第3章 9話 狼煙
巣穴の外側で、最初の悲鳴が上がった。
それは討伐隊の側面を守っていた弓手の一人だった。
「――接敵!」
「左右から来るぞ!」
森の奥から、
岩の陰から、
ゴブリンが、
“さっきまでそこにいなかったはずの場所”から湧く。
洞窟の中も同様だった。
いたるところから湧くゴブリン。
グレンが盾を構え、
最前列に滑り込む。
「レン殿、ハル殿!前は私が支えます!」
レンは一歩前に出て、
風刃を通路の奥へと走らせた。
悲鳴が二つ、闇に溶ける。
だが――
減らない。
むしろ、
“増えている”。
(……本当に、奥で増えてる)
その時だった。
通路のさらに奥。
岩の割れ目の向こう。
“赤い影”が、
一瞬だけ、立った。
長い耳。
歪んだ笑み。
こちらを“評価する”ような視線。
次の瞬間、
影は消える。
「……今の」
レンの喉が鳴る。
「見た?」
ハルが、掠れた声で言った。
ルゥは、何も言わずに頷いた。
敵は、
もう――
遊びの段階を終えていた。
*
巣穴の外――
森の縁で、地面が揺れた。
トロルの拳が、
盾ごと前衛の一人を吹き飛ばす。
「ぐっ――!」
土を削りながら、
男の体が転がる。
「立て! 立てるか!」
後衛の回復役が駆け寄るが、
次の瞬間、
ウルフ種が跳びかかった。
「来るぞ、散れ!」
矢が走る。
魔術が炸裂する。
だが――
敵の数が、多すぎる。
ゴブリンは、
トロルとウルフ種の影に隠れながら、
こちらの陣形を崩す役に徹していた。
知能のある配置。
“戦える奴”の指示がある動き。
「……ちっ」
「これ、ゴブリンの動きじゃねえぞ!」
誰かが叫ぶ。
*
一方、巣穴の内側。
通路は狭く、
横一列にしか並べない。
グレンの盾に、
ゴブリンの斧が叩きつけられる。
「……くっ!」
レンは横から踏み込み、
風刃で通路の奥を薙いだ。
二体が倒れる。
だが、
次の瞬間には、
“いなかったはずの場所”から
また別の個体が現れる。
(……無限に湧くみたいだ)
ハルが、
拘束魔法で一体を縫い止める。
「今のうちに!」
シリィの風が、
通路の天井を抉る。
悲鳴。
血の匂い。
湿った空気が、
一気に“戦場の臭い”に変わる。
その時――
通路の奥。
岩の裂け目の向こうに、
“赤い影”が、
また一瞬だけ現れた。
笑っている。
はっきりと、
“面白がっている”顔で。
次の瞬間、
影は消えた。
「……見せたな」
シャルルが、歯を噛みしめる。
*
外側の戦場で、
“道”が開いた。
トロルが一歩下がり、
ウルフ種の群れが、
意図的に包囲を崩す。
「……あそこ」
「包囲から抜けられるぞ」
若い冒険者が叫ぶ。
本能的に、その隙間へと走る。
だが――
その先は、
“道”ではなかった。
地面が、
ずるりと沈む。
「――え?」
足元の土が崩れ、
体が、そのまま落ちていく。
仕掛けられていた落とし穴。
下には、
尖らせた杭。
短い悲鳴。
骨の折れる音。
逃げた者の声が、
途中で途切れた。
包囲は、
再び、何事もなかったかのように閉じる。
ウルフ種が、
満足げに牙を鳴らした。
*
巣穴の奥。
戦いの音が、少しだけ遠のいた瞬間だった。
血の匂いと、
土の匂いが混じる空気の中で、
闇が――
ゆっくりと“形”を持ち始めた。
影が、立ち上がる。
それは、
ゴブリンの輪郭をしていた。
だが、どこかが、決定的に“違う”。
背は、他のゴブリンよりわずかに高い。
痩せているのに、無駄な肉がなく、
獣のように“よく動く体”をしている。
頭頂部は、
赤い帽子を被っているように赤く変色している。
不気味な赤色。
顔には、
歪んだ笑み。
目は、
こちらを“敵”として見ていない。
獲物でもない。
実験材料でもない。
――評価対象。
「……ようやく、現れたな」
シャルルが、低く呟いた。
レッドキャップは、
通路の向こう側から、
一歩だけ前に出た。
ゴブリンの群れが、
自然と左右に割れる。
それだけで、“序列”が分かる動きだった。
赤い目が、
一人ずつをなぞる。
ジキル。
シャルル。
グレン。
レン。
ハル。
ルゥ。
“誰が脅威か”を、
一瞬で選別している目。
次の瞬間。
赤い帽子の影が、
ふっと揺れた。
レッドキャップは、
もうそこにいなかった。
代わりに――
通路の奥から、
再び、
ゴブリンたちの雄叫びが湧き上がる。
“主”の合図だ。
地獄の続きを、
始めろという命令。
レンは、
剣を強く握りしめた。
(……あれが、レッドキャップか)
ただ強いだけの敵なら、
まだ良かった。
だが、
あれは――
“楽しんでいる”。
それが、何よりも、
背筋を凍らせた。
ゴブリンの咆哮が、洞窟に反響する。
通路の奥から、さらに影が押し寄せる。
数で押し潰す気だ。
グレンの盾が、
重い衝撃に軋む。
「……数が、多い!」
その時――
ルゥの近くで、
小さな光が揺れた。
青白い、
水滴のような光。
「……?」
ルゥが、思わず息を呑む。
次の瞬間。
湿った地面の水分が、
すうっと集まる。
水が、
形を持つ。
宙に浮かぶ、
人の輪郭をした“水”。
水の精霊だった。
『……遅れて、ごめん』
澄んだ声が、
ルゥの耳元に直接響く。
「もしかして、ティーユ……?」
「……きて、くれたの?」
『シリィちゃんの声が聞こえたの』
水の精霊は、
そう言って、
柔らかく笑った。
次の瞬間。
通路に溜まった水分が、
一気に広がる。
ぬかるみが、
一斉に“氷結”した。
足場そのものが、敵を拒む地形へと変わる。
足を踏み出していたゴブリンたちが、
次々と滑り、
壁や仲間に激突する。
「……今だ!」
シャルルが叫ぶ。
レンの風刃が走り、
転倒した個体を薙ぐ。
グレンの盾が、
転んだ敵をまとめて押し潰す。
初めて、
“押し返した”感触があった。
レッドキャップの赤い目が、
通路の奥で、
一瞬だけ細められた気がした。
*
少し時を遡った、森の外縁。
遠くの戦場の異変を、
二つの影が見つめていた。
「……あれ、様子おかしくない?」
フールーが、
耳をぴくりと動かす。
獣人特有の鋭い感覚が、
空気の“濁り”を捉えていた。
「うん」
ナナが、
遠眼鏡を覗いたまま頷く。
「あれって、緊急信号だよね」
「……やばいよね、これ」
「何かあったのかな」
フールーは、
背負っていた槍を握り直す。
「行こ」
「助けにいかなきゃ」
ナナは、強く頷いた。
「……連れて来よう」
「他の冒険者も」
二人は、
街へと駆けた。
*
巣穴の内側。
水の精霊が、
通路に薄い霧を広げる。
『視界、奪う』
湿った霧の中、
ゴブリンたちの動きが鈍る。
ハルの拘束魔法が、
霧の向こうで光る。
「……よし、押し返せる!」
レンは、
剣を構え直した。
“詰みかけていた”戦場が、
ほんの少しだけ、
“戦える場所”に変わる。
レッドキャップは、
まだ姿を見せない。
だが――
霧の奥で、
確実にこちらの“変化”を
観察している気配があった。
(……効いてる)
レンは、そう確信した。
敵は、
初めて“想定外”を
突きつけられている。
この戦場は、
まだ――
取り返せる。




