第15話 夏香の悲しみ
その日の深夜、拓也の部屋。扉を二度、叩く音。
「兄貴、起きてる?」
夏香が、部屋の外から拓也へ声を掛ける。拓也はベッドの上で上半身を起こし、扉の方へ視線を向けた。
「ああ、起きてるぞ。どうしたんだよ夏香、こんな夜更けに?」
「あのさ、ちょっと部屋に入ってもいいかな? どうしても、兄貴に話したい事があるの」
「別に構わないから、部屋に入って来いよ」
「うん、分かった。じゃあ、入るね」
扉が静かに開き、夏香が部屋の中へと入る。扉の横に部屋の明かりを点けるスイッチがある為、拓也は彼女にそのスイッチを入れてくれと頼んだ。
だが、夏香は――
「部屋の明かりは、消したままでお願い」
「え? 何で?」
「いいから、このままでお願い」
「わ、分かった。別に夏香がいいっていうなら、俺はこのままでもいいよ」
「ありがとう」
カーテンの隙間から差し込む月の光で、部屋の中を微かに照らしている。夏香はティーシャツとショートパンツという姿で、露出度の高い服装をしていた。拓也も妹とは言え、そんな姿の彼女を少なからず意識しているのだろう、さっきから視点が定まっていない。
拓也の気持ちを知ってか知らずかは分からないが、夏香はベッドの側まで歩いて来ると、クルッと後ろ向きになってベッドの端に腰を下ろした。彼女は拓也に対して背を向けた状態で座る形となった。
夏香の姿はいつもとは違い、全く元気がない。暫く経っても彼女は、ただ俯き黙ったままだった。そんないつもと違う彼女を見兼ねたのか、拓也は彼女の体を後ろから優しく包み込んだ。
夏香の体が一瞬小さく動いたが、その後は拓也の事を殴るでも罵倒するでもなく、ただ成すがままにじっとしていた。
「夏香、俺を殴らないのか?」
拓也は夏香の耳元で、静かに囁いた。
「今は……。今は、このままでいいの……。あたしが、そうして欲しいって思っているから」
「何か、悩みでもあるのか? もし何かあるなら、俺に何でも話してくれていいんだぞ。この俺が悩みだろうが何だろうが、全てを解決してやるからさ」
夏香は、「クスッ」と小さく声に出して笑った。
「兄貴は凄いんだね。兄貴は、あたしのヒーローか何かなの?」
「お、おお、そうだぞ。俺は夏香の兄であり、そして夏香を助けるヒーローでもあるのさ。何だ、いまごろ気が付いたのかよ?」
「全く、兄貴は調子いいんだから。ヒーローのくせして、いつもあたしに殴られてるじゃん」
「ば、ばかっ、あ、あれは、わざと夏香に殴らせているんだよ」
「はいはい、分かりました」
彼女は、くすくすと笑った。
「それで、本当にどうしたんだ? 悩みがあるなら、ちゃんと相談に乗るぞ」
暫しの沈黙から、夏香は口を開いた。
「あたしね、時々……。本当に時々なんだけど、今みたいにどうしようもなく、寂しくなる時があるんだ」
「そう……なのか?」
「うん……。兄貴、ちょっと驚いたでしょ?」
「あ、ああ。まさか、いつも元気一杯の夏香が――って思ったけどさ。でも、それには、何か訳があるんだろ?」
また、暫しの沈黙の後、彼女は頷いた。
「あたしと冬香が生まれた後、暫くして母さんは亡くなったんでしょ?」
「ああ、そうらしいな。俺も、親父から聞いた話までしか分からないけどな」
「あたしね、写真でしか知らない母さんの事を凄く想う時があるんだ。あたしたちの母さんって、どんな人だったんだろう? 一度だけでいいから、あたしの名前を呼んで欲しい。一度だけでいいから、あたしの事を抱きしめて欲しい。一度だけでいいから、一緒に……って、絶対に叶う事なんてないのにね。そんな風に思っちゃうと、何だか凄く切なくて、凄く寂しくなって……」
夏香の肩が、小刻みに震えている。そして、彼女の目から涙が零れた。




