第1章 17話 契約
村長の部屋の奥、簡易的に整えられた部屋に、二人きりの静寂が落ちた。
扉が閉じられる音が、やけに大きく響く。
机の上には、契約に使うのであろう、不思議な光を放つ石が置かれている。
淡く脈打つ光は、生き物の心臓のようだった。
シルフィは――いや、彼女は、しばらくその石を見つめたまま動かなかった。
「……覚えてるよね?」
唐突に、そう聞かれる。
覚えている。
――「これから先、たぶん……名前が、意味を持つ」
――「もし、何かあったら」
――「私が“シルフィ”じゃなくなったら」
――「そのときは――」
私は、無意識に拳を握っていた。
「……忘れるわけない」
そう答えると、彼女は少しだけ、困ったように笑った。
「なら、良かった」
そして、深く息を吸う。
「あ、大事なことを忘れてた」
「うん?」
「あなたの本当の名前を教えて?」
「……柊木蓮」
「分かった。……ありがとう」
「教えてくれて」
彼女は石に手を当てる。光が大きく脈打つ。
「ヒイラギレン」
「あなたは」
「神託の巫女と契約し」
「悪魔と向き合うことを、選びますか」
「向き合うのであれば」
「私の手を取り」
「私の真の名を」
私は彼女の手を握る。
あの時、預けられた名前を、はっきりと口にする。
「――ハル」
その名が、この部屋に落ちた瞬間。
彼女の身体が、びくりと震えた。
息が止まり、指先が強張る。
呼ばれることを分かっていても。
覚悟していても。
それでも、その名前は、彼女にとって“最後の一線”だった。
「……っ」
唇を噛み、必死に感情を抑える。
「……その名前で」
「呼ばれるの」
「約束、だったから」
目が、潤む。
「でも」
「いざ呼ばれると」
「やっぱり……怖いね」
私は、静かに言った。
「それでも」
「呼ばなきゃいけない時が来たって」
「ハルが、言ったんだ」
ハルは、しばらく俯いたまま動かなかった。
やがて、小さく、しかし確かに頷く。
「……うん」
「逃げないって」
「決めた、証拠だもんね」
彼女は、契約石を手に取った。
「神託の巫女ハルは」
一瞬、言葉を切り。
「――ハルは」
「ヒイラギレンと、契約する――」
光が、爆ぜる。
視界が白に染まり、胸の奥を貫く感覚。
痛みではない。
繋がったという、逃れようのない実感。
互いの鼓動が、重なり合う。
光が収まった時、ハルは膝をついていた。
私がハルの手を握りなおすと、ハルは小さく顔を上げる。
「……ねえ」
「一つ、言ってなかったことがある」
私は黙って、続きを待った。
「その名前」
「“ハル”って」
視線を落としたまま、指先に力を込める。
「ずっと」
「怖かった」
胸の奥が、わずかに揺れる。
「巫女としての名前だから?」
そう尋ねると、ハルは小さく首を振った。
「それだけじゃない」
「巫女って役割がね」
「全部、この名前に、くっついてきた」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「期待されることも」
「追われることも」
「隠されることも」
「……死ぬことも」
「全部」
「“ハル”にくっついてる」
唇が、わずかに震えた。
「だから」
「この名前は」
「鎖だと思ってた」
空気が、静かに沈む。
「逃げられないって、思い知らされる名前」
「生き方を選べないって」
「思い出させる名前」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……それでも」
静かに言う。
「呼んだ」
ハルが、こちらを見る。
「うん」
微かに笑う。
「それが」
「ずっと不思議で」
胸に手を当てる。
「怖かったはずなのに」
「呼ばれた瞬間」
「……嫌じゃなかった」
目が、わずかに潤む。
「初めて」
「この名前が」
「“終わり”じゃなくて」
「“始まり”って、感じた」
声が、震える。
「呪いの名前だって」
「思い込んでただけで」
「もしかしたら」
「最初から」
「誰かに呼ばれるための名前だったのかもしれない」
私は、はっきりと言った。
「そうだよ」
「少なくとも」
「オレにとっては」
「“ハル”は」
「隣に立つ人の名前だ」
ハルの呼吸が、止まる。
そして、ゆっくりと、顔を歪める。
「……ずるい」
涙が、一粒落ちた。
「そんなふうに言われたら」
「もう」
「呪いだなんて、言えなくなるじゃん」
私は、そっと手を握り直した。
「言わなくていい」
「これからは」
「希望の名前でいい」
ハルは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく、しかし確かに頷く。
「……うん」
「じゃあ」
「この名前で」
「ちゃんと、生きてみる」
その言葉は、震えていたが。
”逃げ”はなかった。
巫女として与えられた呪いの名は、
今、初めて、
誰かと並んで歩くための名前へと、意味を変えた。
ハルは、静かに目を閉じる。
その表情は、まだ怖さを残しながらも。
確かに、前を向いていた。
こうして。
約束された名前が呼ばれ、
逃げ場のない契約が結ばれた。
それは、勇者と巫女の契約であり、
同時に――
ハルという一人の人間が、生きる側を選んだ瞬間でもあった。




