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第一幕 美しきモンスター

 人生を変える雷に打たれた人間は、はたしてその後、幸せに生きるのだろうか?


 そんな事を考えながらアパートの外階段を降りて日向に出ると、六月の梅雨の晴れ間に降り注ぐ日光の眩しさが季節は夏に向かっている事を教えてくれる。


 自転車のサドルは熱を吸ってもうかなり熱い。


 長い年月雨風に晒されて錆びた鍵穴の差し込み口に鍵を差していると、後ろから声がした。


「優生君、おはよう」


 振り向くと、このアパート”ますみ荘”の大家のばあちゃんが玄関から出てきた。


「ばあちゃん、おはよう」

「これからお仕事?今日も暑くなりそうねえ」

「なんか今日最高気温三十度超すみたいだから、暑かったら必ずエアコン付けてよ」

「あら、そうなの。それは大変」


 ばあちゃんはもう御年八十歳を越していて、これまでにも何度か夏に熱中症で倒れた事がある。


 俺もその度に病院に付き添った。


「今日のお帰りは?夜の七時くらい?」

「んー、かなあ、順調に行けば」

「さくらんぼがたくさん来たから、帰ってきたら取りに来てちょうだい。冷やしておきますからね」

「まあじっすか!」

「東山君と大出君の分もあるの」

「あーじゃあ、夜声かけてみるよ」


 東山と大出は共に天下の東大の学生で、俺の部屋の両隣に住んでいる。


 ウチの大家のばあちゃんは本当にいい人で、しょっちゅう俺ら住人に食べ物をお裾分けしてくれるのだ。


 だからこの、駅から遠くてやや汚い築五十年超えの古アパートでも住み続けているんだろう、俺らは。


「ばあちゃん、ちゃんと水分取ってよ」

「ありがとうね、優生君。いってらっしゃい」

「いってきます」


 自転車にまたがってからばあちゃんに短く手を振り、ペダルを漕ぎ出した。


 帰ればさくらんぼが待っている。


 なんていい日だろう。


 ささやかな楽しみというのは、一日の終わりに取っておくのが一番だ。


 それだけで、今日もきっと俺を待ち構えているであろう憂鬱を乗り越える力になる。


 俺の名前は小峰優生(こみねゆうせい)


 平和とサブカルをこよなく愛する静岡出身の善良な東京都民だ。


 この春都内の大学の経済学部を卒業し、今は"とある理由"から"とある仕事"をバイトとしてやっている。


 自転車を漕ぎながら見慣れた景色をすり抜け職場に向かう体は初夏の風の爽やかさを感じているが、五臓六腑には二日酔いのような倦怠感が巻き起こる。


 そう、俺はある事に頭も内臓も痛めている。


 人生二十数年生きてきて初めて直面する、理不尽と不可解を掛け算したかのようなモンスターが、事ごとく俺を苛立たせるのだ。

 

 三軒茶屋の駅から徒歩だと五分位の場所に俺のバイト先はある。


 こじんまりとしたコンクリート建ての建物で、一階が事務所スペースになっていて二階と三階はマンション。


 この事務所スペースとなる一階が俺の職場だ。


 『オフィス綾辻(あやつじ)』。


 社名が書かれた郵便受けには今日も郵便物が溜まっている。


 ダイレクトメールやチラシなんかを取り除いても、その中の三分の一は、“彼女”へのファンレターだ。


 郵便物を抱えて玄関の前に立ち、鍵を回して中に入る。


 玄関からすぐに広がる広々とした部屋の右手にキッチンがあり、その前に四人掛けの大きめのダイニングテーブルとイスがある。


 ここが俺が仕事をするテーブルで、パソコンや筆記用具が置かれている。


 奥の窓の前にはソファがでんと構え、ローテーブルには雑誌が積まれ、ソファの傍らにある本棚は本やDVD、台本で隙間なく埋め尽くされている。


 地震が来たら、固定されている本棚は倒れなくても中のものは全部飛び出して凶器と化す。


 まあ仮にそうなったとしても、いつもこのソファを陣取っている“彼女”なら、それで怪我しても本望だろう。


 DVDも台本も、半分は“彼女”の出演作だ。


 壁の時計を見ると八時五十五分。


 今日は綾辻社長は一日不在で、ウェブデザイナー兼経理の三崎さんは午後からの出社、つまり午前中は俺一人なのである。


 神様!


 どうか、ああどうか!


 今日は“彼女”が来ませんように!


 この哀れなるコヒツジにそのお慈悲を!


 しかし祈り虚しく無情にも九時半頃、事務所のドアが開き、現れたモンスターと俺は嫌でも顔を合わせなければいけない。


「おはよう、優生。今日も相変わらず素敵な服装ね」


 優雅な動きで靴を脱ぎ、来客用のスリッパを履いて中に入ってくるこの女。


 開口一番、俺の全身GUコーデに嫌味を投げてくるだけの事はある、ノースリーブの紺色レースワンピ―スに白いカーディガン、腕には華奢なゴールドのブレスレットとプラダの白いバッグを下げている。


「・・・おはよう。ファンレター来てたから持ってけよ」


 あらかじめ仕分けしておいた郵便物はテーブルの上に並べて置いた。


 今日来ていたファンレターは五通、いずれも差出人は定期的に手紙を書いてくれる、古参のファンからだった。


「みんな律儀よねえ、こうして毎回私の仕事の感想をわざわざ紙に書いて切手貼って送ってくれるんだもの。どこかの新米スタッフも見習ってほしいものだわあ」

「なんだよ、茶でも淹れればいいのかよ」

「あら。私は、私の仕事をよお~く見て、感想を紙に書け、と言ったのよ。いつお茶を淹れろと言った?読解力まで持ち合わせていないの?」


 思わず鈍器を探そうとする己を制している間に、彼女は窓際のソファに腰かけ細い両脚を座面に乗せ、背もたれに寄りかかりながらバッグから取り出した本を読み始めた。


 白い遮光カーテンから滲む光を背に、ソファの上で本を読む姿はそれだけで絵になる。


 長い艶やかな黒髪は光を反射し、まるでシルクのベールを被っているかのようだ。


 本を読む目と文字を追っているのか少し動いている唇、その間を繋ぐ通った鼻筋、全てが完璧に一ミリの誤差なく配置された美しい顔。


 まさに美の黄金比。


 そのうち美術の教科書にでも載るかもしれない。


 しかしどんなに美しくとも性格が破綻していれば一緒にいて嬉しくない。


 そう、この美女こそが俺の憂鬱の元凶である。


 当代一の人気舞台女優、室町真優莉(むろまちまゆり)


 出演してきた舞台は数知れず、CM、ナレーションの仕事もこなし、その美貌から美容雑誌や広告のモデルとしてのオファーも途切れる事がない。


 一般的な知名度がそこまで高くはないのはドラマや映画への出演が少ないせいだが、演劇ファンなら真優莉の存在を知らないものはいない程に人気と実力を兼ね備えている。


 俺も真優莉のことは本当にすごいと思っているし、スタッフとして影ながら全力でサポートしようと務めている。


 しかしなぜか、どういう事なのか、こうして真優莉は俺に対してめちゃくちゃ態度が悪いのだ!

 

 何か不興を買うような事をしたのかと思い巡らせても、そもそもバイトを始めた最初の頃は全然顔を合わせなかったし、あの頃は真優莉だって足繁く事務所に来ていた訳ではない。


 いつの頃からか仕事が入っていない時間はここに来て台本や本を読んだりするようになり、そして俺に嫌味を言いまくり、俺の仕事を監視してはケチをつけまくり、やれアタシのファンを見習え、やれアタシの仕事を優先しろと小姑の如く注文を付け、こちらが言い返すと倍に返され最終的に喧嘩になる。


 一度綾辻社長と三崎さんにそれとなく相談してみたが、綾辻社長は笑って


「だあいじょうぶ、大丈夫。全然気にしなくていいから」


 と言うだけで、三崎さんに至ってはなんか微妙にニヤニヤしているから、この室町真優莉という女優は対人能力にやや難有りな子なのかなと思ってこれまで過ごしてきたが、恐らくそうではない。


 コイツは・・・




 明らかに俺に敵意を抱いている。




 視線を感じて振り向き目が合うと、不機嫌そうにプイっとそっぽを向く。


 何見てんの!と怒鳴られた事もあった。


 まあ、人間誰しも一人や二人、ソリの合わない人間というのはどうしたっているもんだ、それ自体は否定しない。


 でも悪態付くのは止めてほしい!


 なんで嫌いな人間がいる場に読書しに来るのかなあと思いながら、事務作業を黙々と進める。

 

 俺がなぜこのハラスメント一歩手前の行為に耐え忍んでいるのか?


 普通の人間ならとっとと辞めるのが正解だと思うだろうが、それができない深い訳がある。


 そう、実は、俺の後ろで読書するこの美しきモンスターこそが、俺の人生を変える雷だったのだ。

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