている子を応援しようとするのは事務所の人間として当然だろ!」
「じゃあ私は日頃頑張ってないから応援しないってわけ?!」
「なんでそういう事になるんだよ!」
「そういう事でしょ!」
なぜか今度は真優莉の鍋から火柱が上がった。
「優生はねえ、この業界の事をなんにも知ろうとしないのよ!いい?この世界はね、掃いて捨てるほど予備軍がいるの!みんないつ何時チャンスが来てもいいように、眠らずに努力しているの!昨日まで友達だった相手だって、いざとなれば踏みつけて蹴飛ばしてでも上に行かなきゃいけない事だってたくさんあるのよ!」
白い肌が赤くなるほど高揚しながら真優莉は叫び、その迫力に女の子達はたじろぎ黙った。
「この子達は絶対売れないって断言できるわ!優生が何を以て頑張っているって言うのか知らないけど、姿勢は悪いし筋肉も付いてないし発声だってなってないのよ!自分が今どのレベルにいるのか客観的に見る事もできない三軍を、数だけ集めたところで何にもなりやしないわよ!」
真優莉はそう言い放つと、俺を突き飛ばし部屋を出ていこうとした。俺は思わずバッグを持っていない方の腕を掴む。
「その言い方はないだろ!お前と違ってみんなは繊細なんだよ!」
刹那、俺のこめかみに白くて硬いプラダが叩き付けられた。
「げふっ!」
横によろけてから後ろにひっくり返って尻もちをつくと、一斉に花絵巻の子達が駆け寄って来た。
「優生さん!」
「大丈夫?!」
俺を取り囲む顔の向こう側で、真優莉が事務所のドアから出ていくのが見えた。
「信じらんない!あの暴力女!」
「あんな奴訴えて潰してやろうよ!」
「いいー!裁判費用で破産させてやろう!」
「きゃー!そしたらプラダも質屋行きー!」
怒り心頭のみんなは真優莉を口汚く罵り嘲笑いまくる。
・・・存外、繊細ではないようだった。
「優生さん、見ててね。うちらあの女を叩き落とす計画練ってくるから」
「へ?」
「優生さんだってあんなクソビッチいない方がいいでしょ?!」
・・・ちょっと待て、なんでそうなるんだ?
「ねえ、止めようよ・・・。どんなにムカついても先輩なんだし、ドラマだって決まったばっかりなんだから・・・」
一人困惑する咲ちゃんに、時ちゃんとモアちゃんが激しく吠えたてる。
「咲はプライドってもんがないの?!」
「バカにされたまんまで悔しくないの?!」
ヒートアップする熱量に、俺も咲ちゃんも成すすべがない。
「行こ!とにかく作戦を立てなきゃ!」
「優生さん、お祝いはアイツ追放するまでお預けね!」
そして四人は咲ちゃんを引っ張りながら来たときよりも一層騒がしく出て行き、一人残された俺はその場に倒れた。