第2章 8話 ブレイブ
レンは、先ほどダメージを受けた箇所にそっと触れた。
傷はすでに閉じ、血も流れていない。
だが――
確かに、削られたような違和感だけが残っている。
身体の奥、ヴェールの一部が欠けたような感覚。
意識を集中させ、魔力を流そうとした、その時。
「ちょっと、待って」
すぐ横から、ハルの声が飛んだ。
顔を上げるより早く、彼女は一歩近づいてくる。
「私がする」
「でも――」
「いいから」
有無を言わせない口調だった。
ハルは、そっとレンの腕を取る。
指先が、傷口の少し上に触れた。
「……癒しの光」
小さく紡がれた言葉と同時に、
柔らかな光が、ハルの掌から溢れ出す。
熱でも、冷たさでもない。
ただ、欠けていたものが満たされていく感覚。
さっきまで確かにあった“削られた感じ”が、
嘘のように薄れていく。
「……すごいな」
思わず漏れたレンの呟きに、
ハルは少しだけ視線を逸らした。
「巫女だから」
「これくらいは……」
だが、指先はほんのわずかに震えていた。
「回復は問題なしじゃな」
ジキルが、満足そうに頷く。
*
ゴブリンとアルミラージの構成石を回収し終えた頃、
周囲には、しばらく気配がなかった。
「依頼達成まで」
「残り、九体か」
シャルルが周囲を見回す。
「この辺りには、もういないな」
「移動するかの」
ジキルの言葉に従い、
一行は丘を越え、草地を抜け、
少し森寄りの区域へ足を踏み入れた。
――その時だった。
シャルルが、すっと手を上げる。
「……止まれ」
低い声。
全員が、反射的に足を止めた。
「前方、十三……」
「その奥に、一体でかいのがいる」
レンは、言われるまま視線を向ける。
木立の影。
揺れる枝葉の隙間に、緑がかった影がいくつも蠢いていた。
――まだ、こちらを見ていない。
ゴブリンたちは、地面を掘り返したり、
互いに小声で鳴き交わしたりしている。
そして、その少し奥。
一回り大きな影が、腕を組むように立っていた。
肩幅が広く、
粗末な鎧の隙間から覗く筋肉は、明らかに違う。
「……あれもゴブリンですか?」
声を潜めて尋ねるレンに、
シャルルが小さく頷く。
「ホブゴブリン」
「ゴブリンの進化個体だ」
「進化……?」
「生まれてから時間を経た個体か」
「あるいは――」
「聖核を食った個体ですね」
グレンが続ける。
「魔力を取り込み、進化する」
「群れの“長”になる存在です」
ホブゴブリンは、まだこちらに気づいていない。
だが、油断なく周囲を見渡す仕草には、
ただのゴブリンとは違う“知性”があった。
「ちょうどよいの」
ジキルが、静かに言う。
「グレン」
「はい」
「今回は守りに専念せい」
「攻撃には出るな」
「……承知しました」
「シャルル」
「ああ」
「おまえはサポートじゃ。レンにやらせろ」
「分かった」
「ハル」
「はい」
「……ブレイブを使え」
ハルは、はっとして息を呑んだ。
「……今、ですか」
「うむ」
「レンに勇者としての戦闘を経験させる」
ハルは、レンを見る。
迷いは、ほんの一瞬だけだった。
「……分かりました」
「レン」
ジキルが、低く告げる。
「ホブゴブリンは、お前が仕留めろ」
「巫女が契約した相手を対象に使えるスキルをつかって」
「それがブレイブですか?」
「そうじゃ、単純にステータスが上がる」
「感覚に慣れておけ」
「やってみます」
「勇者としての一歩じゃ」
レンは、短く頷いた。
「……はい」
「準備はええか?」
「今回は正面からじゃ」
全員が頷いたのを確認し、
ジキルは、わざと大きく声を出した。
――気付かせるために。
ゴブリンたちがこちらに気付く。
次の瞬間。
ホブゴブリンが、腕を振り上げた。
それを合図に一斉に散開する。
ハルは、胸元に手を当て、静かに詠唱する。
「――勇気よ、契約に応えよ」
「――《ブレイブ》」
淡い光が、レンの身体を包んだ。
血が、熱を帯びる。
視界が、わずかに研ぎ澄まされる。
体も剣も軽く感じる。
「……これが」
レンは、拳を握る。
力が、湧いてくる。
「来るぞ!」
シャルルの声
前列が圧をかけ、後列が回り込む。
明確な役割分担。
「――っ!」
レンは、正面の一体を斬り伏せる。
だが、すぐ次が来る。
「レン、右!」
シャルルの警告。
刹那。
グレンの盾が、横合いから滑り込んだ。
鈍い衝撃音。
「通さん」
グレンは、ただ守る。
一歩も、攻めに出ない。
だが、その存在が前線を保っていた。
ホブゴブリンが、吼える。
それだけで、ゴブリンたちの動きが引き締まる。
ホブゴブリンが、グレンに突進する。
全体重を乗せた一撃。
盾で受け止めるが、
地面を削りながら、押し込まれる。
「グレン!」
レンの声に反応する。
「問題ない」
その隙を突き、
ゴブリンたちがグレンに一斉に飛びかかる。
「――光縛」
二体が空中で光の輪に縛られる。
まだ残っていた一体をレンが斬り伏せる。
「風刃っ!」
見えない刃が放たれ、
拘束されたゴブリンの腹を裂いた。
――その瞬間。
ホブゴブリンが、グレンを振り払う。
そして、レンを見た。
獲物を定めた視線。
次の瞬間――
「天雷!」
シャルルのスキル。
雷が上空から落ち、
ホブゴブリンの動きを一瞬硬直させる。
「レン、今だ!」
レンは、全力で踏み込んだ。
ブレイブによって底上げされた力を、
迷いなく剣に乗せる。
――速すぎる。
自分の踏み込みが、
思った以上に深く、鋭い。
感覚が、ほんの一拍遅れた。
剣は確かに届いた――
だが。
刃は、浅い。
「――っ!」
ホブゴブリンの筋肉が、刃を弾いた。
深く入るはずだった一撃が、
表層を裂いただけで止まる。
力を、まだ使い切れていない。
身体が、
ブレイブで引き上げられた感覚に、
追いついていない。
ホブゴブリンが、吼える。
浅い傷をものともせず、
反撃の体勢に入ろうとする。
周囲のゴブリンたちも止まらない。
「来るぞ、数で押してくる!」
シャルルの声と同時に、左右から数体がレンへ殺到する。
「――通させません」
グレンが盾を構え、一歩踏み出した。
盾が地面を抉るほどの勢いで突進を受け止める。
鈍い音が重なり、二体、三体が弾き返される。
「後ろも!」
別方向から回り込もうとしたゴブリンに、
ハルが一歩前に出る。
「――光縛」
光が集まり、具現化した輪が二体を絡め取る。
完全ではない。
だが、動きを止めるには十分だった。
「レン!」
ハルの声が、確かに背中を押した。
その瞬間――
シャルルが、ホブゴブリンの死角に滑り込む。
刃ではない。
斬撃ですらない。
だが、足元を狙った一撃が、
ホブゴブリンの重心を、わずかに狂わせた。
「もう一度だ!」
レンは、歯を食いしばった。
「……はあああっ!」
踏み込みを、修正する。
重心を落とし、剣を振り抜く軌道を“理解して”振る。
次の一撃は、違った。
刃が、確かに“通った”。
急所を貫かれたホブゴブリンは、
大きく体を揺らし――
そのまま、地に崩れ落ちた。
指揮を失った残りのゴブリンたちは、
瞬く間に統制を失い、各個に撃破される。
――戦闘終了。
レンは、剣を下ろし、荒く息を吐いた。
胸の奥が、熱い。
怖かった。
苦しかった。
それでも――
「……倒した」
確かに、自分の手で。
ジキルは、満足そうに頷いた。
「よい」
「今のが、勇者としての一撃じゃ」




