第1章 1話 冒険のはじまり
木の匂いがした。
深く、長い眠りから覚めたような感覚だった。
そっと目を開ける。
視界に広がっていたのは、転移前と変わらない部屋の中だった。
「……結局、転移はしたのか?」
独り言を漏らし、何気なく自分の手を見る。
そこに、言葉にしづらい違和感があった。
小さく息を吐き、「よいしょ」と声を出して立ち上がる。
横開きの扉に手をかけ、そっと開いた。
外に広がっていたのは、まったく別の光景だった。
背の高い木々が林立し、葉の隙間から光が降り注いでいる。
数時間前――あの場所で見た風景とは、
明らかに違う。
「……ほんとうに……」
言葉を失った。
信じてはいたが、理解がようやく追いついたのだ。
足元に視線を落として、靴を履いていないことに気づく。
裸足のまま数歩進み、振り返った。
そこには、ぼろぼろの建物が佇んでいた。
最近まで、毎日のように見ていたあの建物だ。
「そういえば……」
神様が言っていた最低限の装備を思い出し、周囲を見回す。
建物に戻ろうとしたその時、脇――かつて掃除道具を置いていた場所
そこに、荷物が置かれているのが目に入った。
「掃除道具も一緒に来たのか……?」
意味のない呟きを漏らしながら近づくと、そこには確かに装備があった。
布製の袋、肘から先ほどの長さの剣、革製の防具一式、小さな木製の盾。
それに、片手ではギリギリ持てない程度の大きさの石板。
革鎧を手に取ったところで、自分の服装に気づく。
元の服ではなく、クリーム色の無地の長袖に変わっていた。
伸縮性はないが、丈夫そうだ。
鎧を被り、肩と腰のベルトを締める。
指先の出る手袋をはめ、ブーツ型の靴を履いた。
鏡はないが、悪くない気がする。
軽く跳ねてみると、体が驚くほど軽かった。
剣を振る。重みはあるが、扱えないほどではない。
ヴェールのおかげだろうか。
袋の中を確認する。紙包みが二つ、小さな袋が一つ、水袋、そして瓶が三本。
小袋の中には、銀色の硬貨が大小五枚ずつ入っていた。
水を一口含む。普通の水だ。
その時、神様の言葉を思い出した。
「食べられるかどうか分かるスキル……」
思いつく限りの名前を口にしてみるが、反応はない。
紙包みの中身は、干し肉のようなものと、加工された四角い茶色の塊だった。
食べるか迷っていると――
背後で、ガサッ、と音がした。
即座に剣を握り直し、膝を立てて腰を浮かせる。
袋の中身を戻しながら、視線は外さない。
ガサガサという音が近づく。心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。
袋を地面に置き、剣と盾を持って立ち上がった。
音が止まり、茂みから生き物が姿を現す。
胸より低い身長。二足歩行。緑色の体に、毛のないチンパンジーのような姿。
尖った耳と、匂いを嗅ぐように動く鼻。
「……ゴブリン」
次の瞬間、それは奇声を上げ、犬歯を剥き出しにして突進してきた。
逃げたい衝動を抑え、剣を構える。手が震える。
剣を振り下ろすが、大きく空を切った。
ゴブリンは避け、そのまま飛びかかってくる。
反射的に盾を振ると、衝撃とともにゴブリンが吹き飛んだ。
焦りが頭を埋め尽くす。
スキルは? ヴェールは? 脆弱な――
判断は早かった。逃げる。
袋を掴み、反対方向へ走り出す。だが、振り切れない。
森の中、慣れない装備では無理があった。
距離がわずかに空いた瞬間、足を取られ、盛大に転んだ。
「っ……!」
痛みは軽い。しかし剣と盾を落とした。
ゴブリンが近づく。歪んだ笑みを浮かべた。
後ずさるが、背後は木。逃げ場はない。
剣先を向け、ゴブリンが走り出そうとした、その瞬間――
「ぐぎゃっ!」
鈍い音。
ゴブリンが倒れた。
「スキルが発動した……?」
一瞬そう思ったが、後頭部に突き刺さった矢を見て、そうではないことだけは理解できた。




